牢屋問答
地球社会において、司教という地位がいかほどのものかというのは、その宗教組織に身を置いていない人間には実感があまりわかないものではある。
現代のキリスト教における事実上のトップが教皇だというのは常識としては知っていても、その直下に就く司教についてはよく知らないという人間は多いのではなかろうか。
俺自身、キリスト教信者というわけではないが、それでも司教という存在については多少耳にしたことはある。
しかし、その司教が実際にどのような仕事をしているのか、またどのような経緯で任命されるかについてはほとんど知らない。
分かっていることなど、せいぜい映画や小説、ゲームといった創作の中でのものぐらいだ。
例えが正しいかはともかく、教皇を社長とすると司教は常務、といった認識でしかない。
ではこの世界におけるヤゼス教の司教はどうかというと、概ねはキリスト教のそれと同じだ。
教皇を直接補佐する人間として叙任され、教会の実権がここでほぼ統括されている。
勿論教皇がトップであることは変わりなく、また国家を運営するために形式としてヤゼス教の地位とは別に貴族というのはあるのだが、それでもペルケティアが宗教国家という体を成している以上、司教の決定が国の動向を左右すると言っていい。
ちなみにこれら司教の上に枢機卿団がいるのだが、これは必ずしも用意されるというものではなく、教皇が必要とする場合にのみ、司教の位階にいる者の中から選出される特別な役職だ。
ほとんどの場合、経験を積んだ高齢の司教が選ばれることが多いのだが、選定の基準は時の教皇に委ねられるため、何らかの才か功績で若くして枢機卿へ任命された者も過去にはいたらしい。
これら枢機卿は、教皇が求めなければ一人も任命されないという時代もあるそうだが、現在に至るまでヤゼス教では枢機卿がいなかった時代というのは存在していない。
それほど枢機卿という地位は、教皇のアドバイザーとしての役割が大きい。
なお、枢機卿とは言ってはいるものの、この世界の共通語では『役選司教』という単語が正しいのだが、意外と枢機卿で普通に通じるのは、どうも過去にこの世界に来た地球の誰かが仕込んだ名残ではないかと俺は睨んでいる。
本来であれば、教皇の下に枢機卿と司教は地位の高さでは同列で扱われるのだが、長い年月故の綻びか、今では枢機卿が司教の上に立つという形になっている。
人が組織の中で競い合う中、どこかでこの構造が出来上がってしまったのだろうか。
とはいえ、枢機卿が政治の細々としたところにくちばしを突っ込むのは稀で、やはり主となって国の意思決定を司るのは司教達だ。
ヤゼス教においても、またペルケティアという国を動かす政治家としても、司教というのは凡人が辿り着ける権力の座としては最上位であると言っても過言ではない。
平民では一生口を利く機会がないのも珍しくはない、そんな最上位の聖職者とよもや牢屋の中で暢気に話をしようなどと、世の中というのはなんと奇縁に満ちていることだろうか。
「…腰を落ち着けて話しでも、と思ったのだがな。流石に椅子なんぞないか」
いざ何の話を仕掛けてくるのかと警戒している俺とは裏腹に、目の前の老人は何の気負いもない様子でグルリと視線を巡らし、椅子がないことを嘆く余裕っぷりを見せつける。
老体には確かに立ちっぱなしというのは辛いとは思うが、ないものは無いと諦めてもらうしかない。
一応濡れ衣ではあるが、罪人扱いの俺と二人っきりで牢にいるというのにこの態度は、権謀術数を生き抜いた司教に相応しく、実に堂々としたものだ。
外見からは六十か七十と予想するだが、相対して感じる魔力からは普人種の平均を逸脱しないあたり、見た目相応の年齢を重ねてきたと分かる。
やや足を引きずるような気は見える者の、背筋もほとんど曲がってはいないようで、まだまだ寿命は長いと思われる。
顔付だけなら穏やかな老人といった様子だが、先程付き添いの修道士を相手に一瞬見せた鋭い気配から、油断のならない人間だと確信した。
この国の謀の裏にボルド司教の影ありというスーリアの言葉を鵜呑みにするのもどうかと思ったが、直接顔を合わせてみれば強ち大袈裟とも言えない何かが感じられる。
とはいえ、ボルド司教が肉体的に老いていることは変わりなく、立ちっぱなしを憂う老人を見放すほど、俺は敬老精神を失ってはいない。
小さく溜息を吐き、右足の踵で石造りの床を強めに蹴る。
足を介して地面に魔力を流し、ボルド司教の背後の壁へ土魔術で干渉して一人が腰かけられる程度の出っ張りを作り出す。
石を変形させるのは魔力の消費も大きく時間もかかるところだが、これぐらいであればすぐに出来る。
牢屋の壁に起きた変化に一瞬驚いたようだが、そこに椅子が出来上がっているのに気付くと、ボルド司教が微かに笑みを見せた。
「おぉ、すごいものだな。手練れの魔術師だとは聞いていたが、これほどとは。わしも随分生きているせいで魔術師をそれなりに見てきたが、石壁をこうまで操って見せた者は初めてだ」
興味深そうに石の椅子を撫でているその様子は、純粋に土魔術が成せる業としての意外性が面白いようだ。
普通の魔術師に比べると俺の魔術は少し使い方が違うため、初めて見る人間のリアクションとしてはこんなもんだろう。
「楽しんでくれてるようで何よりだ。そいつはあんたのために作った椅子だ。座るといい」
「それはありがたい。強がってはみたが、この歳になると立ちっぱなしもつらくてな。どれ…ほう、小動もせんか。大したものだ」
椅子を勧めると特に警戒することもなく、あっさりと腰掛けていく。
普通なら見慣れない魔術で作られた構造体へ身を預けるのに多少なりとも躊躇するものだが、それを微塵も見せないあたり、この司教の肝の太さが分かる。
おまけに耐久性を図るかのように椅子の上で軽く身を上下させる様は、暢気過ぎるようにも思える。
「…いやはや、年甲斐もなくはしゃぎ過ぎたようだ。さて」
冷めた目で見られていたことに気付いてか、ボルド司教が居住まいを正して椅子へ座り直すと、こちらへまた鋭い目を向けてきた。
「分かってはいるだろうが、わしが其方に尋ねるのは今回の誘拐事件についてだ」
「だろうな。そんな気はしてた。何を聞きたい」
決して暇を持て余しているとは言えないお偉いさんが足を運んできたのだ。
このタイミングという点も加味して思い当たるものは、やはりリエットの誘拐事件に関してとは予想がつく。
「聞きたいことはいくつかあるが、一つだけ、わしが今最も知りたいことに答えてくれればよい」
「はんっ、一つだけと来たか。手間が少なくなるのはありがたい」
「あの日、其方が聖女様の館に居合わせたのは、事前に起こると知っていたからではないのか?わしが少し調べただけでも、そうでなければあり得ぬほど都合が良すぎた」
この口ぶりからして、ちゃんと俺が本筋の誘拐犯ではないと分かってはいるらしい。
ここにいるのも濡れ衣と分かった上で聞いているのなら、釈放に尽力してほしいものだが、それが出来ない理由はさっき言われたので彼には期待しない。
その問いかけを否定するのも無駄なので、俺は肯定の意味を込めた頷きを返す。
「まぁ確かに、俺は誘拐計画を事前に知っていて、それを防ぐために動いた。もっとも、こっちの予定とは大分違う運びになったが」
本物の誘拐犯が予想以上に手練れだったせいで、俺自身が誘拐犯になってしまったことは誤算だった。
当初の俺の頭の中では、もっとスマートに事態を防ぐ未来を描いていたというのに。
「やはりか。どこで知った?いやいい、当てて見せよう。恐らくは―アルジコフ司教の館」
情報源の取得方法だけは少々外聞が悪いため、どう上手く誤魔化そうかと思ったが、俺が言いつくろうよりも早く、ボルド司教がなぞなぞの答え合わせをするような気安さである司教の名前を口にした。
その人物はまさしく、俺が誘拐の計画を知るきっかけとなった手紙を所蔵していたあの悪徳司教だ。
「…なぜ、そう思う?」
「手紙だ。今回の件に関して、裏で手を回していたシェイド司教の手紙がそこに保管されていたからな。それを盗み見でもせぬ限り、先回りは出来んだろう」
「ちょっと待て。あんた、あの手紙のことを知ってるのか?」
「勿論だ。内容までしっかりとな」
悪党とはいえれっきとした司教が隠していた手紙だからこそ、俺は表立って動かずに解決しようとしたのだ。
だというのに、この老人はその存在どころか手紙の中身まで知っていたと言う。
「呆れたもんだ。あんたそれでも教会のお偉いさんか?知ってたら誘拐なんざ防げただろうに」
教会の最高位と言っていい位置にいる人間が、象徴たる人間にこれから起こる問題を知った上で見逃していたとなれば、それはとんでもない背信だ。
ある意味、誘拐に手を貸したと疑われても仕方ないほどに。
「さて、どうかな。防げたかもしれぬが、そうでないかもしれん。誰かの謀を手紙一枚で読み切れるほど、わしは己惚れてはおらんよ」
「よく言う。あんたはそれぐらい出来そうな気もするがね。狙いはシェイド司教の失脚あたりか?」
今回の件で一番被害が大きかったのは、やはりシェイド司教だろう。
俺の見立てだと、誘拐が成功していても捜査の手はいずれ及んでいたはずだし、なにより失敗したことで拘束され、今頃は厳しく取り調べもされているに違いない。
誘拐という悪事に手を染めたのはシェイド司教の意思だが、その結果として失脚するとなれば、ボルド司教の手が果たしてどこまで関与しているのか気にはなる。
「いい読みだ。まぁ結果としてはそうなってしまうが、元の狙いは違っていた。聞くかね?」
意外にも、向こうから詳しく教えようかと誘いがきた。
謀を好む人間にしては迂闊に手の内を明かし過ぎな気もするが、知られたところで痛くもない程度の話とも言える。
「聞いていいのなら」
「構わんよ。其方は随分と察しがいい人間だ。どうせ少し調べればわかってしまう。それに、聖女様を守ってくれた礼だ。知る権利はあろう」
そう言って軽く目を伏せるボルド司教の姿は、確かに俺への謝意を示していた。
てっきり腹黒いだけの人間だと思っていたのだが、リエットの無事を安堵するぐらいの忠誠心は持ちあわせているらしい。
リエットから聞いていた人物評とは、かなり印象が違うな。
「シェイド司教個人についてはどれくらい知っているかね?」
「リエット様から少し聞いたぐらいだ。それと、面と向かって持った印象ぐらいか。なんというか…大分危険な思想をした宗教家に感じたが」
司教として立派な人間だとリエットは言っていたが、あの時見た顔は大分狂っているように思えた。
そもそも、同じ宗教組織にいながらも聖女を誘拐して暗殺しようなどと、まともな人間とは言えないが。
「うむ、その認識は正しい。敬虔な信者であるが故に、行き過ぎた信仰心が今の彼女を形作ってしまったと言える。しかし、前々からそうだったというわけではない。ああなったのは、ここ最近だ」
「なんかあったのか?」
「いや、特筆してこれといったことはなかった。長年積もり積もった何かが破裂した、といったところか。公の場では憚るが、今代の聖女様が相応しくないと陰で囁いているのを、何度かわし自身も耳にしていた」
聖衣を使ってパーラの傷を治している事実で、リエットが聖女であることは間違いないのだが、しかしシェイド司教にとってはそうと認められない何かがあるということになる。
これまでの聖女とリエットの違いを挙げるとするなら、やはり両性具有しかない。
宗教にどっぷりつかっている人間は、信仰の象徴が揺らぐと酷く脆くなる。
本来女性に限る聖女という身分に、リエットが収まったことへのジレンマで暴走へ至ったとすれば、その胸中を俺は推し量れない。
「これまで司教として不足があったわけではない。ただ、潔癖過ぎたのが欠点だな。聖女様の教育係を務めた時までは良かった。だがその後に色々と知られたことで、シェイド司教に過激な思考が生まれてしまったのだ。詳しくは言えんが、意図して伏せていた聖女様の秘密を知られたのがまたまずかった」
それまでは立派な聖女に育て上げると使命に燃えていたのが、肉体的に相応しくない要素があると何らかの方法で知ったせいで、裏切られたとでも思いこんだか。
恐らく、リエットの体のことを知ったのは、教育係を勤め上げた後のタイミングだったのかもしれない。
リエットの両性具有という事実は、教会内でも秘匿性の高い情報だ。
ボルド司教は知っていたようだが、シェイド司教に伏せられていたのは、他の司教達がその情報を知った後に彼女が暴走するという予想を立てていたからだろう。
教育係としての任を解かれてからも、表向きはよき理解者として振る舞いながらも、腹の内では憎しみを抱えていたからこそ、今回の誘拐事件を起こしたわけだ。
最後に見たあの狂った様子を思うと、正式に聖女へと就任する前に殺していれば、などと後悔していたに違いない。
「聖女様の資質を疑い、それを議論する場を設けていればまだいい。だが、シェイド司教はそれを怠り、質の悪い連中と手を組んだのがまずかった」
「質の悪い?」
「うむ。シェイド司教は誘拐を実行するための根回しで、一部の貴族を抱き込んでいてな。どいつもこいつもペルケティアにとっては害としかならん人間達だ。そんな連中をのさばらせていたのは、我が国の不徳である。故に、誘拐計画を知った時、好機だと思った。シェイド司教諸共、誘拐の顛末をもってそ奴らをまとめて吊るし上げるのに、な」
なるほど、ボルド司教の狙いはシェイド司教ではなく、その悪事に加担した貴族の排除にあったわけか。
ペルケティアにおける貴族の地位は、必ずしもヤゼス教の位階とイコールではないため、一部の貴族は教会の意向から外れて勝手をするケースもある。
特権階級にはせっせと私腹を肥やす人間が絶えることがないのは、どこの世界、どこの国、どこの組織でも変わらないというわけだ。
その悪い貴族がシェイド司教を利用して、聖女の排除によって生まれる何らかの利益を狙ったのが今回の事件が起きた原因なのかもしれない。
ここまでの話が、実は権力を握ろうとするボルド司教による偏った印象操作というのも否定はできないが、俺の勘としては嘘は言ってはいないと思う。
決して全てを詳らかに話してはいないだろうが、それでも悪意を感じさせるような嫌な気配がない。
それにしても、自国の貴族を陥れる企みをこうもあっさりと明かすとは。
確かに向こうから言い出したことだが、他国の人間である俺に聞かせるにはかなりスキャンダラスだ。
よもやこの後口封じにでもあうかと疑いそうになるが、流石にそこまで短慮ではないはず。
「その悪い貴族を失脚させようと、今回の誘拐計画を利用したってのは分かった。だが、それでリエット様を危険に晒すってのはどうなんだ?あんた、曲がりなりにも司教だろ。万が一があったら、今頃はあんたが捕まってたかもな」
「はっはっはっは!耳の痛いことだ。確かに、わしの企みは褒められたものではない。なにせ、実際に聖女様を誘拐させなければ、その貴族共を吊り上げることなどできぬからな。だが、まったく聖女様の身を案じていなかったわけではないぞ。あの晩、聖女様の館に潜り込んだ賊の内、二人はわしの手の者でな」
「…二人?もしかして、早々に気絶させられた奴らか?」
リエットの寝室へ侵入した賊は三人いた。
そのうちの一人、後に女と分かった黒づくめのそいつとは今朝になってシェイド司教の館で再会し、この手で仕留めた。
黒づくめはシェイド司教が雇ったと言っていたので、ボルド司教の手の者は残りの二人で間違いないはず。
「左様。それなりに腕が立つ者を選んだつもりだったが、まさか何もできずに気絶させられるとは。攫われてからは、聖女様の身を守る役目もあったのだが、まるっきりひっくり返されてしまった。まぁ、偶然だが其方がその役目を引き継いだようなものだ、結果としては良かったと言えよう」
図らずも、ボルド司教の手駒を排除した俺が、勝手にその役割の後釜についてリエットを守り抜いたのだ。
全て掌の上で動かさなければ気が済まないという完璧主義者でもない限り、終わり良ければ総て良しとするには十分な結果だ。
「もしかして、リエット様の館にそいつらが忍び込む手引きもあんたが?」
「いや、そちらにわしの関与はない。シェイド司教の手配だろうな。日頃の関りがあればこそ、館内の歩哨をどこぞへ警戒のために動かすぐらいはできよう」
普段とは違う警備エリアを重点的に守らせるようアドバイスをするだけで、外部からの侵入は簡単になる。
リエットと関係が深いシェイド司教なら、警備に口を出して侵入のための空白地帯を作り出すのも不可能ではない。
これ以降の筋書きは俺の知るものに沿っているが、流石に姿をくらましていた間のことはボルド司教も把握はしていないらしく、事態を動かせたのは衛兵がシェイド司教の所へやってきたところからだ。
その衛兵が派遣されたのも、聖女の館からの要請があったからだそうで、どうやらパーラは期待通りにドリー達を動かしてくれたようだ。
「その時にはわしのできることはほとんどなかったが、聖女様の保護を優先させるよう命は出せた。もっとも、そのせいで其方はこうして捕まっているのだが、それは教会を代表してわしが謝罪しよう」
「別にいい。無実の罪で捕まるのはこれが初めてじゃない。それに、リエット様がその内俺を釈放してくれると信じてたからな。その前にあんたが来たのは、正直予想外だったがね」
当然ながら俺がサニエリ司教と以前揉めたことは知っているようで、こうして捕まっていることをチクリと刺してみれば、教会の偉い人間である老人は一瞬だけ表情を歪める。
「そうか。……聖女様だが、今はとある場所で厳戒態勢の下に保護している。無事なのは確かだ。安心していい」
「そりゃよかった」
あれだけの数の衛士に守られて連れ出されたのだ。
リエットの現状に不安は覚えてないものの、それでも気にはなっていたので、心配事が一つ消えたのは一先ずよかったとしよう。
「ところで、シェイド司教の方はどうなるんだ?裁判なんかもするんだろう?」
この世界において、裁判というのは権力者の特権だ。
平民と違い、裁判ではなんだかんだ理由をつけて情状酌量がされて、形式だけの罰で済まされることは珍しくない。
ヤゼス教の司教ともなれば、果たしてどれほどまともに罰せられるかは疑問ではある。
「捕縛された後も、聖女様を罵って騒いでいるようだが、罪状の認否聴取には応じているそうだ。近く、裁判は開かれるだろうな。聖女様の命を狙った罪過は大きく、減刑はあり得ん。極刑は確実だ」
流石にヤゼス教の象徴を殺そうとした事実は重く、司教と言えど極刑は免れないか。
権力者には甘々な裁判というシステムだが、同じステージの権力者同士となれば、途端に残酷になるのが裁判の陳腐で恐ろしいところだ。
「その裁判には、あんたがさっき言ってた貴族連中も引きずり出されるのか?」
「いや、あやつらは表立って裁かれはせぬ。木っ端とはいえ貴族は貴族。一度に数を減らして国政が乱れるのは避けたい、と言うのが建前だ」
「建前ね。実際は?」
「各家が醜聞を恐れて動くだろうな。当事者達は責任を追及されて自害、病気か事故で命を落とす、といった筋書きがせいぜいか。身一つで放り出されるだけですめばまだ幸運だ」
面子が何よりの貴族にとって、身内の不始末で家名に傷がつくことは何より耐え難い。
現役の当主なら強引に隠居させられて軟禁コースまっしぐら、家督を継いでいないままに勝手をしたのなら、秘密裏に葬られて終わりだ。
運よく生き残れたとしても、政治と社交の場からは永遠に追放される。
傅かれるのが普通な人間がいきなり一人にされて、まともな生活を送れるとは思えない。
特権階級から平民以下の暮らしへ落ちる屈辱は、いずれ自ら命を絶つ未来を選ばせることだろう。
「そいつらは主都に?もう捕縛しているのか?」
「何人かはな。だが自分の領地へ戻った者もいる。そちらは今頃、わしの命を受けている聖鈴騎士が捕縛しているはずだ」
「まさか…今主都から聖鈴騎士がいないのは、あんたの指図か?」
ボルド司教の言葉に、背筋をゾクリとしたものが走る。
聖鈴騎士が序列上位者を含め、今主都にほとんどいない理由が目の前の老人の手によるものだとすると、途端に謀の匂いが強く襲い掛かって来た。
シペアから聞いた話では、聖鈴騎士が主都を離れたのはかなり前のことだ。
安寧秩序の楔として派遣された彼らが、同時に貴族の逮捕も任務に含まれていたと考えると、ボルド司教がどこまで手を回していたのか気になる。
聖女誘拐の計画を事前に知ってから今日のシェイド司教の逮捕まで、ボルド司教がどれほどの規模で策を巡らせていたか考えると恐ろしくなる。
「ふっ、どうであろうな。聖鈴騎士、それも序列上位者を思うままに動かせるだけの権限が、わしにあると思うか?」
「さあ?俺はあんたらの権力構造には疎いんでね。だが、やれないこともないんだろう?」
とぼける風なことを言うボルド司教に、俺はジトリとした目でそんなことを言うが、向こうは微かに笑みを浮かべて天を仰ぐだけだ。
その反応からして肯定しているようにも思えるが、明確に答える気はないという意志の表れでもある。
ここまで教会の事情に結構深く踏み込んだことを言っていただけに、聖鈴騎士の件も普通に教えてkる得ると思っていたが、その点は漏らす気がないボーダーライン上にあるようだ。
―猊下、そろそろ…
食えない老人を前に、居心地の悪さを覚え始めたタイミングで、牢の扉が軽くノックされて声がかけられた。
それほど長く経ったと思っていないが、あの修道士はここらでタイムアップとしたいらしい。
「うむ…よい話ができた。礼を言う。できればもう少し話してみたかったが、この後は予定が決まっていてな。切り上げ時だ」
「あぁ、そうかい。なぁあんた、結局俺から何を聞き出そうとしてたんだ?ここまで、ほとんどあんたが喋ってたようなものだろ」
ボルド司教がここへ来た時、俺から何か聞きだすことがあるのかと思って身構えていた。
だが実際に尋ねられたのは、せいぜいアルジコフ司教のことぐらいだ。
情報のやりとりという点では、ほとんど与えられたものばかりになる。
「それでいいのだ。わしが知りたかったのは、其方という人間から見た事件のあらましだ。これで十分よ」
俺ばかりが貰ってばかりと思っていたが、向こうは向こうで得るものはあったようで、満足そうな顔をしている。
この言いようからして、事件のあらましとは言っているが、どうも俺という人間を量ろうとしていた節もありそうだ。
過去には司教と揉めて失脚させ、今回もまた司教を失脚させる要因に一口噛んでいる俺を、教会としては警戒しているというスタンスだろうか。
あるいは、ボルド司教の個人的な興味か、いずれにせよ、今回の件で俺はより一層マークされたと見做し、ヤゼス教との今後の付き合い方も考える必要がありそうだ。
これで完全に話は終わったと立ち上がり、牢を出て行こうとするボルド司教の背中に、最後に気になっていた質問を投げかける。
「最後に聞きたい。今回の件でアルジコフ司教も裁判にかけられるのか?」
聖女誘拐に関する情報を秘匿していたという点では、アルジコフ司教の罪も決して無視できない。
一晩明けて、二人の現役司教が失脚となるとかなりの騒ぎになりそうだが。
「それはなかろうな。アルジコフ司教は今回の件で悪意ある関与はないと断定されている。誘拐の発生を事前に察知出来ていた可能性を責められはしても、さして大きな罪には問われまい」
「しかし現に手紙を隠して―」
「悪戯だと思って取り合わなかった、と言えばそれ以上追及されぬ」
誘拐計画を示唆する手紙とはいえ、そこに信憑性はほとんど担保できない。
なにせ差出人も書かれていない、怪文書と言われればそれまでの文書だ。
ボルド司教が言うように、いくらでも言い逃れはできる。
よもや小悪党が一人、野放しになるのかと思わず顔をしかめてしまう。
ついため息を吐きそうになった時、ボルド司教がおもむろに口を開く。
「…悪というのは、暴こうとすると深いところへ散らばりながら潜む。追いかけるのは至難の業。であるならば、悪を一つどころにまとめることができればこれほど楽なことはない。例えば、酒の横領といった悪事を日常的に行うことで、同じく悪事を成そうとする人間が寄り合うようになる、といった具合にな」
まるで話題が変わったことを訝しむが、ボルド司教の諭すような言葉に思わず聞き入ってしまう。
そして、そこに込められた意図を汲みとると、アルジコフ司教への見方が変わっていく。
酒を横流ししている小悪党に過ぎないという印象のアルジコフ司教が、実は悪党を集めるための誘蛾灯のようなもので、その存在をボルド司教が認めていたとなれば、必要悪などという温い話ではない。
国というシステムの中で必ず生まれる悪を、地下に潜らせる前に一か所に集めて排除、あるいは監視する役割がアルジコフ司教に与えられていることになる。
正義のために悪をなすという、並々ならぬ使命感を持った人間の仕事ではあるが、いつしか見たアルジコフ司教の小悪党っぷりを思うと、果たしてそこまで強い使命感があって悪事に手を染めていると考えてもいいものだろうか。
実は本人にも知らせず、ボルド司教らが勝手にそういう役割を背負わせているという可能性もゼロではない。
あるいはよっぽど小悪党の演技が上手いというのも有り得るが、いずれにせよ役割が続く限りは守られ続ける。
悪意ある関与も否定されている以上、誘拐事件の裁判にかけられることはないだろう。
結局、誘拐事件もただ単純なだけの事柄に留まらず、ペルケティアという国とヤゼス教の複雑な思惑が絡み合って、どうもシャッキリとしない落着になりそうだ。
俺が動かせたのは、せいぜいリエットを無事に救いだし、パーラの怪我を治したぐらいか。
パーラの件だけで報酬としては十分だが、それでもボルド司教らに翻弄された感は否めず、僅かに悔しさが残る。
この世界の老獪な連中には、まだまだ俺は及ばないというわけだ。
己の未熟さに落ち込む俺を後目に、ボルド司教が牢の扉を潜って外へ出る。
「おぉ、そうだ。牢の扉は開けておく故、勝手に出ていくがよい。わしの名と権限において、其方を釈放する」
待ち受けていた修道士と小声で二・三話言葉を交わしたかと思った次の瞬間、何の気なしに俺の釈放を宣言してきた。
突然のその言葉に驚愕で体が硬直してしまったが、すぐにそれはあり得ないことだと思い至る。
「はあ?何ってんだあんた、今の状況ではそれは許されていないってさっき―」
「あれは嘘だ。ではな。はっはっはっはっは!」
「おい!ちょっと待て!おい!」
最初に牢へやって来た時の自分の言葉を一切悪びれることなく翻すと、高笑いをしながら立ち去っていった。
修道士の男も、こちらへ一瞥くれるだけでボルド司教の後に続いたため、今俺の目の前には牢の扉が開け放たれたままになっている。
一歩出た瞬間に、脱獄だと言いがかりをつけられて捕まるのはごめんだが、外の様子を伺いつつ牢から出てみる。
特に見張りなどもおらず、このまま外へ出れてしまいそうな気がしてしまう。
どうも本当に釈放されたと思えてくるが、こうなると、ボルド司教はなぜ俺の釈放を後回しに伝えたのかが謎だ。
考えられるとすれば、俺とじっくり話をするために釈放を伏せていたとかだ。
先に釈放されると知っていれば、浮足立って受け答えも適当になる、と考えるのは分からんでもない。
ボルド司教は謀略を好むと聞いてはいたが、この分だと単に悪戯好きの間違いではないかと疑ってしまう。
「クソ爺が…」
あの老人に感情を弄ばれたのは癪だが、非難するよりも今は喜びが勝る。
もはや聞こえはしないが、あの爺に対する呪詛を吐きながら通路を進むと、収監される時に通り過ぎた事務所へと出た。
来た時も思ったが、ここは監獄というよりは留置所といった趣だ。
そこでは数人の兵士が何やら作業に没頭しており、姿を見せた俺を一瞬見はするものの、特に咎めることなく自分の仕事へと戻っていく。
囚人が堂々と姿を見せているというのに、まるで関心がない様子から、ボルド司教の言ったことは間違っていなかった。
ここを無警告で通過できる程度に、話も通っているわけだ。
忙しそうにしているのを邪魔するのも躊躇われ、連行された時とは逆のルートを思い出しながら辿り、あっさりと外へ出ることが出来た。
開かれた扉の先の光景は、予想していた通り陽が落ちた後の暗闇で満たされており、星の輝きと共に夜の冷たい空気が俺の体を撫でていく。
その感覚に、思わず感嘆の息が漏れた。
約半日ぶりに娑婆の空気を味わうことが出来た感動に、身体が震えそうだ。
やはり監獄から出た時の解放感は格別だ。
新品のパンツに履き替えて新年の朝を迎えるぐらいに気分がいい。
もはや激しい喜びはいらない、その代わり深い絶望もない。
植物の心の様な人生を…そんな平穏な生活のために。
牢に入る機会が今後ないことを神に祈るとしよう。




