4話 生ハンバーグと恐妻弁当
「ハッ、料理が不味いだ? んなもんお前、作って貰えるだけマシってもんだろが」
何、甘えたこと抜かしてやがると僕を見るその男は松前秀一郎。通称松さん。僕が入社する何十年も前からここで働き続ける大先輩だ。
現在他社での商談を済ませ、松さんと僕、そして四谷美紀は会社のラウンジでコーヒーを飲んでいた。
「竜坊、お前よ。妻という言葉の神秘性と恐ろしさというもんを分かってんのか?」
「神秘性と恐ろしさ……ですか?」
僕がよく分からないといった顔で松さんを見ている横で美紀も首を傾げている。
「いいか、妻ってのはな。状況やなりゆき、日頃の行いによって愛妻から恐妻。本妻から先妻になったりするもんだ」
「松さん。最初はともかく、後半は笑えないですよ」
僕の突っ込みに対して松さんは喧しい! と、僕の頭をぐりぐり撫でる。何年も仕事をこなしてきた、年季の入った男らしい手だった。
「時に竜坊。お前、今日も玉砕弁当か?」
「失礼なこと言わないでくださいよ松さん。玉砕するのは僕であって、アリスの作ってくれた愛妻弁当じゃない」
「……玉砕は否定しないんですね。先輩」
松さんの言葉に僕は真顔で反論し、美紀は呆れた顔になる。
「いや、毎度お前は昼休み後半はトイレに……」
「メンテナンスです」
「いや、トイレで何を……」
「メンテナンスです。僕はトイレだとパソコンのタイプスピードが二倍になるんです」
そんな僕を見て、松さんはハッ! と短い笑みを漏らすと、またグリグリと僕の頭を乱暴になでる。
「んじゃ、経営が傾いた時にはお前にトイレで獅子奮迅してもらうとするか」
「ええ。任せてくださいよ」
軽口を叩き合いながら僕達は残りのコーヒーを飲み干す。心地よい苦さが心と身体を引き締める。
「うし、午後のプレゼンの打ち合わせ前に腹ごしらえと行くか」
松さんの一言で僕と美月は各々の弁当を取り出す。
コーヒー飲んだのに? と、思うかもしれないが、実は食前のコーヒーもなかなか体に良かったりするんだ。意外と知られていないらしいけどね。
それはさておき、僕は今日のメニューを確認する。
「…………」
「……今日も絶好調ですね。先輩の奥さん」
ハッハッハ。甘いよ美紀。見たまえ! 今日はご飯はまともだ! うん、これは大いなる進歩だ。
「野菜は……リアルに“生”野菜サラダですね」
「衣がズタボロだが……コロッケか? こりゃあ……」
美紀がいつも通りクールに、松さんが色々な意味で感心したように目を見開く。だがまだまだ。これくらいは序の口だ。
「おっ、アスパラに……アリスお得意のオーロラソースか」
「本物のオーロラみたいな色ですね。どうやったらこんな色出せるんでしょうか?」
うん、僕も不思議に思う。
そして、これがまた北極にでも行っているかのような強烈な寒気を感じる味なんだ。更に極めつけは……。
「こりゃ何だ?妙に赤いが……」
松さんがポカンとした顔でそれを見ている。
そう、そして僕にもよくわからないものが一つ。何だろうこれは?
「アレ? 先輩。お弁当箱の下に何かありますよ?」
僕が無い頭を傾げていると、不意に美紀が僕の袖をチョイチョイと引っ張る。
フム、本当だ。これは手紙だろうか?
「アリスから?」
「おー。おー。手紙付きですか。お熱いこって」
松さんが冷やかしの態度を見せる。が、僕はそんなのお構いなしに手紙を丁寧に広げる。
フッ、そんな冷やかしで僕のアリスへの愛が冷めるとでも?
生憎、僕は絶対零度すら耐え抜けると自負しているんだ。甘く見ないでくれ松さん。
と、まぁ、僕にアリスについて語らせたら余裕でシリーズ物の小説並みに長くなると思うので、この話題はその辺にして、僕は手紙を読むことにした。
『竜斗へ。お仕事お疲れ様。今日はレアのハンバーグステーキを作ってみました。前に、テレビでレアのステーキが好きって言ったの思い出したの。今日も頑張ってね!愛してるわ。 アリスより』
「うん、僕の妻、可愛くない? やばくない?」
「現実逃避してる場合ですか先輩。流石に今回ばかりはヤバイですよ」
少し焦ったように僕を静止する美紀。
さて、ハンバーグは一般的に合い挽き肉を使うね。
ご家庭によっては牛だけとか豚だけって所もあるかもしれないが、ともかく、ハンバーグは基本合い挽き肉を使う。
この合い挽き肉は豚やら牛の挽き肉を混合したものなんだけど、さて問題です。この合い挽き肉を材料に”レア“のハンバーグを作ったらどうなるでしょう?
答え。よい子は食べちゃダメ! 絶対!
ま、僕は食べる。だってアリスが手紙まで書いてくれたんだ。レアが何だ。危険がなんだ。
「お、意外といける? ……うぐ」
「……先輩、涙目です」
「竜坊……無茶しやがって」
でもやっぱりダメでした。いや、合い挽き肉をレアは不味い。流石に不味い。
流石の僕も耐えきれず、良心である白いご飯をかっこむ。
しかしアリス、段々別の意味でレベルアップしてきてるなぁ……美しさも留まることを知らないけど。
そんな涙目の僕を見て、美紀はハァ、と溜め息を付き、そっといつもの高級料亭顔負けのハイクオリティーなお弁当を開けると、僕の方へ差し出す。
「先輩、松前さん。実は自家製の梅干しを作って見たんです。他の人の意見も聞きたくて……味見、お願いしてもいいですか?」
「おいおい、四谷ちゃん。そんなもんまで作れるのか?」
「い、頂くよ」
吃驚した顔の松さんと、冷や汗がさっきから止まらない僕は同時に梅干しを取ると、口に含む。
しつこくない、素朴で程好い酸味が僕の口を正常に戻す。……助かった。
「すげぇな。旨いよ。こりゃいい嫁さんになるぞ、四谷ちゃん」
「確かに美紀みたいな美人の奥さん貰って、手料理を毎日食べられる男はきっと幸せでしょうね」
ま、僕の場合はアリスの笑顔、いや、存在だけで幸せを通り越して天まで昇るような気持ちになれるけどね。
料理で昇天しそうになるリスクもあるが、ノープロブレム。愛があるから大丈夫なのさ。
だから、幸せといっても正確には僕の次に幸せな男だろう。
そんな事を考えながらアリス特性オーロラソース付きのアスパラを口にする。おや、何だか寒いな。エアコンが強いのか?
「ま、その幸せの機会を自ら手放した人はいましたけどね」
美紀は何故か恨みがましい目で僕を見てくる。急にどうしたんだ?
てか、僕の後輩は知らない間に彼氏作って別れる、なんてイベントをこなしていたのか?
全然気がつかなかった。
「うわっ、そんな人いたのかい? 勿体無い。そのうち逃がした魚が大きいと思い知るんだろうね」
「ええ、そうですね。本当に、ほ・ん・と・うに思い知って欲しいものですよ。全く……」
ハァと、ますます大きな溜め息と共に美紀は何かを振り払うかのように首を振る。
きっと辛かったに違いない。松さんも何とも言えない顔で美紀の肩にポンと手を置いている。
こんな美味しいのにな……と、美紀の弁当を見ていた所で、ふと、僕は松さんがまだお弁当を開いていないことに気が付く。
「そういえば、松さんはお弁当食べないんですか?」
僕がそう言うと、松さんは何とも歯切れの悪い表情になる。
「ああ、まぁ……そうだな」
そう言って松さんはゆっくり自分の弁当箱を開ける。そこには……。
「へ?」
「え?」
僕と美紀は思わず目を見開く。お弁当箱の中には一枚のメモ用紙と、五百円玉が入っていた。
メモ用紙にただ一言。
『お釣りはレシートと一緒に返せ』
「…………うわ」
「…………えっと」
あんぐりと口を開ける僕と美紀。それを見た松さんはフッと笑みを漏らす。
「今日はまだいいぜ。前なんかメモ用紙に『ハズレ』だ。俺が前の夜にビール一本多く飲んだからってヒデェよな。あと一段目、二段目両方が白ご飯の時もあったな」
クルクルと五百円玉を指先で回し、ピンと弾く松さん。なまじ格好いい動作なだけに、余計に悲哀を誘う。
「竜坊。覚えとけ。これが恐妻弁当だ。奥さんは優しく扱うに限るぜ。俺みたいに機嫌を損ねりゃ、あんな可愛かった愛妻もあっという間に恐妻に早変わりだ。気がついた時にはもう遅いんだ。全く……男は辛いぜ」
ニヒルな笑みを残し、「コンビニ行ってくらぁ。498円の弁当買ってくる」と、言い残すと、松さんは上着を翻して颯爽と立ち去っていった。
会社を家庭を何年も支え続けた男の背中は、広くて頼もしく、逞しい。……筈なのに、なんだかその時ばかりは、何処となく寂しげで小さく見えた。
※
「ただいま」
「お帰り竜斗! 今日もお疲れ様!」
家に帰り、妻のハグとキスに夢心地になる。
幸せものだと実感すると同時に、僕は今日見た恐妻弁当を思い出して、何となくアリスを再度抱きしめる。
「竜斗?」
「ん、なんでもないよ。アリスこそ、今日もありがとう」
そう言って僕は妻の髪を撫でる。
料理が壊滅的でもいい。この人は変わらないで欲しい。青臭いが、そう願いながら僕はアリスを離すと、居間に入っていく。
人生の先輩の教訓はしっかり胸に留めておこう。と、誓った夜だった。
「今夜はシチューよ!」
「わ、わ〜い!」
余談だが、晩御飯のクリームシチューは何故か紫色になっていた。
※
「帰ったぞ」
「ん、お帰り」
いつも通りの家内との素っ気ない挨拶を交わし、俺はコートを脱ぐ。
ハンガーにヨレヨレのコートを掛けた所で、テーブルに見慣れないものを発見する。
「なんだこりゃ?」
「プレゼントさ」
「……は?」
俺はポカンとした顔で家内を見ると、家内はまるでバカにするかのように鼻で笑う。
「なんてな。そんな大それたもんじゃないさ。もうボロボロだったから新しく買ってきたのさ。明日からそれつけてきな」
「お前……」
思いがけない贈り物に、俺は思わず謎の感動に打ち震えていた。
そうだ。昔から俺のネクタイ選びは家内の楽しみだったではないか。こんな何気ない事も忘れる。その積み重ねが家内を恐妻にしてしまったのだろうか。
俺は頭をボリボリと掻くと、家内の方を見る。
嫁を溺愛する後輩はよく妻にプレゼントを贈るらしい。今さらな気もするが、決して遅すぎるということはない筈だ。
どんな料理でも嫁を愛し、尊重する後輩の顔を思い浮かべながら、俺は家内の方を見る。
「今度、バックか何か買ってくる」
「いらん。あんたのセンス最悪じゃないか。それよか働け」
「はい」
丸めたチラシを俺の脳天にぶつけると、家内は台所に立つ。むぅ、作戦失敗か。
だが一応、夕食は用意してくれるらしい。ありがてぇ。
俺はぶつけられたチラシを拾い……。そこで目を丸くし、思わず家内のほうへ苦々しげな視線を送る。
「お前、可愛くねぇ野郎だな」
「あんたに言われたかないね。てか今日のお釣り寄越せや」
もう慣れっこになった口喧嘩のような会話をしながら、今日のお釣りの二円を差し出すと、家内はそれをヒョイと受けとった。
「うい。貯まったらまたネクタイにしてやるよ」
「おい、待てコラ。資金源そこか? 俺の細やかな感動返せ」
「黙れ。汗臭い。風呂入ってこい」
「はい」
まぁ、こんな具合に口喧嘩で勝った試しはないわけだが、こうやって続いているのはきっと夫婦の縁があるからなのだろう。そう思うことにして、俺は風呂場へ向かう。
「さて……物はコレか? ……高っ!」
脱衣場で家内が投げつけてきたチラシを広げる。
チラシにはブランド物のバックがたくさん載っており、その一つに赤ペンで丸がしてあった。
取り敢えず、当面の問題はコレをどうにかして手に入れることかららしい。
「竜坊……こりゃあ骨が折れそうだぜ」
俺、松前秀一郎は溜め息をつきながら、脱・恐妻計画の作戦を練るべく、まずは今日の汚れを洗い流すため、のんびりと風呂に浸かることにした。