戦う料理人
部屋の真ん中に置かれた大きなテーブルの上に、雑穀粥の入れられた皿が並べられる。
アイリーンとマルザン、村長とイーライの四人分が置かれたことで、皿から立ち上る湯気は匂いを伴ってそれぞれの鼻腔へと吸い込まれてく。
「さて、皆様の前に置きました皿ですが、中身は御覧の通り、稗や粟といった雑穀を使った粥となっております。味付けは塩と、俺が持ち込んだ醤油というものが使われています」
昆布と醤油がタッグを組んで生み出した匂いは、村長達の食欲をいたく刺激したようで、誰ともなく生唾を呑む音以外、何も行動をすることなくただ目の前の皿を凝視している。
この中ではアイリーンだけが昆布を使った料理を食した経験があり、その分だけ村長達よりも余裕があるため、その様子を愉快気な笑みを浮かべて眺めている。
本来であれば護衛としてこの場にいるはずのマルザンは、目の前の皿に注意を奪われるのは護衛失格と言われかねないのだが、立ち上る匂いにはそうさせるだけの威力があるということだ。
しかし、村長達の方は粥に使われているのが雑穀だと耳にした途端、明らかに落胆の色をその顔に浮かべた。
雑穀があまりいい食材ではないというのは彼らも承知のことであり、それを使った料理となるとやはりどうしても期待度は下がってしまうらしい。
だがこちらとしてはそれがいい。
匂いで一度期待させ、次に素材で落胆させたのちに味で巻き返す。
上げて下げて、最後に急上昇というやり方は、どんな相手であっても効かないはずがない。
「それではどうぞ、お召し上がりください」
いつまでもお預けのままとはいかないので、そう言うといそいそとスプーンを手に取り一口含んだ村長達は次の瞬間、目を大きく見開いてその動きをぴたりと止める。
驚愕がありありと見て取れるその表情に、この料理は見事に彼らの舌に受け入れられたようだ。
しかし相変わらず和風の味わいというのは、この世界の人間にはよく効く。
「…なんだこりゃ」
最初に正気を取り戻したのはイーライで、肩を震わせながら雑穀粥を睨みつけるその姿は、未知への恐れと好奇心がないまぜとなり、とどめに驚きという感情で纏め上げられたような顔をしている。
「なんで稗と粟がこんなに美味い!?特有のあの臭みが全く無ぇ!」
いや、味見した感じだと全くないということはない。
単に味と風味が今のイーライ達に強烈な印象を与えているだけだろう。
「…確かに稗だな」
息子とは対照的に、村長はスプーンで一掬いした粥を冷静に分析しており、その一粒一粒が雑穀だとしっかり見極めていた。
その辺りは、騒ぐだけの息子とは立場と器が違うな。
一方で、アイリーンの方は頷きながら粥を食べているが、マルザンの方は初めての味に狼狽しているような感じだ。
ジンナ村での試食会の時は、タイミング悪くマルザンは屋敷にいなかったため、これで初めて昆布を使った料理を口にしたわけだ。
同じ屋敷で働く以上、レジルや使用人の誰かから話は聞いていたとは思うが、それでも実物を口にしたことによる衝撃は、その顔を見れば相当なものだと分かる。
年齢が年齢だけに、そのまま昇天してしまうのではないかというぐらい呆けた顔だ。
「いかがでしょう?これぞ私の話した、昆布の力ですわ」
健康食品の通販かな。
アイリーンがフンスとふんぞり返ると、それを受けてぐぬぬとなるのはイーライだ。
どうもこの場では、二人がいがみ合っているような印象を受ける。
ただ、やはりイーライはアイリーンとの話し合いの主導を握る立場にはならないようで、次に口を開いたのは村長の方だった。
「いや、恐れ入った。最初は稗程度と、内心高を括っていたが、こうして口にしてしまえばなるほど、昆布の味わいがよく分かる料理と言えよう。領主様、この昆布とやらは本当にこの村近辺でも採れると?」
「最初に言った通り、ある程度の深ささえあれば、そこらの海底にいくらでも生えていますわ。少なくとも、ジンナ村ではそうでした」
「ふぅむ」
アイリーンとそう言葉を交わした後、テーブルの隅に顔を向けた村長の視線を追ってみると、そこには乾燥昆布と生の昆布が載った皿があった。
恐らくサンプルとしてアイリーンが持ってきたものだろうが、それを見る村長は眉を寄せて唸っている。
乾燥させようが生だろうが昆布は見た目が良くないし、海辺に暮らす人間からすると昆布は食材として見られてこなかった過去があるため、村長の悩むその姿も決しておかしなものではない。
雑穀粥で昆布の有用性は示せた。
漁に負担を掛けない程度に産業化できることも、アイリーンが説明したはずだ。
それでもこうして悩んだまま、最後の一歩を踏み出せない理由はなんなのか。
まぁその辺り、話し合いの続きは俺がいなくなってからしていただきたい。
料理を出すという仕事は果たしたので、俺は早々に退室させてもらおうか。
「では俺はこれで。あぁ、鍋はこのまま残していきますので、食べたい方はどうぞお好きになさってください」
「お待ちなさい。アンディ、あなたも同席を許可しますので、お残りなさい」
「…はい?」
踵を返そうとした俺に、アイリーンがそう言ってきた。
一体彼女は何を言っているのだろうか?
領主と村長の話し合いの席に、一介の冒険者である俺を加えるなんざどうかしてるぜ。
何故という視線を込めてアイリーンを見つめると、微笑を浮かべて彼女が口を開く。
「村長、アンディはこの粥を作った料理人であると同時に、私に昆布の価値を知らしめた最初の人間でもあります。ですから、私達の話し合いに同席する資格は有していると言えましょう。よろしいですわね?」
「はあ、わしは構いませんが。しかしこの青年が…ですか」
特に反対はせず、消極的な賛成と言っていい態度を見せた村長だったが、俺を見る目には好奇心が宿っているように思える。
その反面、イーライの方はそれまで俺に指して興味を抱いていなかった視線から一転、何故か厳しいものを向けてくるのだが、初対面の人間にそんな目で見られるのは甚だ心外だ。
いやまぁ先程までの話し合いで声を荒げていたイーライなら、今回村長の心を動かすカギになった昆布をアイリーンに教えた人間として、俺を敵と見るのはわからんでもない。
こうなっては同席を密かに強要されたようなもので、この場を立ち去ってはアイリーンの面子も潰しかねない。
まさかそこまで読んでの先の言葉だったのかと勘繰りながらも、アイリーンに促されてその隣に腰かけた。
それを確認してか、アイリーンが一度頷くと再び口を開いた。
「さて、村長。これで昆布の価値はお分かりいただけたましたか?」
「…認めましょう。確かにこの昆布は新しい産業になる、と。もう一度確認しますが、ジンナ村と三の村との共同事業ということでよろしいのですな?」
「そのつもりです。三の村にはまた後日説明に行きますが、以前の話では二の村が加わるのなら三の村も新規事業に協力するという言質は得ていますわ」
「…分かりました。領主様のお話、二の村を代表して確かに協力させていただくことをお約束しましょう」
村長の言葉を受け、マルザンが手元の紙に何かを書き込んでいく。
出来上がった二枚の紙はそれぞれアイリーンと村長へと手渡され、中身を確認した二人はそれぞれを自分が持つファイルのようなものへ仕舞い込んだ。
恐らく契約書のようなものか。
これで乾燥昆布を使った新規事業の立ち上げに目途がついた。
領主として動き回ったアイリーンの苦労を全て分かっているわけではないが、それでも目の前で安堵の笑みを浮かべている彼女の横顔を見ると、その嬉しさは共有できそうな気がする。
「ちょっと待てよ親父!」
めでたしめでたしで終わりそうだった話し合いに、横から口を挟んできたのはやはりというべきか、イーライだった。
「なんだ、イーライ。わしが決めたことに不満があるというのか」
「ああ、あるね。さっきも言ったが、この村はそんなもんに手を出さなくてもやっていけるだろ」
「お前は領主様の話を聞いていなかったのか?新しいことを始めないことには、将来の子供達に残せるものは減っていくばかりだと」
「それは他の村の話だろ。この村は漁師も多いし、商国からの船だって来るんだ。これからどんどんでかくなっていくさ!」
こちらを余所に親子喧嘩染みた言い合いを繰り広げている村長達だが、どうやら変わることを許容している村長と、変わることを良しとしない息子という構図が出来ていた。
普通、この手のやり合いでは伝統を守るためと老人が変化を嫌い、それに対して若者が新しい風を求めて対立するものだと思ったが、どうもこの場合は逆になっているようだ。
「商国からの船は確かにいい稼ぎになる。だがそればかりに頼るわけにはいかんだろう。所詮ソーマルガと商国は別の国だ。いざが無いとは言えない以上、新しい産業を生み出さずにどうするというのだ」
「そうはっ…」
次の言葉に詰まったのか、イーライは息を呑むようにして黙ってしまった。
村長の言い分は正しい。
スワラッド商国からの船が寄港するおかげで二の村は潤っているようだが、その状況が未来永劫続くとは限らない。
もしもソーマルガとスワラッドで戦争でも起きれば、二の村には商国の船は寄り付かなくなるし、むしろ攻め寄せる軍隊に飲み込まれる可能性もある。
村長も今すぐに商国との付き合いをやめろというわけではなく、未来を見据えて自分達の手で産業の創出を図ろうというのだ。
正直、イーライがなぜこうまで反発するのか分からない。
だがその疑問は次の村長の言葉で解消された。
「イーライ、いい加減認めろ。この領主様は前のとは違う。ちゃんと村の未来のことを考えてくれているんだ」
「はっ、どうだか!貴族なんてのは皆同じさ。どうせ小金を少し稼いだら税金で根こそぎだ」
なるほど、何となく読めてきたな。
恐らくアイリーンの前の領主、今は皇都に戻ったであろう代官が、二の村に対して何らかの失策を働いたとかだろう。
その辺りを目の前にいるアイリーンの後頭部へコッソリと尋ねてみる。
すると僅かにこちらへ顔を向けたアイリーンもまた、小声で答えてくれた。
「私が就任するずっと以前、ここを治めていた代官が二の村に重く税をかけた時期があったそうです。勿論、ちゃんと調べると妥当な理由があってのこととわかりましたが、今のあれは理屈よりも感情が先に立ってしまっているせいでしょう。あまり悪く言いたくはありませんが、その代官の失態だったともいえますわね。ただ、もっと上手いやりようがあったと今なら言えますが、当時の詳しいことは当事者ではない私にもわかりませんし…」
過去の重税が子供にも語られて遺恨となったパターンか。
代官というのは何年かおきに交代があるらしいし、必ずしも平民に優しい人間が代官になるわけでもないので、そういうことがあってもおかしくはない。
そのせいで、イーライはアイリーンに対して好意的とはいえない相手となってしまっているのだろう。
ただ、イーライの父親に反論する声もかなり勢いは抑えられていることからも、昆布の有用性は理解しているのだと思う。
やはり感情の方で納得できないと、あからさまな態度で見せるイーライは村長と比べてやはりまだまだ若いと言わざるを得ない。
「…ちっ、もういい。後は親父が決めてくれや」
いつの間にかクールダウンしたのか、村長と言い合った時よりも幾分声量が抑えられたその言葉を吐き、イーライは部屋から出て行ってしまった。
自然とその場に残る全員の視線がイーライを追う。
特に振り返るようなこともなく、去っていくイーライの姿が完全に見えなくなったタイミングで村長がこちらを向いた。
「…倅が失礼しました。それでよろしければ、今後の事業に関することでいくつかお聞きしたいことがあるのですが」
「それは構いませんけど、よろしいんですの?ご子息をあのままにしておいて」
「お気遣いなく。領主様を前にあのような態度をとるなど、倅もまだまだ未熟でございます。どこぞで頭など冷やしてくればよろしいのです」
きっぱりと言い放った村長の顔はいっそ冷たさすら感じられる。
アイリーンとの話し合いに同席させた以上、イーライには二の村の次期村長としての意識を持たせるという狙いもあったのだろう。
だが、自分達の上に立つ領主であるアイリーンに対して、ああも直情的では村長も頭が痛いはずだ。
まぁ見たところ、精神的な未熟さはあるものの、心根の腐った人間というわけではなさそうだし、時が経てば器も広がってそれなりの人間にはなりそうな気はする。
そこは成長に期待しつつ、見守っていくのが親心というものだ。
アイリーン達が今後の話を始めたところで、手持ち無沙汰の感が出始めた俺は、厨房の片付けをネタにその場を離れることにした。
領主と村長が一大事業を話し合う場に、ただの冒険者が加わるのはなんか違うなぁという思いはあったが、厨房の片付けもやらなければならないことだ。
じきに夕食の準備で料理人がやってくると聞いたので、急いで厨房の片付けに入る。
自分が使った鍋やざるなんかは綺麗にして返したいものだ。
ジンナ村もそうだったが、この二の村でも洗い物をするのにある程度水を自由に使えるのは有難い。
砂漠で暮らしていると、貴重な水を洗い物にジャブジャブ使うなんてことはしないのだが、ジンナ村も二の村も大河からの支流が村の近くにあるのが恵まれている点だ。
とはいえ、砂漠にあってはやはり水が貴重だという意識は抜けきらないため、派手に水を使うのは御法度である。
片付けが終われば後はジンナ村にまっすぐ帰るだけなので、気が楽なせいで鍋を磨きながら鼻歌でも歌ってしまいそうなところだったが、廊下側から厨房内を窺う気配に気付いてやめる。
「…使った道具が綺麗になるというのはいい気分だと思いませんか、イーライさん」
気配の主にはなんとなく当たりをつけていたが、案の定厨房内へと入ってきたのはイーライだった。
背中越しに感じる気配は、穏当な物とは言い難い。
「よく俺だと分かったな。料理人にしてはいい勘してやがる」
「あれだけ熱い視線を向けられては誰だって気付きますよ。で、俺に何か用ですか?」
鍋に残っていた水分をふき取り、脇に置いたらイーライへと向き直る。
そこで初めて目が合ったわけだが、何故か険しい顔をしていた。
何故に?
「なぁに大したことじゃない。お前のそのツラ、一発殴らせろってだけだ。いいだろ?」
「全くよくありませんけど。なんでまたそんなことを?」
「そうしなきゃ気が済まねぇからだよ。あの領主から聞いたがよ、お前があの昆布を教えたんだってな。親父はもう事業に乗り気だ。もう俺がどう言っても変わらんだろうからそれは仕方ねぇとしても、全ての元凶だと思ったお前を殴って一先ずはこの腹立ちを治めようってわけさ。…心配すんな、一発だけだ。とりあえず死にゃしねぇ程度には手加減してやるからよ」
そう言いつつニヤリと獰猛な笑みを浮かべるイーライだが、その顔を見るととても手加減は期待できそうにない。
ただまぁ、アイリーンを相手にそういう行動に出なかったのは分別がついていると言えなくもないが、だからと言って随行員の中で一番弱そうに見える料理人としての俺を的にしたのには小物っぷりが滲み出ている。
「…言いたいことは分かりましたが、はいそうですかと大人しく従うわけにはいきませんよ」
一昔前の青春ドラマでもあるまいし、『俺は今からお前を殴る』と言われて甘んじて受けるほど俺は殊勝な人間ではない。
よって、そうして断るのだ。
「だよなぁ。ま、どっちにしろ…ぶん殴るんだけどなっ!」
言うや否や、右拳で殴り掛かってきたイーライ。
俺の顔面を狙う一撃が眼前まで迫ったところで、その拳をイーライの左側へと払うようにして叩き、軌道をずらす。
その際、イーライの右脛を軽く抑えるようにして俺から足を差し出すと、そこを基点に態勢が大きく傾いでいった。
「うぉっ!?」
流石に日々網を引く漁師だけあって腕の力は相当なもので、スイングスピードもかなりのものだったが、それも災いして、こうやってほんのちょびっとの力が足されるだけで体の制御を簡単に失いかける。
目標を叩くと思った拳が透かされ、それどころか勢いを横方向へと流されたことによって態勢を崩したイーライは、たたらを踏むようにして体を回転させながら調理台へと上半身を打ち付けてしまう。
その際、カエルの潰れたような声をあげたのは、衝撃を微塵も逃すことが出来なかった証拠だ。
「ぐぇっ……な、なにがっ俺はなんで倒れっ―」
殴りかかったと思ったら調理台に上半身を預けていた、何が起きたのか分からないが…ってところだろう。
まぁ俺にしてみれば、この結果は普通に予想されたものだ。
フェイントも何もないパンチは、どこを狙っているのかがよく分かるし、感情が高ぶっているせいで視野も狭まっていた。
戦いの経験が豊富だとは思えない漁師のそんな攻撃を、冒険者としてそれなりに経験のある俺が対処できないわけがない。
「お前っ、ただの料理人じゃ…」
おっと、意外にも察するのが早い。
どうやらイーライは一連の結果から、すぐに俺が普通の料理人ではないと気付いたらしい。
「言ってませんでしたが、俺は冒険者です。ランクは白一級、まぁ料理もやりますので、戦う料理人とでも思ってください。…あぁ、ちなみにアンディというのも偽名で、本当は…―ジェシー、ジェシー・ライバックと言います」
戦う料理人というフレーズで、真っ先に思い浮かんだオールバックで後ろ髪を結った某沈黙シリーズの役名をもじったものがつい口を突いて出た。
ほとんど悪ノリのような発想だが、一応そう名乗ったのには理由がある。
まずないとは思うが、イーライが俺にリベンジしに来た時のことを考え、攪乱の意味も込めてのことだ。
「ライバック…苗字持ちってことは、貴族か?」
そう言えばこの世界では苗字を持つのって珍しいんだったな。
迂闊だったか。
なんて言おう。
「苗字持ちではあるが、別に貴族ではありませんよ。ちょっとわけありってやつです。…それより、一つ助言を。父親とは一度腹を割ってじっくり話してみることをお勧めしますよ。今の行動もそうですが、ただ突っ走るだけでは足元も疎かになって酷い目にあいますから」
イーライがこのような行動に出た理由として、父親とのコミュニケーション不足が考えられる。
トップとして村の発展を見込んだ決断をした村長と、その若さゆえに村が抱える遺恨が飲み干せないままでいるイーライでは、前者の方が未来を見据えているととれる。
はっきり言って、父親の跡を継いで村長となるイーライは、そろそろ自分の感情を抑える術を身に着けるべきだ。
そのためにまずは父親としっかり話をして、自分が抱えているものをぶちまけてしまえば、それを幾分か解消する手助けをしてくれるはずだ。
それが父親というものなのだ。
俺の言葉に思う所があるのかないのか、こちらを睨むその顔からは判断できないが、一先ず先程の衝撃で体が動かせないであろうイーライを残し、俺は勝手口へと足を向ける。
長居すると復活したイーライがまた殴り掛かってきそうな気がしているからだ。
まぁ本人が殴り掛かる前に言った一発だけという言葉を盾にすれば、一発は一発だと推し通すことはできるのだが、それもめんどくさいのでクールに去るとしよう。
そのまま特に引き留められることもなく勝手口を潜り、村長宅の玄関先で暇そうにしているジンナ村から同行した護衛の一人に、飛空艇で待機する旨を伝えてその場を後にした。
多分アイリーンの方はそろそろ帰還の準備に動き出すはずだ。
最後に見た時は話もある程度まとまっていたし、ジンナ村に帰るまでの時間を考えて、1時間もしない内に飛空艇へ戻ってくるだろう。
それまでに貨物室をザっと片付けておいて、出発に備えるとしよう。
貨物室に一歩踏み入れ、改めて内部を見渡してみると、道中に消費した食料や、二の村で降ろした食材等の分だけ多少はスペースに若干の余裕が出来ていた。
これなら座席を少し動かせば、行きの時よりも多少ゆったりとした空の旅を約束できそうな気がする。
元々この飛空艇は旅客機ではないため、急遽取りつけた座席も木箱を連結して背もたれ付きのベンチとしたものが申し訳程度に固定されているだけだ。
なので、座席同士の前後の間隔を広げるのに特別な工具がいらないのは、今の俺にはありがたかった。
そんな風にレイアウトをちょこちょこと弄っていると、飛空艇の外で話すアイリーンの声が聞こえてきた。
どうやらここまで見送りに来た村長と別れの挨拶をしているらしい。
その内容ははっきりとは聞き取れないが、それでも和やかな声が俺の耳に届く程度には、互いに友好的な別れとなったようだ。
「アンディ、出発の準備はどうだ?」
そう言いながら出入り口からひょっこりと顔を見せたのはマルザンで、ふと気づいたがこの時になって初めてマルザンの声を聞いた気がする。
何かの折には耳にしていたかもしれないが、顔と声を一致させたのはこの瞬間が最初になる。
「大丈夫です。すぐにでも飛べますよ」
「そうか」
中々低音の利いたハードボイルドな声をしているマルザンの言葉に問題ないことを伝え、操縦席へと着く。
すぐに飛空艇の動力を立ち上げると、それを待っていたかのようなアイリーンを先頭に、護衛の人員がゾロゾロと乗り込んできた。
ジンナ村に連れて帰る人全員が乗ったのを確認し、乗降口を閉めるとアイリーンに最後の確認をする。
「では出発しますが、忘れものなんかはありませんね?」
「ありませんわ。さあ、お行きなさい」
その言葉を受け、飛空艇をゆっくりと上昇させていく。
窓から下を覗き込んでみると、地上ではこちらへと手を振る村人たちの姿があった。
飛空艇の発進は村人達にとっていい見世物になったらしく、そのおかげで笑顔で見送られるのは何とも気分がいい。
ただし、若干一名がこちらを睨んでいるのは頂けないが。
見送る人の群れから離れた場所で佇むイーライは、やはり友好的に見送ってはくれないらしい。
「随分と睨まれていますわね。アンディ、何かしましたの?」
俺の視線を辿ったのか、アイリーンもイーライの方を見ながらそんなことを言う。
「まぁちょっと揉めまして、痛い目に」
「そう?まぁ派手な騒ぎは起こさなかったようですし、そのことは聞かないでおきましょう。それで、ジェシー・ライバックというのはなんです?」
「おや、どこでその名前を?」
「あのイーライという方が、帰り際にあなたのことを聞いてきましたのよ。冒険者であることと本当の名前はジェシー・ライバックだということの真偽なども」
まぁ俺のことを知ろうとするならアイリーンに聞くのは当然の行動か。
結構裏の事情が匂うハッタリをかましたつもりだったが、イーライは思ったよりも直情的に動いたようだ。
ちと、しくじったか?
「どう答えたんですか?」
「適当に濁しておきましたわ。あなたのことですから何か考えがあってそんなことをしたのでしょう?ならば、それを無為に壊すような無粋は致しません」
普通は訳の分からないことを聞かれた場合、それを知らないと突っぱねるものだが、アイリーンのこの反応からするに、恐らく含みを持たせた言い回しでイーライを煙に巻いたのだろう。
そう言うことが出来る辺り、アイリーンの腹芸スキルは順調に育ってきているようだ。
「助かります。決してアイリーンさんが不利になるようなことにはしませんから」
「そう願いますわ」
企み事があると知って尚、こうまで理解を示してくれるアイリーンは本当に得難い友人だ。
今日までに築いた信頼関係が今のやりとりに凝縮されていると言っていい。
まぁ実際、大した企みでも何でもなく、ただの悪ふざけに過ぎないのでアイリーンの不利にならないのは当たり前だ。
アイリーンに聞かれたことにも、とりあえず話を合わせただけで、本当に大したものじゃあ断じてない。
そんなやりとりがありつつ、船首を巡らした飛空艇はジンナ村めがけて海上を滑るようにして飛んでいく。
帰りは護衛の人達も空に慣れただろうから速度を抑える必要もなく、かなりの速度を出せるおかげで、完全に日が落ちる前にはジンナ村には着けるだろう。
半日飛空艇を飛ばして、二の村で料理を作って、イーライに絡まれてと思ったよりも波のある一日を過ごしたせいか、体の芯に若干のだるさを感じてしまっている。
こりゃあ帰ったら飯を食ってすぐに眠っちまいそうだ。
あぁ、そう言えばパーラが土産話を楽しみにしていると言っていたな。
…うん、そっちはアイリーンに任せるとするか。
交渉の当事者であるアイリーンからの方が、面白い話も聞けるだろう。
うん、そうしよう。
丸投げではない、丸投げではないのだ。




