心中
「僕達、これでやっと一緒になれるんだね」
「ええ、そうね」
ある旅館の一室。男と女は互いの意志を確認するように、顔を見合わせていた。
テーブルの上には、水が注がれたコップと小さな錠剤がそれぞれ二つ。彼らはそう、俗に言う心中というものを決行しようというところであった。
(ごめんよ。本当は天国ではなくて、現世で君と結ばれたかった。非力な僕を許してくれ)
男は心の中で、女への謝罪の言葉を繰り返す。
実はこの二人、互いの親同士が非常に険悪な間柄にあった。男と女の親は共に代々続く某大企業の代表取締役を務めている。同業であるため、普通なら業務提携などをして良好な関係を築いていてもおかしくはないはずだった。だが、経営方針や根本的な理念の相違などから、長年に渡り敵対し合っているのである。どうあがいたところで、二人の思いが認められるはずなどなかった。しかも話を耳にした親達が激昂し、来月にもそれぞれ別のパートナーと無理矢理結婚させられようとしていたのだった。
そこで彼らが選んだ道は、服毒による情死。その運命の悲愴さは、どこかロミオとジュリエットを彷彿とさせる。
「さあ、早くこの薬を飲んで楽になりましょう。そうすれば私達、ずっと一緒にいられるわ」
女はそう言って、男の方に錠剤を一つ寄せる。
彼女が用意してくれた、苦しむこともなく眠るように逝けるという、天国への片道切符。
「じゃあ、そろそろ飲もうか」
「ええ……」
男と女は錠剤を手に取って口元にそっと寄せるが、なかなか飲み込もうとしない。何となく気まずくなり、ちらりと互いの様子を伺う。
「……いざとなったら、踏ん切りがつかないものだな」
「……そうね。いざ死ぬと思うと、やっぱり怖いわよね」
一旦錠剤をテーブルに置き、湿っぽく息をつく。あれだけ強く決意を固めてもなお、死というものは本能的に回避したいと願ってしまうものなのか。
「じゃあ、今度こそ……」
「え、ええ……」
男と女は再び錠剤を手に取り口元に運ぶ。しかし、やはりすぐには口へ放り込もうとはしなかった。
「……飲まないのかい?」
「え、ええ。やっぱりちょっと、怖くて」
女は伏し目がちになりながら、そっと錠剤をテーブルに戻す。あまりにも消極的な態度を前に、男の心にある疑念が生じた。
(彼女は本当に、死ぬ気があるのだろうか)
女は先程から、錠剤を手に取るまではスムーズに行う。そこまではいいのだが、何故かそれを飲み込もうとはしない。
まるで、しきりにこちらが毒を飲むのを見届けようとしているような。自分が毒を口に含むのを、今か今かと待ちわびているように見えて仕方がなかった。
(まさか彼女には、死ぬ気がないのだろうか。僕が毒を飲むのをその目で確かめて、自分は飲まないようしているのでは……?)
一度抱いた疑問は、とりとめもなく増幅していく。例えそれが、心から愛した人に対するものであったとしても。
いや。愛しているからこそ、なおのこと強く疑ってしまうのかもしれない。一緒にいたいと思う相手だからこそ、絶対に裏切られたくない。
(彼女が僕を裏切るはずがない。けど、彼女はご両親のこともすごく気にかけていた。婚約者はとても誠実で、心から彼女のことを大切に思っているらしい。それに友人も多いし、彼女が死ねば大勢の人が悲しむだろうな)
自分一人と大勢の人々を天秤にかけた場合、彼女はどちらをとるのだろうか。どちらを苦しませる道を選ぶのだろうか。
(でも、これはもう決めたこと。僕はどうしても、彼女と一緒に逝きたいんだ。錠剤を飲むのは、彼女が先に飲んでから……。いや、駄目だ。この錠剤を用意したのは彼女だ。彼女が先に飲んだからといって、本当に死ぬかはわからない。彼女の元にあるそれが、毒であるとは限らない)
男は女を一瞥する。女は錠剤をテーブルに放置したまま、物憂げな表情でうつむいていた。
……その裏に隠れる真意は、全くもって読み取れない。
(ごめん。でも、こうするしか君を信用する術がない)
もしこれが両方とも毒ならば、一緒に逝こう。もし、彼女が一人生き残ろうとしているなら……。
男は隙を見計らい、テーブルに置かれている錠剤と自らの手の中にあるそれをすり替えた。
(大胆なことをしてしまったが、ばれなかっただろうか。いや、大丈夫。うまくやれたはずだ)
ドクドクと高鳴る胸をどうにか落ち着かせながら、女にそれとなく切り出す。
「なあ。そろそろ。せっかく決意したのに、このままじゃ」
「……そうね」
男は先陣を切るようにして錠剤を口に放り込み、水で一気に流し込んだ。すると女も、あっさりとそれを口に含む。
コクンという音と同時に、のどが上下に動いたのをしっかり確かめた。
「これで一緒に……なれるん……だね」
「ええ……」
間もなくして、視界が端の方から次第にかすんでいく。まぶたが重くなり、宙に浮くようなふわふわとした感覚に襲われながら、意識が徐々に薄れていった。
痛みや苦しみはない。そこにあるのは幸福感。ただ、幸せという言葉だけ表現できる、不思議な心地だった。
(そうか。全て僕の思い過ごしだったか。少しでも疑ったりしてごめん。やっぱり僕には、君しかいない。君しか……君……だけ……し…………か………………)
数分後。女は男の傍らで、青い顔をして震えていた。
ぐったりとしたまま動かぬ手を取り、そこから急速に温もりが失われていくのを感じつつ涙ながらに訴える。
「どうして? 私、あなたにはどうしても生き残って欲しかったのに。あなたは誰からも愛されていて、才能も未来もある素晴らしい人。それなのに、どうしてこんなことを……」
女は泣いた。ただ一人、静まり返った部屋の中でひたすらに泣き続けた。
――彼女の嘆きを聞き入れる者など、既にこの世にはいないというのに。