とある借金取りの死
SIDE:チャパビウ
ここ数日はディルバの実家を張っているが、全く動きがない。
やはりカマナオが暴れたのをどこかで聞いたのか、このまま寄り付かないまま時間だけが過ぎていくことを想像して溜息ばかりの日々を送っている。
早朝、部屋の扉を激しく叩く音に起こされ出てみると、宿の主人が来客を告げに来ていた。
まだ残る眠気を堪えながら応対すると、カマナオがなにやら慌てた様子で俺を呼んでいるようで、それを聞いて新しい動きがあったかと受付へと急いで向かうと、そこには荒い息を吐きながらカマナオが床に座り込んでいた。
「どうしたカマナオ、随分と息が荒いぞ。そんなに興奮するなにかがあったのか?」
「それどころじゃねぇ!ディルバのことだが、まずいことになったぞ。このままじゃ殺されちまう!」
「…どういう意味だ?」
殺されるという言葉で眠気が吹き飛び、俺の腕を掴みながらカマナオが宿の外へと移動した。
あの場では宿の主人もいたので、外で話したほうがいいと判断したからだろう。
宿のすぐそばにある路地裏へと続く横道に滑り込むようにして立った俺達は、声を潜めるようにして話し始める。
「あのあと俺っちがいろいろ調べてみたらえらいことが分かったんだが、あのディルバって奴はえらく腕の立つ剣士らしい。そんで、あいつの実家に手を出した俺っちを殺すってキレてるんだよ」
「腕の立つ剣士だぁ?俺は前にあいつに少しばかり乱暴な手を使ったが、少なくとも荒事に向いてる奴の反応じゃなかったぞ……おい、その傷はなんだ?」
カマナオの右肩から背中にかけて大きく切り裂かれた服から覗く切り傷に気付く。
斜めに綺麗に裂かれた服は血で滲んでおり、布の裂け目からかすかに見える傷は刃物によるそれの特徴を俺に伝えてくる。
俺の傭兵として生きてきた経験から見て、この切り傷は相当な手練れによるものだと推測できる。
剣筋が真っ直ぐに振り抜かれた形跡を布に残されているし、切り裂く以外の破壊の形跡を伴っていないことからも、刃物の扱いに常人以上に精通しているのではないかと思える。
これがもしディルバの手によるものだとしたら、カマナオの言っていることの信憑性は高まってくる。
「あぁ、これか。ディルバの野郎に追われてる時につけられた。それほど深い傷じゃないから心配ない。…背中を向けて逃げるのが一瞬遅かったら死んでたろうな」
確かに血は止まっているし、切り傷も綺麗な物で、ちゃんと治療すれば意外と早く治るはずだ。
「ともかく、俺っちは街を離れる。あんたもすぐに逃げた方がいい」
「バカ言え。貸した金が返ってこないことには逃げられるかよ」
「そんなもん命には代えられねーだろ!あ…」
言い合いのようになってきた俺達だったが、カマナオが路地裏を見て上げた声に、カマナオの視線を追う様にそちらに目を向けると、薄暗い路地裏からこちらへとゆっくりと歩いてくる人影があった。
早朝の路地裏はまだ朝日が差すことはないのだが、薄暗い中にあって白刃のきらめきが時折際だった存在感を示している。
徐々に近づいてくるうちに人影の顔が判明して来た。
ディルバだ。
顔は以前見た時よりも険しさが増しており、手に持った長剣のせいか、随分と雰囲気が違っている。
踝までの長さがある黒いマントを羽織っており、夜の闇に紛れられたら目で追うことは難しいだろう。
今は朝ではあるが、路地裏ぐらいの暗さであれば、黒いマントの隠蔽効果は十分に働く。
いつもは身に着けているナイフすら手元にない状態で刃物を持った人間に相対するとは、かなり分が悪い。
「くそっ、野郎ここまで追ってきやがったか…おい、逃げるぞ」
「待てよ、まずは話し合いをしてからでも―」
「もうやったよ!それでも問答無用で襲い掛かって来たんだ!完全にこっちを殺す気なんだよ!」
すぐにその場を離れるカマナオを追う様に迫ってくるディルバに、俺も危機感を抱いてカマナオの背中を追う。
後ろからは刃物を携えたディルバが駆けてきているという状況に、自分が置かれた状況がいかに切羽詰まったものかを思い知る。
走りながら道ですれ違う誰かに助けを求めようと思ったが、こんな朝早くから出歩く人間がそうそういるわけもなく、誰とも会うことなく走り続ける。
とはいえ全く人がいないというのも少しおかしい気がしたが、今はそれどころではないのですぐに気にならなくなる。
先頭を行くカマナオに付いて行き、大通りから曲がり角に入って暫く進むと、俺達は行き止まりへと辿り付いてしまった。
「何やってんだ!行き止まりじゃねーか!」
目の前にはどこかの建物の塀の一部だと思われる高い壁がそびえており、無駄だとはわかっていながら強く叩いてみるが、当然びくともしない。
「うるせぇ!俺っちもこの街の地理にはあんまし詳しくねーんだ!」
「なんだと!?ならなんで先頭を走ったんだ!くそ!」
こうしている間にも後ろからはディルバが迫っていると思うと、冷静さを欠いてしまい、お互いを罵り合うようになっていく。
ジャリっという土を踏み締める音が思いのほか耳に強く届き、音の発生源へと顔を向けると、俺達が来た道を塞ぐようにしてこちらを見つめて立つディルバがいた。
「テメェ…こんな真似してタダで済むと思ってんのか!?」
カマナオがそう凄みながら、腰に差してあったナイフを抜いて構えた。
どっしりと腰を落とした堂に入った構え方だが、長剣を前にナイフで立ち向かうのは余りに無謀だ。
それも相手が腕の立つ剣士であればなおさらだ。
こうして相対して分かったが、脚運びと体のブレの無さからわかるほどにディルバの技量は途轍もなく高い。
かつて傭兵として生きてきた俺の人生で見てきたどの剣士と比べてもその強さは計り知れない。
下手をすればどこぞの騎士団で隊長格を張れるぐらいではないだろうか。
それになによりもあの目、あれは確実に人を斬ったことのある人間の目だ。
一人や二人じゃない。
束で数えた方が早いぐらいの命を奪わないとああいう目にはならないはずだ。
命を奪うことに躊躇しない、戦いを知る剣士の姿に、以前見たディルバを重ねることに途轍もない違和感を覚えた。
そして何よりも恐ろしいのは、本当の自分を隠し、人畜無害な顔を装って平然と街に住むことのできるその精神性だ。
あいつはその本来の実力を隠して、自分を弱い存在と思わせる裏で、いつでも相手を殺せるという状況を楽しんでいたのではないだろうか?
そう考えれば俺が以前あいつを痛めつけた時のことも擬態だったと納得できる。
「タダで済むか…だと?それはこっちの台詞だ。確かに金を返すのが遅れたのは俺が悪い。だが、だからといって家族に手を出されては俺もタダで済ますつもりは…ないっ!」
空気を割くようにして吐かれた言葉と共に振るわれた剣は、壁際にまとめて積まれていたレンガに吸い込まれるようにして通り抜け、カンッという音とともに振り抜かれた剣を追う様にして、斜めに切られたレンガがずり落ちていく。
その光景に俺とカマナオが揃って息を呑む。
ただの一振りだけで強固な石材をいとも容易く切断し、さらにその断面は見事なまでに滑らかさを残しており、剣で切り裂いたとは思えないほどだ。
あの手の剣は切れ味よりも衝撃を尖った刃部分に集中させるための機能を持つもので、あそこまでの切れ味を出すには剣士側の技量として、振りの早さと重心の移動、筋肉の脱力と緊張を交えた手首の使い方で補うしかない。
これもまたディルバが剣士として尋常ではない腕前を持っているということに他ならず、カマナオの言葉は真実だったのだと改めて思い知らされた。
「…ま、待て!わかった、俺っちが悪かった!もうお前に関わらない!姿を見せることもしない!借金も帳消しだ!な?それで見逃してくれぃ!」
一瞬呆けていたが、すぐに自分と相手の戦闘力の差に思い至ったようで、カマナオが必死の形相でそう訴えだした。
手に持っていたナイフを地面に捨て、武器がないことを示して懐から証文の紙束を取り出す。
命がかかっている今、その反応は理解できるが、ディルバからは見えないカマナオの背中に回された左手にもう一つ、隠し持っていたと思われるナイフが握られていた。
カマナオの正気を疑ったが、この状況で迂闊に制止の声を上げることもできず、ディルバの元へと歩いて行くカマナオをただ黙って見送るしかできなかった。
2人の距離が近付いていき、立ち止まったカマナオが差し出した証文にディルバの左手が触れたその時、カマナオはその場で身を低くするのと同時に大きく一歩踏み込んだ。
長剣が簡単には振り切れない懐まで潜り込んで、ナイフで急所を一突きするのを狙っていたのだ。
虚を突いた巧みさと踏み込みの早さ、共に俺から見ても会心の一手だと驚かされた。
並の人間ならカマナオの姿を見失ったと思うのと同時に、体にナイフの刃が突き立っていただろう。
だが残念なことに、ディルバは普通の人間の範疇には収まっていなかった。
俺の位置からではよく見えないが、それでもディルバが右手に持っていた長剣を翻すようにしてカマナオとの間に滑り込ませると、金属音と共に地面に叩き落とされたナイフが甲高い金属音を立てる。
そして、唯一俺から見えるカマナオの背中が一度だけ大きく痙攣すると、その場で膝から崩れ落ちていく。
カマナオが倒れたことで見えるようになったディルバの左手にはいつの間に抜いたのか、長めのナイフが握られており、そこからしたたり落ちる血の存在によって、カマナオが刺されたと理解できた。
カマナオを中心に、地面には赤い水溜りが急速に広がっていき、その光景でカマナオはもう助からないだろうと思わせた。
ディルバの姿勢から推測すると、恐らくナイフの刺突を咄嗟に引き寄せた長剣の鍔に引っ掛けるようにして軌道をズラし、そのまま手首を返す動きを利用してカマナオのナイフを鍔で巻き取るようにして地面に落とした後で無防備になった胴体にナイフを突き刺した、といったところだろう。
予め打ち合わせでもしてない限り普通は実行に移すことは不可能な芸当をやってのけたディルバの腕に、改めて戦慄を覚える。
「ふんっ、そんなことだろうと思ったよ」
興味が失せたと言わんばかりの作り物めいた表情で死体を見ていたディルバの目が、今度は俺の方へと向く。
以前見た時とは別人のような鋭い視線に射抜かれ、足が震えてくる。
「お、俺はお前の家族に手は出していない。やったのはカマナオだ。俺は関係ない!」
特に何か言ったわけではないが、あのディルバの目を見るに、俺がカマナオの仲間だと思われているのは間違いないだろう。
このままではカマナオと並んで地面に血の池を作る未来しか思い浮かばず、何とかしてディルバの怒りの矛先を逸らしたい。
実際、ディルバの実家に殴り込んだのはカマナオだけだし、俺はそのことを注意したぐらいだ。
あれは俺の本意とはかけ離れた、いわば事故だったのだ。
「それは知っている。こいつが勝手に俺の実家で暴れたんだろう?」
「そ、そうだ!そうなんだ!俺はむしろやりすぎに釘を刺したぐらいで―」
「だが、こいつと全く関係ないわけじゃない。2人で酒場で仲良く話していたのを見たって奴がいる」
その言葉に続く言葉が出なくなる。
チキリと長剣が立てる金属音が酷く耳に障り、足元が揺れているような感覚に襲われた。
カマナオと唯一顔を合わせていたのは最初に酒場に誘った時だけ。
それを見ていて、しかもディルバに告げ口をした人間がいたことに歯ぎしりが立つ。
「…まあいい。直接家族に手を出したわけでもないあんたに手を出すのは筋が違う。なにより、俺はあんたから金を借りている立場だしな。この場で起こったことは他言無用、それを守れるなら危害は加えない」
「…本当か?」
「ああ。すぐにここから立ち去るなら追うことはしない」
自分はもうおしまいだと思っていただけに、俺を殺そうとしないことに少し驚くが、今の俺は本当に心の底から安堵していた。
命が助かるということを実感すると、自分が全身に汗をかいていたことに今気づき、さらに膝から力が抜けそうになる。
寸前で踏ん張ることで頽れることだけは避けたが、それでも膝が少し震えるのだけはどうにもできなかった。
俺も傭兵として生きてきた時間と経験はそれなりに多いと自負しているが、それもこの男を前にしてしまえば虚勢に等しいものだろう。
ああも冷徹な剣を振るう男の近くに長い時間いられるほど俺の精神は強くない。
一刻も早く目の前の男から離れたいという欲求が湧き上がり、始めはジリジリと後退り、かなりディルバから離れたところで縺れる足を必死に踏み出し、路地裏から転げるようにして大通りへ飛び出した。
俺の足はまるで重りが付いているかのように動きが鈍かったが、ディルバから離れるにつれて軽くなっていく足に急かされ、遂には全力で宿へと駆けていった。
さっきの奴の口ぶりから、借金の件でまた顔を合わす可能性を匂わされたが、冗談ではない。
借金などもうどうでもいい、どうせ奴の借金は元金以上を回収済みだ。
家族が危険な目に遭わされたとはいえ、何の躊躇もなく人を殺す奴だと分かった以上、あんなやばい奴とは二度と関わりたくもない。
こんな危険な街になんかいられるか。
俺は故郷に帰らせてもらう!
SIDE:END
「…おいアンディ、もう起きていいぞ」
倒れ込んでいる俺に、ディルバの変装をしたアデスから声がかかる。
「そうですか。…あ~ぁ、血のりでベットベトだ。ちょっと量を間違えたかな。…うわっ下着までいってるし…参ったなぁ」
死体の振りを止めて、血だまりの中で目を開けた俺は立ち上がり、赤黒く染まった服を見下ろす。
当然ながらこの血は本物ではなく、今回のためにベリー系のフルーツの搾り汁をベースに、芋を乾燥させて粉末にしたものをブレンドしたもので、赤黒い色合いと粘り気ぐあいは本物のそれとほとんど見分けがつかない出来だ。
唯一の心配であった匂いは、路地裏の埃っぽさとチャパビウから少し離れた位置に倒れたおかげで誤魔化せたようだ。
「アンディ、チャパビウは宿に戻ったよ。すごい慌てた様子で駆け込んでいったけど、あの感じだとすぐにでも街を出ていくだろうね。見てて少し可哀想なぐらいだよ」
大通りから姿を現したパーラが俺達の方へと近付きながらチャパビウの様子を教えてくれた。
パーラにはチャパビウが路地裏を去る時から尾行するように言ってあったのだ。
慌てるチャパビウが尾行者の存在に気付くわけがなく、パーラも余裕の様子で帰って来た。
「ご苦労さん。あぁ、ついでにディルバさんにも終わったって教えてやってくれ」
「わかった」
小走りでパーラは、ここに続く曲がり角の手前に置かれた樽に入っているディルバを呼びに行く。
さっき俺とチャパビウが路地裏に入ったのを確認したディルバが、樽の中にいたアデスと入れ替わったので、今は彼が樽の中にいる。
つまり途中まではディルバ本人だったが、この路地裏に来たのはアデスだったということだ。
ほどなくしてディルバを連れたパーラが戻って来た。
作戦の成功を既にパーラから教えられたのか、どこか晴れ晴れとした顔をしているが俺の姿を見るとギョッとした顔に変わる。
「あぁ。これはただの血のりだから」
「そ、そうか。怪我をしてないなら良かった。」
そう言えば打ち合わせでは死んだふりをするとは言っていたが、血のりを使うとは言っていなかったな。
「全く、このナイフなら怪我はしないとわかっていたが、血が噴き出たように見えた時は内心焦ったぞ」
アデスが手に持ったナイフの刃の先端を指で押し込むと、刃が柄に引っ込んでいく。
これは俺が用意していた小道具で、血のりを詰めた動物の腸と組み合わせると本当に刺されたように見せられる。
俺が事前に体に巻き付けていた血のりがパンパンに詰まった腸を、アデスの突き出した偽のナイフが体に触れた瞬間、雷魔術で発生させた電気で腸の一部を裂き、圧力が解放された血のりがまるで血管が破損した様に吹き出してきたおかげで大けがを偽装できたのだった。
「本当だよ。私も見ててびっくりしたんだから。アデスさんが目で止めてなかったら飛び出してたよ。でもよく偽物だってわかったね?」
「まぁわしも騎士としてお前らよりも場数を踏んでいるからな。見た目は血にそっくりだが、匂いが違っていたから気付けたのだ」
やっぱり本物を知っている人間にはバレるか。
チャパビウにバレなかったのも単に運が良かっただけかもしれないな。
もしあの場で倒れた俺に駆け寄られていたら匂いでバレていたかもしれない。
かくしてカマナオという借金取りが一人死に、ディルバに危害が加えられないようにするための作戦『借金取り、死すべし』は完遂された。
「それにしてもチャパビウの慌てようは酷いものだったな。見ていて少し気の毒になったぐらいだ」
アデスの言葉は嘲笑や愉快さといったものが含まれておらず、むしろ同情的な感情が込められているようだ。
そしてその感情は俺も同様に抱いていた。
「そうですね。俺もまさかあそこまでになるとは思いませんでした。多分アデスさんの脅しが効きすぎたんでしょう」
「馬鹿言え。わしも多少殺気を当ててはいたが、それ以上にお前の筋書きが凶悪だったんだ。打ち合わせの時も思ったが、よくもああも人の恐怖心を煽るやり方を思い付くものだな」
呆れと疑念が混じった眼差しを向けられ、俺は曖昧に笑みを返すしかできなかった。
確かにチャパビウには過剰なまでの恐怖心が生まれていた。
というのも、この世界の人間は、目に見える恐怖よりも、自分の想像力で育った恐怖心の方が遥かに恐ろしいようだ。
チャパビウは得体のしれない人間としてディルバを認識し、自分では立ち向かえない絶対的な力の持ち主に脅され、命の危機から一転して助かる。
疑念・恐怖・諦観・安堵、その落差たるや図り知れないだろう。
ジェットコースター並みだ。
気の弱い人間ならトラウマになっていても不思議ではない。
今のチャパビウはとにかく少しでも早く危険から遠ざかりたい一心のはずだ。
これでディルバが商人ギルドに保護されるための時間は稼げるだろうし、もしかしたらその後の交渉も有利に運べるかもしれない。
いずれ時間をおいてチャパビウがディルバのことを嗅ぎまわったとして、カマナオという人間を調べ上げようとしても、そんな人間は元から存在していないし、カマナオが方々から買い上げた借金の証文も偽物なのだからその線からも探れない。
まさに狐につままれたような気になるだろう。
それにしても今回用いた色々な手段をまとめると、この世界の人間に対する心理的な攻撃には一考の余地がある。
これまでもいくつか心理的な効果を利用して様々な場面を乗り越えてきたが、そのどれもが効果がありすぎた。
別に専門家でもない、せいぜいネットやテレビで聞きかじった程度の知識しか持ち合わせていない俺ですらその恩恵は過分に受けているぐらいだ。
思考の多様性が育ちにくいこの世界において、思い込みや盲点を突いたやり方というのは時に凶悪なまでに人の精神を揺さぶってしまう。
人の精神に訴えかけるのは確かに効果的ではあるが、やりすぎるとその人間の心を壊してしまう恐れがある。
未だ壊れた心を修復する完全な治療法は存在していない。
そんなやり方をホイホイと使い続けるのは危険すぎる。
使いどころと効果を見極め、あまり多用しないようにした方がいいだろう。
「…また何か考え込んでるな。いつもああか?」
「まあね。でもあの顔は真剣に悩んでいる時の顔だよ。悪巧みしてる時はもっと怖い笑い顔してるから」
失敬な。
俺はいつだって最善を求めて考えを巡らせているだけだ。
それを悪巧みなどと……まぁ、するか。
ともかく、作戦は十分成功と言える終わり方を迎えたので、あとは早々に撤収だ。
地面に撒かれた血のりは土を被せて消し、割れたレンガはかなり魔力を使うが土魔術で粉々にして周囲にバラまく。
樽は後でパーラが返却することになっているので、取りあえずこの場の痕跡は一通り消すことが出来た。
もう少し時間が経てば大通りにも人が増えてくるので、俺達は今のうちに店に戻ることにする。
店では俺達の帰りを待っていたローキスが朝食を用意してくれていた、なぜかその場にはマースもいた。
俺達がマースの姿に気付くと、傍にいたミルタが口を開いた。
「皆が出て行ってからしばらくしたらマースちゃんが来てね、心配そうに店の前を行ったり来たりしてたから、どうせだから一緒に帰りを待とうってなったの」
「いや、なんでマースが今日決行日だって知ってるんだ?…さてはミルタ、お前…」
なるべく情報が漏れるのを防ぐために、実行部隊である俺達以外には知らせないようにしていたはずだが、そんな中でちょくちょく打ち合わせに顔を出していたのはミルタがマースに知らせたとしか思えない。
「あははははは…ごめんね?」
一応謝ってはいるが心がこもっているようには感じない。
「違うの!私がミルタに無理やり聞いたの。だってやっぱり心配だったから…」
マースの方は心底申し訳ない空気で謝っているが、実際ミルタの存在を失念して口止めをしていなかった俺の落ち度でもあるので、あまり強く言えない。
「まあ一応もう終わってるからいいけど、もしマースから俺達の存在に辿り着かれたら作戦は全部台無しになる可能性もあったんだからな」
「ごめんなさい……。それで…、どうなったの?」
まだ不安が残る声色のマースの言葉に応えるように、俺がその場から脇にどけると、ディルバがマースの前へと一歩出てきた。
「心配かけたな、マース。大丈夫、無事終わったよ」
そんなディルバの言葉を聞いて、心配そうな顔から一気に安堵の表情へと変わったマースが大きく息を吐く。
「けど、今回は私たちが解決したけど、次も助けられるかわからないから、暫くはマースちゃんがディルバさんの様子を見てあげたらいいよ。修行先にもこまめに顔出してさ。それに…」
「え、なに?」
パーラがそんなことを言いながらマースに近付き、何やら耳打ちをする。
―……傍に……押し倒し……責任…恋人…
こしょこしょとマースにだけ聞こえるだろう声で話すうちにマースの顔は目に見えて赤く染まっていく。
俺の耳で拾えた単語だけでも不穏なものを感じたが、それに加えてパーラの顔が何やら悪だくみをしているような薄い笑みを浮かべたものになっており、碌なことを吹き込んでいないと予想する。
こんな顔をするようになったのは絶対セレンの影響だ。
「うん!ディルバがもう二度と馬鹿な真似しないように、私がしっかりと見るわ!大丈夫、親にはちゃんと説明するから暫くは一緒にいるわね」
「お、おう。うん、まあいいんじゃないか?」
急に大声でそう宣言するマースに、気圧されるようにディルバがそう答え、マースによる生活改善の保護観察が決まった。
俺としても借金を作った原因である生活態度に関しては、どうにかしてディルバに釘をさすつもりだったので、しっかり者のマースが見張るというなら俺から何か言うことは無い。
何やらパーラとミルタがニヤニヤと不穏な笑みで2人を見ているが、恐らく触れないほうがいいだろう。
無事にことが済み、なんとか面倒ごとも片付いたところで、俺は―腹が―減った。
一度空腹が頭に浮かぶと、どうしようもなく腹の虫が騒ぎ出し、俺の腹は盛大な音を立てる。
音の発生源である俺に視線が集まり、恥ずかしい思いになるが、これは生理現象なのでどうしようもない。
誰かから始まった笑い声がその場を包んだのを合図に、ローキスが用意してくれていた朝食を全員で頂くことにした。
面倒ごとが片付いた後の飯は実にうまいものだ。




