7話 アトミック・カキフライ
僕の奥さんが自分の料理を食べているか。
悩みに悩んで、一応観察してみた結果、僕がその後どうなったかを、突然だが簡潔に説明しよう。
事実を申すならば、アリスは普通に料理を食べていた。
それはそれは幸せそうにだ。僕もそれに釣られて軋むお腹に鞭を入れながら、必死で笑顔を作っていた。
……リアルに鞭で叩かれている錯覚に陥ったのは内緒である。
そんなこんなで、美紀の危惧は杞憂に終わった。だが、同時にそれは、僕の中で新たな疑問と疑惑が渦巻く事となり、悶々とした日々を送っていた。
早いもので、新婚二週間。まさか料理でお腹……いや、頭を悩ませ続けることになろうとは。
そんなある日の事。またしても唐突な事実報告になるが、僕は残業中に会社で倒れる事になる。
精神が脆くなれば、肉体にも影響がある。何て話は迷信だと思っていたが、それはあながち間違いでもなかったらしい。
因みに原因は……。
「食あたりだね」
うん、わかってた。「なに食べたの君?」なんて聞いてくるお医者さんを苦笑いでいなしながら、僕は病室のベッドでうんうん唸る羽目になった。
いやぁ、お昼に食べたアリス特製、愛情たっぷりカキフライ。強烈だった……。
隣にアリスは、いない。実を言うと、病院に担ぎ込まれてから、僕は彼女の姿を見ていないのだ。
一応会社から連絡は行っている筈だが……少し、心配だ。あのカキフライを彼女も食べたというのだろうか?
そんな事を思っていると、コンコンと、ノックの音。「どうぞ」と、入室を促すと、そこにいたのはアリスだった。
「や、やぁ、アリス! 来てくれたんだね!」
一瞬だけ、吃ってしまったのは、致し方ない。というか、僕の心臓は、今も尚バクバクと、煩いくらいに脈動している。
理由? アリスが顔面蒼白で、その上泣きそうな顔をしているからに決まっているだろう!
「あ、アリス? どうし……」
「どうして、言ってくれなかったの?」
それは、今まで聞いたこともないくらい哀しげな、アリスの声だった。
「い、言わなかったって……?」
「惚けないでよ! お医者さんから聞いたもん! 竜斗が……竜斗が……」
大粒の涙をポロポロ溢しながら、アリスはしゃくりあげる。泣いてる姿は……見たくなかった。
彼女が何をしても可愛いと思っていた僕の、唯一の例外がそこにあった。
「食あたり……って。お腹壊したんでしょう? 私の……せいで」
ガツンと、頭をハンマーで殴られたような気分だった。
違う! という言葉を出したかった。けど、その否定の言葉が、何の役に立つだろうか。だって僕がお腹を壊した原因は、紛れもなくカキフライだったのだから。……寧ろ、今まで無事だったのが不思議というのはさておき。
僕が黙って、目を泳がせる度、アリスの目からはどんどん涙が溢れてきて……。
「やっぱり……お父さんが言った通りになって……違うって。きっと大丈夫だって……バカだ……もう少しで……竜斗を……」
途切れ途切れに言葉を紡ぎながら、アリスは一歩。また一歩と後ろに下がっていく。
「ア、アリス? 待って……待つん……」
「竜斗、さよなら……! 本当にごめんなさいっ!」
僕の制止も聞かず、アリスは踵を返し、病室から走り去って行く。
僕は慌てて追いかけようとして……。
「ふ……ぐぉおおぉお!」
ダメでした。牡蠣はヤバイ。すんごいヤバイ。
だけど……このままはもっとヤバくて……。
「負……け……る……かぁああ!」
端から見たら、二十六にもなる大人が尺取り虫みたいな形で前に進むなど、滑稽極まりないかもしれない。だが、それがどうしたというのか。
妻が泣いているのだ。
旦那が頑張らない理由が何処にある。
ホラー映画のゾンビ役みたいに、僕は病室から這い出す。
牡蠣め……僕の鋼の胃袋を持ってしても、未だにお腹にダメージを蓄積させていく。
たかが二枚貝の分際でやってくれる。何が海のミルクだ。チーズにしてやろうか。
「ちょ、葛城さん!?」
そんな事すれば、当然ナースに見つかるわけで。僕は病室に連れ戻されそうになるのを、必死に抵抗した。
床に張り付いて。
「離せぇ! 僕はこのまま寝てちゃいけないんだぁ!」
「いや無理しないで下さい! ほら、ほらぁ! お腹ギュルギュル鳴ってますよ!」
「関係ない! でもそんなの関係なぁい!」
「古い! 地味に古いですよ葛城さん! もう、誰かぁ! 誰か来てぇ!」
「やめろー! 仲間を呼ぶなぁ!」
結局。漫才のような攻防戦に野次馬が集まりつつあった中。僕はナースさん三人がかりで、ベットに戻された。
※
「で、今はそんな状態と」
「縛るとか反則だと思うんだ」
訴えてやる。と、息巻く僕に、お見舞いに来た美紀は小さくため息をつく。お見舞いに渡された正露丸が、何だか涙を誘うようだ。
「奥さんに連絡は?」
「てんで取れないよ。こんな状態だからね。だから美紀、この縄を解いてくれ」
僕の頼みに、美紀は肩を竦めながら困ったような顔をする。
「解くのはいいですけど、それでどうするんです?」
「え? 追いかけるよ?」
当然だろう? といった雰囲気の僕に、美紀はますます深くため息をつく。何だか妙に哀しげな顔。
正直、妻と後輩のそんな顔によるダブルパンチは結構精神にくるが、僕は止まる気はない。
「君だって、それを見越して正露丸を持って来てくれたんだろ?」
「いや、見越せるわけないでしょ。ネタで持ってきたら先輩がす巻きにされてるなんて思いませんでしたよ? てか、正露丸飲んでどうこう出来る訳ないでしょう?」
バカ野郎、ラッパのマークを舐めるな。といった台詞は、お腹のギュルギュルといった音で不発に終わる。
くそ……。殆ど筋肉が退化した貝ごときに……!
「牡蠣どころか、貝に筋肉はないでしょう?」
「いや、あるんだよ。貝って意外と自力で動けるんだ。反面、牡蠣は殆ど動かない怠け者さ」
美味しいけどね。と付け足す僕に美紀はやれやれと首を振る。
「……奥さん、自分の料理を食べていました?」
「食べていたよ。だからだ。尚更ほっとけない」
時間差で彼女も倒れたら? そしたら僕は、一生後悔するだろう。
そんな僕の内心を察したのか、美紀は黙って僕の紐を解いていく。
「先輩って、バカですけど一度決めたら迷いませんよね。羨ましいです」
「バカは余計だ。……ありがとう」
身体が自由になった僕は、静かに正露丸に手を伸ばす。
「最初はね。奥さん、もしかしたら、自分の分はコンビニとかで食べてるのかと思いました。たまにいるんです。料理を振る舞うのは好きでも、自分で自分の料理が食べられない人が」
ポツリポツリと、美紀は言葉を紡ぐ。
「だけど、食べていた。誰もが悶絶するような料理を、先輩と一緒に。……もしかしたらですけど、事は結構深刻なのかもしれません」
不安げな表情で僕を見る美紀。僕もまた、それに同意する。
頭の中に、チラリと浮かんだキーワード。アリスがそれに該当するというのならば……。やっぱり、きちんと話すべきだ。夫婦なんだから。
ベットから立ち上がる僕の肩を、美紀はポンポン叩く。
「ま、頑張ってください。ダメだったらアレです。私が先輩のお嫁さんになりますよ~」
「棒読みで冗談言うの止めろ」
「冗談……ね。まぁ、そういう事にしといてあげます」
全く、僕も油断ならない後輩を持ったものだ。患者用の服は目立つので、病室内を物色すると、運び込まれた時に来ていたスーツを見つけた。
丁度いい。何せこれは男の戦闘服なのだ。
この場における一張羅に袖を通す。お腹の痛みは、不思議と消えていた。
「……ネクタイ、曲がってます」
「っと、ハハ……締まらないなぁ」
苦笑いを浮かべる僕に、美紀は「私がやります」と、駆け寄りながら慣れた手付きでタイを直していく。少しだけ、切なそうな顔が目についた。
「上手だね。いい奥さんになるよ」
「……先輩にだけは、その台詞言われたくありませんでした」
「……? ま、まぁ、ともかく、無事に帰るから。そんな心配そうな顔しなくても大丈夫さ」
次の瞬間、無言でネクタイによる首絞めをされた。浴びせられるは、「鈍感野郎」の一言。いや、何故だ!?
「とっとと行って、奥さん連れ戻して来てください。さもなければナースコールしますよ?」
「ら、ラジャー……」
女の子って、やっぱ分からない。そんな事を思いながら、僕は病室の出口へ向かう。そこで、肝心な事を思い出す。
「てか、美紀。誰もが悶絶する料理。は、間違いだ。少なくとも僕は彼女の隠し味に萌えているんだ!」
ニッと、いつもの笑み。訂正は大事だ。だって僕は、アリスの料理を一度だって嫌だと思った事はないのだから。
そんな僕の主張に、美紀は一瞬ポカンとした顔になりながらも、やがていつものシニカルな笑みでこう答えた。
「はい。それでこそ、私の先輩です」
いってらっしゃい。そんな言葉を背に、僕は病室を飛び出した。