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3話 外食という名の戦術的撤退

 時は休日。

 僕は鳴り響く目覚まし時計を跳ね起きるようにして止めた。

 時刻は朝の五時半。ちらりと隣を見ると、愛しの妻は未だスヤスヤと夢の中。

 その様子を見て、僕は内心でガッツポーズを取る。

「よし……第一段階はクリアだ」

 僕は静かに達成感にうち震えた。

 妻より早く起きること。それこそが僕の目的だったのだ。

 何故僕が休日にも関わらず早起きなどをしているかというと、話は昨日の社内での飲み会まで遡る。

 後輩、四谷美紀の一言が始まりだった。

「そもそも、ご飯が美味しくない……ゲフンゲフン、凄い味がするって何らかの原因があるはずですよね?」

「………確かに、それは一理あるね」

 美紀が言うことはもっともだった。

 意外かもしれないが、僕はアリスが料理しているところを結婚してから未だに一度も見ていない。

 お付き合いしていた時はまさかこんなにも料理が凄まじい人だなんて気が付かなかったし、結婚してからもアリスはとても早起きで、僕が起きた頃には朝食もお弁当も出来てしまっている。当然、仕事から帰れば夕食は出来ている。

 嬉しさにうち震えることはあっても、料理中の姿だなんて考えもしなかった。

 だからこそ今日は妻の料理姿を拝見するのだ。結婚してから初の休日。僕は密かに決意と期待でメラメラと炎を燃やしていた。メンタル的に。

「う……ん……」

 そんな僕のメンタル面の炎はさておき、艶かしい声と共に妻、アリスが寝返りをうつ。朝日を反射して輝くウェーブのかかった長い金髪が白い枕の上に広がる。この世のものとは思えない美しさだった。

「うん、これは……そうだな」

 僕は妻を起こさないようにそっと再びベッドに潜り、妻の髪を撫でる。

 せっかくの休日だ。取り敢えず、もう少しだけ妻の寝顔を眺めていることにしよう。


 ※


「もう……本当に見てるの?」

 朝。結局、僕が寝顔を眺めはじめて五分も経たない内に妻は目覚めてしまった。

 そのまま着替え、エプロンを着けた妻は恥ずかしそうに僕の顔を見ている。

「うん。いいだろう? そういえば僕、アリスが料理している所はちゃんと見たことがないし……いい機会だから見て焼き付けとこうと思ってね」

「う〜……」

 僕の言い分に妻は真っ赤な顔で俯き、軈てよしとばかりに頷く。

「わかったわ。でも竜斗は見てるだけよ。竜斗のご飯は私だけが作るんだから!」

 僕を萌え死にさせそうな台詞と共に妻は台所に立つ。

 かくして、ヴェールに包まれていた妻の料理風景を、僕は目の当たりにすることになった。

 見なければよかったと、心の中で叫ぶ羽目になろうとは、微塵も気付かずに……。


「ア、アリス何を……?」

「……? お米洗っているのよ? 炊く前に洗わなきゃ」

 驚愕で目を見開く僕を見ながらアリスは可愛く首を傾げつつ答える。

 成る程、正論だ。だが洗う……つまりは米を研ぐ際に絶対やってはいけない事をアリスはやっていた。

「な……何で洗剤入れちゃうの?」

 フルーティな香りが漂う食器用洗剤がボールで水に浸けてある米の上にドボドボと注がれる。

 さらに白魚のような妻の手により掻き回され、泡風呂のようにポコポコと音を立て始めた。

「何でって……ちゃんとお米洗わなきゃいけないじゃない?」

 さて、何処から突っ込むべきか……。

「アリス……お米を研ぐのに洗剤は要らないんだ。ただ水でかき混ぜるだけでいいんだよ。」

「え? そうなの?」

 キョトンとするアリス。どうやら本当に知らないらしい。

 フルーティな香りに渋い味のご飯の謎がやっと解けた瞬間だった。

 というか、よく無事だったな僕の胃腸。

「ごめんなさい。全然知らなかったわ。新しいご飯作るわね」

 そういってアリスは米をまた洗い始める。今度は水のみで洗っている。

 そうして研ぎ終わった米を炊飯器のお釜に入れ、機定量の水を注ぎ、洗剤を少々……。

「ってアリス!? だから洗剤を入れちゃダメだよ!」

「え? でもお米を洗い終わって新しいお水を入れて、そこに洗剤を入れたらもっと綺麗なお米が……」

「いや、アリス。お米を研ぐときは勿論、炊くときも洗剤は必要無いんだよ」

 僕の言葉に妻は雷に打たれたかのような表情になる。

「あうう……御免なさい。じゃあもしかして……今まで美味しくなかったんじゃ……?」

 泣きそうな顔で此方を見るアリスに胸が痛む。

 くっ、僕としたことが……どうする……!?

「い、いや、洗剤を入れてあの味だったんだ! 僕全然気が付かなかったよ! きっとアリスのご飯はもっと美味しくなるさ!」

 我ながら何とも脈絡の無いことを言ったものだが、アリスは嬉しそうだ。

「もう……お上手なんだから……じゃあ次はお味噌汁作るわね」

 何とか乗りきったらしい。

 そう言ったアリスは再び台所に立ち、鍋にお湯を入れ、火にかける。

 そして……。

「………………え?」

 僕はあまりの早業というか、その所業に突っ込みが追い付かなかった。

 否、突っ込み処が多すぎてどうにもならなかった。

 味噌がボチャンという音と共に投入される。一応味噌を楽に溶かすための調理器具はあるのだが、まぁ、どのみち溶けるだろうからそこは問題ない。問題はその前だ。

 出汁をとってない。

 鰹出汁、昆布出汁……。他多数。

 味噌汁は出汁をとるのととらないのでは味に大分差があることをご存知だろうか? というか、取らないと皆がお母さんから出されたであろうあの味噌汁の味がしないのだ。

 まぁ、一応無くても食べられる。このくらいなら問題ない。後で日本の食文化の隠し味とでも言ってアリスに教えてあげよう。

 だが、更なる問題はその後にあった。

 砂糖。

 醤油。

 あ……あれは何だ? ターメリック!? 何でカレーに使うスパイスを?

 そして最早恒例のごとく投入される洗剤。

 更に……。

「フ〜ン♪フフ〜ン♪フ〜ン……」

 最後にドボドボと投入されたのは皆の食卓にお馴染み、ブルドックソース……。

 そこにかわいそうなくらいミンチにされたお豆腐と、ワカメ、やたらでかく切られたネギ……。

 そうか。あの胸焼けと胃に穴が空きそうになる味噌汁はこうして錬成……いや、作成されていたのか。

 僕が止める間もなく、出来上がった味噌汁(?)をアリスは満足気に見つめる。

「あ、アリス、さっきのは……?」

「ん? さっきのって?」

 一応聞いてみる勇気が出たので質問してみると、アリスは可愛らしく小首を傾げる。

「いや、調味料が……」

「ああ、アレはね。『料理のさしすせそ』よ」

「さ……『さしすせそ』?」

 いや、ダメェ!! 味噌汁にそれ全部投入しちゃダメェ!

 そもそも、『さしすせそ』ですらなかった気が……。

「へ、へぇ〜……ちなみに『さ』は何なんだい?」

「あっ、竜斗知らないのね。『さ』は『砂糖』よ」

「『し』は?」

「『醤油』!」

「……『す』は?」

「『スパイス』!」

「せ、『せ』は?」

「『洗剤』!」

「グスッ……『そ』は?」

「『ソース』!」

 うん、アウト。

 ちなみに正確には……。

 『さ』は『砂糖』

 『し』は『塩』

 『す』は『お酢』

 『せ』は『醤油』

 『そ』は『味噌』

 だよ。地域や家庭によって変わることもあるらしいけど、大抵はこれがスタンダードだ。

 さて、僕が真剣に生命の危機を感じた頃、不意に携帯電話が鳴りだした。

「ごめん、ちょっと出てくるよ」

「うん、いってらっしゃい」

 電話は会社の後輩、四谷美紀からだった。

「先輩生きてますか?」

「さっき死を覚悟したよ。何の用だい?」

 僕がそう答えると美紀は電話越しで迷ったような空気を漂わせる。

「先輩はフレンチとイタリアン、どっちが好みですか? ……ちょっと男の人の意見が聞きたくて。」

「……? 僕はどちらかといえばイタリアンかな。」

「そうですか。ありがとうございます。」

 美紀は簡潔にお礼を述べ、さっさと電話を切ってしまった。

 何だったんだ?一体……?

 僕がそんなことを考えていると……

「竜斗〜! 出来たよ〜!」

「!!」

 し、しまった! おかず作るところ見てない。

 いや、見てたところでもう……。

「さ、召し上がれ。」

「い、頂きます……」

 テーブルに着き、取り敢えず僕は朝の分の覚悟を決める。

 まず、ご飯が普通になっただけ大収穫だ。

 そうだとも。

 今日のメニュー

 白米

 味噌汁

 サラダ

 ベーコンエッグ

 ヨーグルト(市販のアロエ)

 口にするとサラダの凄まじい青臭さと、胃が殴打されるかのような卵焼き。通常よりやたら油ギッシュかつ焦げたベーコンに、先ほどの凄い味噌汁……。

「卵焼きね、お砂糖入れすぎちゃったからお塩とお醤油で中和したの!」

 つ、妻よ……それは中和じゃない……。

 そもそも料理に中和なんて単語はなかなか出ないと思う。少なくとも卵焼きにそれはない……。

 僕の妻にかかれば卵焼きも化学兵器的な何かに変わるというのだろうか。

 僕は唯一の良心となったご飯とヨーグルトでお腹の安定を測る。

 前を見るとニコニコ笑いながらこっちを見る妻がいた。

 畜生、堪らなく可愛い。僕も大概だ。

 だからいつも通り、痙攣する顔面の筋肉を駆使して精一杯の笑顔になる。

「ごちそうさま。今日もありがとうアリス。美味しかったよ」

 バカと笑うなら笑え。

 妻の笑顔が曇るところなんて僕は見たくないんだ。

 取り敢えずお昼はお買い物という口実で妻を外食に誘おう。美紀の電話のせいか、イタリアンが食べたくなってきた。む、でもフレンチも悪くないかもしれないな。

 ギュルギュル言い始めたお腹を押さえつつ今日の大雑把な予定を決めると、僕は朝のニュースを見るためにテレビの電源を入れた。




「……どうしましょうかね……コレ」

 私、四谷美紀の視線の先には昨日親戚から譲り受けた高級フレンチのペアチケット。なぜこんな仕様にしたのかカップル用らしい。

 大方私に浮いた噂がないから親戚の人が手に入れた……この説が濃厚だ。

 両親もやたらお見合いを迫ってくるし。

 まぁ、それはさておき、せっかくだから行きたいのだが、休日暇そうな頼みの綱の先輩はイタリアンがお好きらしいし、会社の同僚達と行って変な噂になるのも嫌だ。

「う〜ん……」

 いや、そもそも先輩がフレンチが好きだったとして、所帯持ちの男の人を誘うのはどうだろうか……?

 私は不倫願望はない筈だ。うん、ないない。

 せめてカップル用でなければ会社の女の子や友人を誘うのに。

「ハァ……」

 溜め息と共に私は机に突っ伏する。

「先輩……なんで結婚なんかしちゃったんですか……」

 無意識にそんなことを呟きながら、私はチケットを指で弾く。

 今頃奥さんの朝の手料理で悶絶しているのだろうか?

 百面相をしている先輩を思い浮かべ、クスリと笑う。

「私が食べられないのは残念ですけど、奥さんと一緒に行ってこい的な感じでプレゼントしてやりますか。たまには先輩に花を持たせてあげるのも悪くないですね」

 私は自分をそう納得させると、チケットを財布に挟む。

「さて、休日な訳ですが……何をしましょうか? お買い物でもいいですね……」

 うん、それがいい。

 本日の大雑把な予定を決定した私は、まずシャワーを浴びにバスルームに向かうことにした。

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