古本
ある日、土曜の午後。初めて行った街で、ふらりと寄った古本屋での話だ。
その店はいかにも大昔からやってる風な、長い年月による“シミ”があちこちに浮き上がった古本屋で、置いてある本も大抵、店とおんなじ空気を発していた。
店長らしき人物も、これまた店とずっと一緒に生きていたような雰囲気を纏う、くたびれたジイさんだった。透明の引き戸をガラリと開けると、こちらを一瞥もせずに「いらっしゃい」と言った。客より、読みふけっている新聞の方が大事らしい。
(さっと見て出るかァー……)なんて思っていると、棚に挿さった一冊の本が目に止まった。
タイトルに惹かれたわけではない。装丁や字体、色に惹かれたわけでもない。
一冊だけ、背表紙が向こうを向いた状態で、挿さっているのだ。
こうなってしまうと、見ないわけにはいかない。俺は棚に手を伸ばし、その四百ページはあろうかというハードカバーの本を、中指で引き抜いた。
本の肌色の表紙には、薄い色で、大きな木が描かれていた。半ば朽ちかけ、表皮が穴ぼこだらけの木――正直、あんまり上手い絵だとは言えない。しかし、タイトルが書かれていなかった。カバーが剥がされているのだ。
裏表紙を見る。こちらにもやはり同じような木が違う角度から描かれているのだが、それだけ。バーコードも、この古本屋の値札も貼られていない。
次に俺は適当に、本の真ん中辺りのページを開いた。すると、中にはぎっしりと文字が埋め尽くされている。俺は目をその文の上で泳がし、流し読みをした。すると、あることがわかった。それは、どうやら日記のようなのだ。
しかもそれは、読めば胸くその悪くなる、社会や周辺の人々への愚痴や罵詈雑言で溢れていた。手書きの文字なんかではない、ちゃんと印字された文字なのだ。
(なぜこんなものが書籍化されているんだ……!?)俺は混乱した。こんなものを好き好んで読む人など、いるのだろうか……?
俺はパラパラとページを捲り、全てのページが、大抵同じような内容であることがわかると、気分が悪くなるのを抑えながら、ある答えを見出した。(これはきっと、自費出版で刷られた本なんだ……。こんなものが、普通に売られている訳がない……)と。
本を戻そうと、今度は背表紙をきちんとこちらに向けて、本棚に戻した。すると――。
『呪ってやる』
初めてこの本のタイトルがわかった。それは黒い、うねったような汚い文字だったのだが、その黒が一瞬、古い“血”に見えて、ゾッとした。
俺は再び本を手に取ると、背表紙を向こうに向けて、最初それを見つけた時と同じ状態に戻した。
ハッとして店主の方を見ると、そのジイさんはずっとこちらの様子を見ていたようだった。そして一瞬目が合い、彼はすぐに新聞に目線を落とした。
不快な思いを振り切るように、急いで店を出た。
もうそれ以来、その店には――その街にも行っていない。