とんかつ一人前
この作品は弥生祐さんの企画された「五分間企画小説」の参加作品です。「五分企画作品」(「」はいりません)と検索すれば、この企画に参加されたほかの作者の方の作品が見られます。
久世弘が新宿に来たのは四年ぶりのことである。
サラリーマンになって以来、仕事でさえこの街に来る事は無い。しかし大学時代は校舎がここにあったため、ほぼ毎日この街に来ていた。
彼はこれから大学時代の友人と会う。その友人はかつて役者になる夢を持っていた。しかし夢を諦め、実家の旅館を継ぐために今夜バスで帰る。
それに先立ち昨夜大学時代の友人らによる送別会が行われたが、彼は仕事の都合で行けなかった。そのため今日バスの出発前に会えれば、と思って来たのである。
「もしも神様がいるのなら、もう一度あの頃に戻してもらいたい。そう思わないか、久世」
バスが出発する直前に友人はシャッターが降りた家電量販店を見て呟いた。
あの頃――大学時代は毎日のようにこの店の前を歩いていた。時には終電前、酒に酔いながら、時には試験前緊張で顔が強ばりながら――。自分と同じことで楽しめる仲間と一緒にいられる時間がずっと続くと思っていた。
バスが出発しても久世は友人が見つめていた家電量販店のシャッターを眺めていた。ふと、視線の先に仲間たちと笑いながら話をしている自分が通り過ぎていく。
(夜の新宿に来るものじゃないな)
この街に来たときから昔の楽しかったことを思い出している。あの時に帰りたい、そんな衝動にふと駆られてしまう。しかし、帰れないことは分かっているし、今の自分にも充分満足している。
だが、それでも帰りたいと思ってしまう――。久世は駅とは反対側の方向へ歩く。そんな彼の隣を、また大学時代の自分が仲間と慌てながら走り去っていった。
彼が向かう先は郵便局の向かいにある小さなとんかつ屋だ。大学時代は多いときで週に四度も通っていた店である。四年ぶりに来たが、木の枠が組まれているガラス戸といい、その向うに見える暖簾といい外装は変わっていない。
店の扉を開けようと手をかけた彼の背後で、突然叫び声とともに、激しい音がした。振り返ると大学時代の自分が一人の男と殴り合っている。
(そうか、俺はここであいつを殴ったんだった)
久世には大学一年の頃からずっと片思いの女性がいた。名前は島津葵。背は高くて髪は短く、目は垂れ目で鼻筋がすっと通っていて、性格は姉御肌の体育会系と言う、まさに彼の好みのタイプにぴったりの人であった。
久世と彼女は同じ学部で同じクラスだったので、すぐに友達になれた。毎週のように彼女とみんなでどこかへ遊びに行く。久世は彼女のことがどんどん好きになっていった。
大学三年の秋、ついに久世は葵に告白をする。彼女はちょっと困った顔をしてこう答えた。
「気持ちは嬉しいけど、君は私にとって友達の一人にしか見れないんだ。それに私、好きな人がいるから」
葵が好きな相手が久世の一番の親友である安藤晋であることを知ったのは、それから半月後のことである。
安藤は背が高く端麗な顔立ちで頭も良い。しかし一つだけとんでもない欠点があった。
それは浮気癖である。葵と付き合う前から彼が同時に複数の女性と付き合っていると言う噂が何度も流れた。そしてその噂のほとんどが事実であった。
葵と付き合うことでその癖が治れば願っていた久世だったが、一月もしないで安藤が浮気をしているという噂が彼の耳に入った。
とんかつ屋の前で久世は安藤を問い詰めた。安藤はあっさりとその事実を認めた。
その瞬間、久世は衝動的に安藤の腹を殴った。蹲る安藤に彼はこう叫んだ。
「お前、葵がどれだけ安藤のことが好きなのか分かっているのか」
振られたとはいえ、告白の後も久世と葵の友人関係は続いていた。葵は安藤の何気ない仕草を一つ一つ愛を込めて久世に話した。久世も笑いながらそれを聞いていた。それだけ安藤のことが好きなのなら、葵は幸せになれると思ったから――。
安藤を殴り、殴られながら久世は葵の気持ちを叫んだ。そして浮気をやめるよう説得した。
その日以来、安藤の女性についての噂はぱったりと途絶えた。そして現在、葵は「安藤葵」として生活している。
(あのとき殴っていなかったら俺は葵と結婚できたかも……。いや、それでも無理だっただろうな)
そう思いながら、久世はとんかつ屋の扉を開けた。
ここのとんかつ屋は、大きな丼に入ったご飯と、豚汁のお代わりが無料である。大学時代は仲間とお代わりの回数で争ったものだ。
今思えば、よくそれだけ食えたな、と呆れてしまう量である。
「はいーいらっしゃーい。何にしましょう?」
店員の声に久世はすぐ答えた。
「とんかつで」
「はい、とんかついっちょーう」
目の前に置かれたとんかつを食べながら、久世は昔の自分と今の自分を比べていた。
あの頃と比べてもう――
路上で喧嘩することも出来ない。
明日を気にせず酒を飲むことも出来ない。
自分のやりたいことを好きなときにすることが出来ない。
だけど――
ささいなことで怒らなくなった。
自分の事だけではなく、周りの人のことも考えられるようになった。
自分の言動について責任が持てるようになった。
あの頃と比べて失ったものもあれば手に入れたものもある――。そう思いながら久世は空になった丼を店員に差し出した
「すいませんご飯お代わりお願いします」
「はい、量は普通盛りでよろしいですか?」
「ええと……」
もうあの頃のように三杯も食べられない。でもここで引いては昔の自分に負けたような気がする。少し考えてから久世は答えた。
「丼半分でお願いします」
まだまだ俺はお代わりできるぞ、と久世は昔の自分にそう呟きながらとんかつを頬張った。