最終章 第7幕 僕とあいつと彼女と
あいつの声が消え、僕らを包む山は静かになり、虫の音だけが聞こえていた。
無表情の彼女も、さすがにこの状況下では表情を変えるらしい、明らかに引きつっていた。
でもそんなことはどうでもいい。どうする? あいつを助けに行く? 逃げる? 親を呼んで戻ってくる?
最後の二つは、あいつを置いていくことになる選択だった。
正直逃げたいというのが本音だった。ホゲーンっていう得体の知れない存在への恐怖、とにかくピンチなのは確かだ。
ただ彼女の表情は助けに行って、そう言っていた。
まいった、僕は強く目をつぶった。
「サッカーやらないか?」
ふとあいつの言葉がよぎった。あいつが僕を「ひとり世界」から救ってくれた言葉。
そうだ、危ないのはあいつなんだ、僕が助けないでどうするんだ!
僕は拳をにぎりしめ、よし、と気合を入れなおした。
ただそんな気合も、ガサガサと草が揺れる音に空回りする。僕は腰から崩れ落ちた。何かいる! 僕の足には力が入らなかった。
すごく情けなく、みっともないくらい足が震えていた。
草むらで聞こえたガサガサという音は、明らかにこっちに近づいていた。
逃げることも出来なかった。ビビリ涙が溢れていた。ホゲーンなんて信じていなかった僕が発した言葉は、間抜けなものだった。
「ホゲーンだ! だから入っちゃいけなかったんだ!」
彼女も顔を覆い隠した。
ホゲーン! という声が、塞いだ目の向こうからした。言葉にならない叫び声をあげる僕と彼女。
目を覆った暗闇の世界には沈黙が流れていた。暫くの後、僕の耳に聞こえたのは、ぷっと息を漏らし、そして堪えていたものが爆発したような笑い声だった。
その明るい笑い声に聞き覚えがあった。恐る恐る目を開けると、かわいいアザラシの着ぐるみを着たあいつがいた。
おなかを抱えて笑っているあいつと、半べそで何がなんだかという僕と、同じように状況がつかめていない涙を流した彼女がいた。
驚いた? と陽気に言うあいつ。
僕と彼女はぽかんとしていた。
しんとした夜空の下で、ただただあいつの笑い声だけが響いていた。
だんだんと状況がわかってくると、怒りがこみ上げてきた。そして思いっきり怒った。
「マジで心配したんだからな!」
「ホゲーンだぁ! って、ホゲーン信じてなかったんじゃなかったのか?」
「う、うるさいな!」
ゲラゲラ笑うあいつに僕は本気で怒っていた。そして安堵の涙がこぼれていた。
あいつへの怒りとあいつが無事だったことの喜び、複雑な表情の僕がいた。
くすっ。
その小さな笑い声に、あいつの目は、僕よりもっと後ろに向けられた。その目の先に僕も振り返った。
そこには、屈託なく笑った彼女がいた。
我慢していたのかその笑いは、だんだん大きくなり、いつの間にか僕も大笑いしていた。
「初めて笑った顔見た」
あいつが言った。
「そうやって笑ってる方がいいぜ、な?」
あいつの言葉に、僕も素直に答えた。もう怒りはどっかへ吹っ飛んでいた。
僕達はただただ笑った。
「そういえば名前聞いてなかったな。なぁ、教えてくれよ」
呆れた。あいつは今まで彼女の名前を知らなかったようだ。でもそれもあいつらしいことだった。
「……オ」
彼女の言葉はこんなにも静かなのに良く聞こえなかった。でもそれは、はじめての言葉に恥ずかしさを感じていたからだった。
「……マ……オ」
「マオ?」
あいつの言葉に彼女、いやマオはこくりとうなずいた。
僕は不思議とうれしくなった。自然と顔が笑っていた。でもそれ以上にうれしそうなあいつの顔が、星空に照らされていた。
そんなあいつを見て僕は、やっぱり僕が最高に憧れる親友だと思った。