チェスはお好き?
マクシムのお披露目パーティ当日の朝、俺はエイントリア伯爵邸を訪れていた。
今日は変装してきているので、目線が高く妙な感じだ。
身長を誤魔化すために特注のシークレットブーツを職人に作ってもらったため、現在の俺の身長は170cmほどある。
もう一つ特注で作ってもらったのは、今俺が身に着けている現代風のスーツ一式だ。
この世界では珍しい襟の高いワイシャツと蝶ネクタイにタキシードといった、まさに英国紳士たる出で立ちは、この国ではまず見かけることはない恰好だろう。
そんな見慣れない格好の男が伯爵邸に近づいては、当然ながら門番の警戒を呼び起こす。
案の定門をくぐろうと近付くと、俺の目の前で2人の門番の手に持っていた槍の穂先が交差された。
「待たれよ!ここはエイントリア伯爵様の御用邸である。不用の者は通すことは出来ない。用向きあらば、まずそちらの身分を明らかにされたい」
中々堂に入った誰何に門番の仕事への意識の高さが窺える。
前にここに来た時は、最初はマクシムと馬車に同乗して通ったし、先日の呼び出しの時は手紙を見せて通過した。
だが、今の俺は変装しているため、前に訪れたアンディと同一人物には見られなかったのだろう。
日頃、人相・風体の確認に気を配る門番が俺の変装を見抜けなかったということが、偽装の完成度を保証している。
「訳あって名乗ることは出来ないが、今日マクシム殿のお披露目パーティに同行することになっている者だ。ルドラマ様には武官が来た、と伝えればわかってもらえると思うが」
言いながら前に受け取ったパーティの招待状を門番に見せる。
「…確かに、本物の招待状のようだ。申し訳ないが、確認に向かうゆえ、しばしこの場にて待たれよ」
門番の一人が屋敷の方へと駆けて行った。
待っている間も、片割れの門番はこちらの動向をつぶさに見ており、何かあらばすぐに捕縛せんとしているようだ。
流石は伯爵家の門を任されているだけあって、その仕事に対する意識は感嘆に値する。
しばらくすると先程屋敷に向かった門番が執事を連れて戻ってきて、少しのやり取りの後、屋敷内へと通された。
前に来た時と同じ応接室に案内されると、そこには既にルドラマが待っていた。
一緒に来ていた執事を下がらせると、対面の席を勧められた。
「…一応確認するが、アンディで合っているな?」
目の前に座られていても俺だとは見抜けないようだ。
「ええ、確かに俺はアンディですよ。どうぞ、ギルドカードです。…言ったでしょう?変装して来ると」
差し出されたギルドカードを見て、頷いている。
今の俺の顔は全く別人のものになっている。
これは魔術や魔道具の類ではなく、特殊メイクの部類に入るやり方だ。
あの後方々を探し回り、薬剤加工系の職人に巡り合い、そこで手に入れたのが人間の皮膚によく似た質感に加工できる魔物素材だった。
それを芸術関係の職人に頼み、人間の顔へと整形したものを制作した。
これがまた秀逸で、俺の顔にぴったり吸い付き、表情筋の動きをしっかりと伝えるマスクは本物にしか見えない。
現在の俺の顔は某スパイ映画に出てくるイギリス人男性風の顔をしている。
一応俺の声に違和感を感じさせないように、喉の辺りには少しきつめに布を巻いてあり、声がつぶれた感じが声の幼さを打ち消してくれていたので、見た目と声の差による違和感は誤魔化せるはずだ。
パーティで出される食事のことを考え、首元で布の締めを調節できるようにはしているが、正直息苦しくはある。
「本当にこれが作り物なのか…。信じられん」
先程から俺の顔をぺたぺた触りながら感嘆の息を吐いているルドラマだが、すぐに気を取り直して呼びいれた執事に頼んでマクシムを呼ぶ。
部屋の扉がノックされる音にルドラマが入室を許可すると、マクシムが入ってきた。
身に着けている華美な装飾の施された服装は、今日のパーティのために用意したのだろう。
すぐに俺の姿に気付くと若干の緊張で身を固くし、挨拶をしてくる。
「父上、お呼びと聞きましたが」
初対面の人間だと思っているため、ルドラマに先に呼び出しの用を尋ねる。
「よお、マクシム。今日は随分着飾ってるな。パーティ用か?」
いきなりフレンドリーに尋ねてくる、初対面の人間だと思っている俺に対して困惑の表情を浮かべてルドラマに対処を求めるが、当のルドラマは面白そうな顔をするのみで、マクシムに助け舟を出すことをしない。
ルドラマが当てにならないと判断したマクシムは、意を決して口を開く。
「はあ。…あの、無礼を承知でお尋ねしますが、私と面識がありましたか?」
まあ確かに俺をアンディと見抜けないから、その反応も当たり前だろう。
「俺だよ俺、アンディだよ」
「マクシム、そやつは変装しているアンディだ。本人と確認は取れている。間違いない」
マクシムはルドラマの言葉に何を言っているのかわからないといった表情で、俺に確認を求めてくる。
そこでギルドカードを渡し、俺がアンディだと確認をさせた。
「えっ…本当に…え、アンディ?えぇぇぇぇえええっっ!!」
マクシムを絶叫させる程度には驚かせることは出来たようだ。
今俺達は馬車に揺られて王城へと向かっている。
貴族の登城にはそれなりの格式を示す必要があるため、今乗っている馬車は素材と装飾の両方で非常に豪華な逸品となっている。
試しに聞いたところ、この馬車一台で王都にちょっとした屋敷が建つらしい。
それだけ高くなると乗り心地も素晴らしく、俺・マクシム・ルドラマの順に横に並んで腰かけた座席は、道の僅かな凸凹から発生する振動を全く伝えることなく、乗り疲れもないだろうと思わせる。
先程から隣に座るマクシムがしきりに俺の顔を触っていて、本物とさほど変わらない感触に何度も驚いている。
「本当にすごいねぇ。こんなことができるなんて、アンディってやっぱり普通じゃないよ」
「いや、それは違うぞマクシム。普通じゃないからアンディなのだ」
「それは褒めてます?それとも呆れてます?」
「「両方」」
親子そろって返された言葉に心外だと憤って見せるが、俺の反応を無視して再びマクシムが俺の顔をいじりだす。
この先パーティで長い緊張に晒されるのだから、今は好きにさせてやろう。
そうこうしている内に王城の門を少し入った所で馬車を降りる。
ルドラマから順にマクシム、俺と降りると、すぐに兵士によって身分の照合が行われ、2人は問題ないと判断される。
だが俺はそうはいかない。
「失礼ですが、お名前と身分を証明するものは提示できますか?」
この中では身分の確かではない俺だが、普通に伯爵の馬車から一緒に降りてきたところを見たため、無碍にも扱うわけにはいかず、こうした対応となるのだろう。
そこへルドラマから俺の正体の説明がされる。
「この者はわしの知り合いだ。今回の息子のパーティに参加してもらうために異国から来てもらった。身元はエイントリア伯爵家が保証する。名前は―」
「―リンド。ジェームズ・リンド」
ルドラマからの紹介に割り込むというのは少々無礼だろうが、変装後の名前の打ち合わせをしていなかったのでこのタイミングしかなかった。
ここは女王の愛したスパイのロールプレイで行こう。
正直それを意識してマスクを作った節もあるしな。
城内は流石は一国の政治と交流の中枢だけあって、豪華絢爛の限りであった。
床や壁は白で統一されており、時々シックな内装の小広間が目に付くが、恐らくあれは賓客以外に使われるものだろう。
たまに現れる重厚な木製の扉を横目に、案内のメイドの先導で通された客室で待つように言われた。
ルドラマとマクシムは俺とは違いやることがあるため、既にどこかへと向かった。
ソファーに座り、メイドに淹れてもらったお茶を飲んで待つ。
やはり王城で出すものだけあって、いい茶葉を使っているようだ。
実に風味がよく、嫌な渋みも無いので何度もお替わりをしてしまった。
しばし英国紳士風にお茶を楽しんでいると、室内にノックの音が響いて来た。
「失礼します。パーティの用意が整いましたので、会場へとご案内いたします」
「そうか。…ありがとう、いいお茶だったよ」
通り過ぎざまに脇に控えていたメイドに、先ほどのお茶の礼を言っておく。
普段言われることもないのだろう、一瞬驚いた顔を浮かべたが、すぐに微笑んで軽く頭を下げてきた。
やっぱりメイドって男の憧れだからね。笑顔が欲しいじゃないか。
そのまま部屋を出て案内のメイドの後に続いた。
何度か通路を曲がって着いた場所はこれまでに見たこともない広さの部屋だった。
普段は4枚の扉で閉じているだろう入り口をくぐると、そこはバスケットコート4面分はあるだろう大広間で、周りの壁一面に描かれている四季を彩った絵が華やかさを演出している。
既に大広間には大勢の招待客達が揃っており、派手なドレスや礼服で身を包んで談笑に興じている。
比較的若い者たちが多いのは、マクシムとの縁を繋ぐために親達が連れてきたのだろう。
まだ少年少女と言える年ごろから、立派に紳士淑女と言えるほどの者までが揃っていた。
特に知り合いのいない俺は誰かと話すこともなく、壁際に用意されている料理の置かれたテーブルへと近付いていく。
初めて見る料理も多く、興味と食欲をそそられて、早速皿を片手につまんでいく。
ちょうど昼食時の腹にどんどん収まっていく。
うまうまとテーブルをハシゴしていくと、突然ルドラマの声が広間に響き渡った。
「お集りの皆様方、どうか私の言葉にしばしの御清聴をお願いします」
部屋の奥で一段高く設けられた壇上から、会場の注目を集めてルドラマが言葉を続ける。
マクシムの初お披露目に今日まで時間がかかった理由の説明をする。
「ご存知の方もおられるでしょうが、我が息子は幼少の頃より病弱であったため、皆様の前に姿をお見せするまで、長い時間がかかりました。ですが、本日こうして皆様のお目にかけることができたのは何よりの僥倖でしょう」
次第に熱の入ってきたルドラマの言葉に、周りも口を開かず聞き入っている。
「長の口上は本日の主役に色を添えうるものではないでしょう。ご紹介させていただきます。エイントリア伯爵家嫡男、マクシムに御座います」
半歩左に避けて後ろのマクシムを前へと促す。
その瞬間、広間いっぱいの拍手に迎えられ、マクシムが壇上の中央へと立った。
「皆様、お初にお目にかかります。ルドラマ・ギル・エイントリア伯爵が嫡男、マクシムと申します。本日は私のために大勢お集まり頂き、望外の喜びに身を震わせております。今日この場こそが―」
しっかりとした言葉に聞いている者たちも満足いったようで、何度も頷きながら時折小声で話し合っている。
それはマクシムのエイントリア伯爵家の跡継ぎとしての資質を計るものから、自分の娘の婚約者として迎えるといったものまで様々だ。
長い事社交の場に出ることが出来なかったマクシムだが、エイントリア伯爵家という国内有数の家格もあって、いまからどう付き合うべきかと周りの人間が推し量るのは自然な流れだろう。
貴族である以上はそういったことが付きまとうのは至極当然で、これからマクシムはいろんな場面で資質も人格も試されることとなる。
それに潰されるか、成長の糧にするかはマクシム次第で、俺に出来ることはほとんどない。
だが意外と芯の強いマクシムのことだし、きっと大丈夫だと思う。そう思いたい。
「―それでは、皆様方に置かれましては、この後もパーティをお楽しみ頂きたいと思います。どうぞ、ごゆっくりお寛ぎください」
マクシムの挨拶が終わるとルドラマによってパーティの再開を宣言された。
それに合わせて列席者達はこの機会にルドラマとマクシムに近づこうと、列を成して群がっていった。
一応身分の高い者から声をかけるというルールのため、まず声を掛けたのは今回のパーティ会場の提供をした第2王子ティニタルからだ。
王族らしい華美な服に身を包んでいる180㎝ほどの引き締まった体で、正に軍人といった威風のティニタルだが、意外と顔立ちは中性的で、後ろでまとめている金髪をほどくと女性に見間違われるのではないかと思ってしまう。
周りで見ている貴族の令嬢達からは熱い視線を注がれていることから、女性からの人気は高いようだ。
俺のいるところからは何を話しているのか聞くことは出来なかったが、終始笑顔の話し合いはいい雰囲気で終わったのだろう。
最後に2人と握手を交わしてティニタルは離れていった。
一応俺も挨拶をしようと、下級貴族の並ぶ番に一緒になって近づく。
彼らは伯爵と縁を繋ごうと必死なようで、娘を嫁に、婚約者にという話が多いこと多いこと。
それに対して、ルドラマは言質を与えないようにうまく言葉を選んで対処していた。
これが伯爵としての駆け引きの話術かと感心させられていると、俺の番となった。
「閣下、マクシム殿。この度はご招待いただき誠にありがとうございます」
礼を言って握手を求めると順に2人が応えてくれた。
「礼には及ばんよ、リンド卿。参加してくれてマクシムも喜んでいる。もちろんわしもだが」
少し砕けて俺に話すその雰囲気に、周りで聞き耳を立てていた者達が興味を持ちだす。
「リンド卿。お祝いの言葉、大変うれしく思います。どうか今日は楽しんでいって下さい」
「ありがとう、マクシム殿。あまり独占しては嫉妬を買いそうですな。私はこれで失礼します」
マクシムの言葉にさらに俺との親密さが匂わされてしまい、面倒なことになる前に早々に撤退することにした。
だが既に遅かったようで、俺に送られてくる興味の視線がグンと増えたのを感じる。
「少しいいかな?」
そんな中で最初に声をかけてきたのは20代前半の男性で、短く刈り込んだ金髪に、豊かに蓄えられた髭が男くささを感じさせる。
周りの者が一歩引いて近付いてこないところを見ると、中々身分の高い人のようだ。
「ええ、かまいませんよ。失礼ですが、お名前を伺っても?」
「おぉ、これは失礼した。私はヨルムーシュ・ベルカ・ナルリッキという。一応侯爵に叙せられている」
まさかの侯爵からの直々のお声がけである。
しかしこの若さで侯爵とは恐れ入る。
「侯爵閣下であらせられましたか。これはご無礼を致しました。何分異国の者故、勝手がわからぬ身にございます。平にご容赦ください」
深めに頭を下げてとりあえず非礼を詫びる。
侯爵という貴族の中でも上から数えた方が早い身分の相手だ。
どんな些細な無礼だろうと気を付けるに越したことはない。
「あ、いや。そこまで硬くならないでくれ。貴公がこの国の者ではないのは承知している。それに私はあまり礼儀にはうるさくない質でね。楽にしてほしい」
そう言って広間の端の方へと促された。
主役のすぐ傍で話し込むことの無粋さを考慮しての行動だが、どちらかというと注がれる視線に居心地の悪さを覚えている俺に配慮してのことだろう。
レプタントからグラスを2つ受け取り、一つを俺に手渡してきた。
一応まだ子供の身としては酒は遠慮したいのだが、今の俺は子供の姿ではないし、侯爵からの手渡しを断るのは流石に無礼だ。
仕方ないので、少しずつ飲んでいるふりをして誤魔化す。
「侯爵閣下は―」
「そんな呼び方はよしてくれよ。ヨルンと呼んでくれ。お互い国が違うのだ。身分もあまり気にすることはないだろう。それに年も近いようだしな。もっと砕けて話そうじゃないか」
そう言ってグラスを掲げて乾杯を求めてくるが、普通はそう簡単に身分を忘れて接するのは無理だろう。
まあ俺は出来るけど。
「では私もジェームズと呼んでくれ、ヨルン」
チンッとグラスを合わせて友誼を結ぶ。
ヨルンもそれに喜び、笑みを浮かべてグラスを呷る。
俺は口に少し含むだけにしたが。
「それでだ。私に声をかけてきたのは何か理由が?」
再び先ほど口に出そうとしていた疑問をヨルンに投げかける。
「まあ特に理由は無い。しいて言えば、異国の装いでありながらルドラマ殿と親しい貴公に興味を持っただけだ」
大抵、貴族のパーティというのは顔触れにあまり変化はないもので、たまに跡継ぎだったり、婚約相手を連れてくるくらいだ。
今回は伯爵の嫡男のお披露目パーティという半端な地位の者では参加すらできない場に、異国の者と思われる人物が参加しており、さらには伯爵親子と親しく振る舞っている。
これは確かに興味を持つなという方が無理だろう。
誰もが俺に話しかける切っ掛けを探していた時に、ヨルンが話しかけてきたというわけだ。
「なるほど、ではなにか聞きたいことでもあるのか?あまり面白いことはないと思うが」
「そこは私が聞いて判断するところだろう。なんでもいいんだ。異国の話を聞かせてくれ」
話をねだるヨルンの瞳は好奇心に溢れた子供のような輝きを放っており、話すまで付きまとわれるんじゃないかと思うと素直に話をしようと考えるのも仕方ないだろう。
「わかった。だが、そちらがどんなことに興味を持つのか私にはわからないから、質問に答える形でいこう」
「ああ、それはいい考えだ。そうだな…まず―」
そこからヨルンの質問に一つ一つ応えていく。
このジェームズ・リンドとしての姿は今回一度きりのものであり、今後現れることは無いのでヨルンの質問にはイギリスの情報をもとにして答えている。
「へぇ、そんなに年間で晴れが少ないのかい?」
「ああ、しかも1日の内でも天候が動きやすいから、油断してると体を壊すかもしれないぞ」
俺の話に興味深そうに頷いているヨルンだが、聞いてくる情報は風土・慣習に関するものが多く、日本人だった俺には答えようがない質問もあった。
そんな時は何となくボカシて話すのだが、正しく伝わっているかは疑問だ。
そうして話をしていると、何やら別の場所に人だかりができていた。
「なにかあるのか?ヨルン、行ってみよう」
ヨルンも気になっていたようで、一緒に向かってみる。
そこにはテーブルが用意されており、なにやら将棋盤の様なものが見える。
席は盤を挟んで2つ、片方には誰も座っていないが、もう片方には10代半ばであろうと思われる少女がついていた。
この世界では初めて見たベレー帽を被り、綺麗に切り揃えられた前髪からのぞくモノクルを付けた目線は鋭く、聡明さが感じられるようだ。
「ヨルン、あの子は?それにテーブルの上の物も」
とりあえず事情を説明してもらうために、答えを知ってそうなヨルンに尋ねる。
現にヨルンはその場を一目見て納得したように頷いていた。
「彼女はサビニア・イムワーン。この城の伝承書記官筆頭のイムワーン男爵の娘で、彼女自身もその役に就いている。テーブルの上のはアーミー・チェスといって、初代国王が考案した遊戯で、文官と貴族には人気があるんだ」
なるほど、要は軍人将棋か。
考案者の初代国王ってもしかして日本人なんじゃないか?
伝承書記官とは国の歴史に関わる一切の記録を取り仕切る役人であり、集められた記録の管理も一手に引き受ける。
国政に対する発言力こそあまりないが、歴史を知る役に就いてるだけに法律や判例の参照作業の際には欠かせないとあって、官僚・貴族問わずに重用されている。
「それで、彼女は何で一人で盤に向き合ってるんだ?この手のは対戦相手がいるものだろう」
サビニアはただ盤へ視線を向けたまま動かずにいる。
それを見ている周りの人間もそれを変には思わないようで、ただ見守っているだけだ。
「あれは『愚者の問い』というもので、あの盤上ではすでに決着がつく寸前であり、覆しようがない結果をどう打破するかを示せ、という一種の知恵比べのようなものだな」
つまり負けが決まっている状況から勝てる道筋を導き出せというモノか。
どんな無茶ブリだよ。
「なんで今この場であれをやる必要があるんだ?というか誰が用意したんだ?」
「貴族の子供のお披露目の際にはああした知恵比べの席を設けることがある。特に今回はルドラマ殿のご子息の初お披露目だからな。恐らくガレアノス殿下が手配したんじゃないか?」
第一王子か。
ティニタルがパーティに顔を出したから、その対抗というわけではないだろうが、何かしらのイベントを提供したというところか。
愚者の問い。
名付けの主は初代国王の正妃で、誰が見ても決着のついた対局に挑む姿を揶揄して発した言葉がそのまま使われるようになったそうだ。
王国に伝わるアーミー・チェスには棋譜のようなものが存在しており、それを貴族の子息の祝いの席などに用意し、列席者に余興として提供する習わしとなっている。
いくつかある中から伝承書記官が任意で選んだものに挑むことで、知恵を競う遊びだ。
解けなかったとしても不名誉にはならないが、万一解けた場合は一躍称賛の的になることは間違いないらしい。
さらにヨルンの説明は続く。
「愚者の問いに挑む者は彼女の対面に座って答えを示す。挑戦者は必ず防衛側の手を指すんだが、それに対してサビニア嬢が攻め手を指して答え合わせをする。あぁ、ほら、今挑戦者が出たぞ」
詰碁みたいなものか?
周りを囲んでいる人達の中から、利発そうな青年が歩み出てきて、テーブルに着く。
よほど自信があるのか、薄い笑みをたたえたまま盤上の駒を動かしていく。
俺は将棋とかチェスなんかは得意ではないから、今行われている攻防がどんなものか理解はできないが、周りの上げる感嘆の声で、青年の手が優れていることはわかった。
「ヨルン、正直私はこの手の物は得意ではないんだが、今はどんな状況だ?」
「今のところは挑戦者が上手く防いでいる。お手本に少し手を加えているようだが、サビニア嬢が読み切ったな。あと5手で詰む」
盤上の駒が動いていくたびに、青年の顔から余裕の笑みが消えていき、遂には歯を食いしばって下を向いてしまった。
正に打つ手なしといったところか。
「続けますか?」
「……ありません」
サビニアの平坦な声に一瞬顔を上げて、口を開いたが、すぐにまた下を向いて、降参を宣言した。
肩を落として席を立った青年に、見守っていた人たちから拍手が送られる。
悔しそうに人の群れの中に戻っていく青年に、友人だろう男が肩を叩いて慰めていた。
その間、サビニアは盤上の駒の配置をさっきの形へ戻していく。
「実際の所、あれは何とかなるものなのか?」
「無理だな。今盤上に敷かれている配置はおよそ180年前に当時王国一の軍師が編み出したもので、未だに破った者はいない。サビニア嬢もよく研究しているようで、駒の運びも隙がない」
俺の疑問の声に返されたヨルンの言葉はあっさりしたものだった。
「ただ、その軍師はこの陣を崩す手は確かにあると指南書に残していた。一部の学者がそれを探して今も研究は続けられている」
そうしているうちに駒の並び直しが済んだようで、再び先ほどの光景へと巻き戻ってしまったようだ。
俺がただボーっとそれを見ていると、何時の間にやら俺の横に来ていたルドラマに肩を叩かれた。
「失礼、お二方。どうだろう、リンド卿は戦略家として有名だと聞く。一つこの遊びに付き合ってみないかね?」
何言ってくれちゃってんのこの人。
またしても俺を使って楽しもうという意図がそのニヤけた目から感じられる。
おまけにその隣に立っているマクシムも興味深々と言った様子でいるから困る。
それを聞きつけた周りが期待の籠った眼差しで見てくるもんだから、受けないと場が白けてしまいそうだ。
「しかし閣下、私はこの遊戯のやり方を知りませんので「それなら私が横で解説しながら教えよう」……はぁ」
ヨルン、お前もか。
なんとか回避しようとするが、ワクワクが止まらない様子のヨルンの裏切りによってテーブルの前に引きずり出されてしまった。
席に着くとサビニアの感情の感じられない表情が、やる気の欠ける俺を責めている気がしてくる。
一応俺の横に立つヨルンがルールを教えながらになるが、あまり期待はしないでもらいたいものだ。




