十年前に死んだはずの幼馴染が「ずっと待ってた」と言うので、罪悪感まみれの私が溺愛されて幸せになるまでの話
第一章 錆びた約束の場所で
「遅いよ、凪。ずっと待ってた」
——は?
私は息を呑んだ。いや、呑んだというより、喉の奥で何かが詰まった。
十年ぶりに帰ってきた故郷・汐崎。
寂れた港町。閉まったままのシャッター商店街。そして、潮風に錆びて動かなくなった観覧車。
その足元に、私は立っていた。
東京での仕事に疲れ果てて、逃げるように帰ってきた二十五歳の負け犬が、思い出の場所で感傷に浸ろうとしていた。
それだけの、はずだった。
「……嘘」
振り返った先に、いるはずのない人がいた。
淡い茶色の髪が潮風に揺れている。海を閉じ込めたみたいな、青みがかった瞳。
あの頃と何も変わらない、穏やかな笑顔。
神代蒼真。
十年前、私が海に誘って、私のせいで死んだはずの、幼馴染。
「そう、ま……?」
声が震えた。足も震えた。世界の輪郭がぐにゃりと歪む。
(幽霊? 幻覚? 私、ついに壊れた?)
十年間、毎晩のように夢に見た顔だ。
波に呑まれていく姿。伸ばした手は届かなくて。助けを呼ぶ声は嵐にかき消されて。
私のせいで、この人は死んだ。
そう思い続けてきた十年間が、目の前で崩れていく。
「ひどいな、そんな顔しないでよ」
蒼真は——蒼真の形をした何かは、ゆっくりと近づいてくる。
足音がある。影がある。潮の匂いに混じって、微かに絵の具の匂いがする。
懐かしい匂いだった。
子供の頃、蒼真はいつもスケッチブックを持ち歩いていた。港の風景を描いては、私に見せてくれた。
「触っても、いい?」
返事を待たずに、その手が伸びてきた。
温かかった。
生きている人間の、体温だった。
「……っ」
膝から崩れ落ちそうになった私を、蒼真が支える。
細い腕なのに、しっかりと私を抱きとめてくれる。
夢じゃない。幻覚でもない。
「十年かかっちゃった。ごめんね、凪」
ごめんね、じゃない。
謝るのは私の方だ。
あの日、私が「海に行こう」なんて言わなければ。
私のせいで、あなたは——
「生きて、たの……?」
声がかすれた。涙で視界が滲む。
「うん。記憶がなくて、ずっと遠くにいた。でも最近、全部思い出したんだ」
記憶喪失。
そんな、ドラマみたいなことが現実にあるのか。
蒼真の指が、私の頬に触れる。
涙を拭うように、そっと撫でてくれる。
「思い出したら、もう我慢できなかった。君に会いたくて、会いたくて、どうしようもなくて」
その瞳が、笑っているのに、泣いているみたいだった。
十年分の何かが、そこに詰まっていた。
「待っ……待って。私、あなたを」
殺したと思っていた。
十年間、毎晩夢に見た。
幸せになる資格なんてないと、ずっと自分を罰してきた。
東京で、仕事に没頭した。
後輩の尻拭いも、理不尽な残業も、全部引き受けた。
辛くても弱音を吐かなかった。だって、私には幸せになる権利がないから。
蒼真を殺した私には、楽になる資格がないから。
「俺のせいで、あなたは」
「違うよ」
遮るように、蒼真が言った。
静かで、優しくて、でもどこか有無を言わさない声だった。
「君に会いたくて、僕は生き延びたんだ」
錆びた観覧車が、潮風に軋んだ。
十年前と同じ音。でも、あの頃は動いていた。
私と蒼真を乗せて、空の上まで連れて行ってくれた。
『大人になったら、二人で最後のゴンドラに乗ろうね』
子供の頃の約束。
叶わないと思っていた、錆びた約束。
「凪」
蒼真の声が、耳元で囁く。
「やっと会えた」
止まったままの時計の針が、十年ぶりに動き出そうとしていた。
第二章 カフェ・ハーバーライトの忠告
「ちょっと凪先輩、顔色死んでますけど!?」
翌日。
私は港沿いの小さなカフェに引きずり込まれていた。
「千紗……声、大きい……」
「大きくもなりますって! だって先輩、十年ぶりに帰ってきたと思ったらゾンビみたいな顔してるし、しかも神代先輩が生きてたとか意味わかんないし!」
浜野千紗。高校の一つ下の後輩で、今はこのカフェ『ハーバーライト』の店主。
明るいショートカットにエプロン姿。相変わらず元気というか、うるさいというか。
店内は小さいけれど、手作りの温かみがある。
木のカウンターには季節の花が飾られていて、壁には地元の写真が並んでいた。
この子、高校時代から「いつかこの町でカフェを開く」って言ってたっけ。
夢を叶えたんだな。
私は、何も叶えられなかったのに。
「……私もよくわかってない」
「わかってないって、昨日会ったんでしょ!? 詳しく! 詳しく教えてください!」
カウンター越しに身を乗り出してくる千紗を、私は力なく押し返した。
「記憶喪失だったって。事故の後、別の町で暮らしてて、最近全部思い出したらしい」
「えっ、それドラマじゃん。いや映画? というか少女漫画?」
「……現実です」
「現実ヤバすぎでしょ」
千紗が淹れてくれたコーヒーを、私は両手で包んだ。
温かい。けど、手の震えが止まらない。
昨日から、ずっとこうだ。
蒼真が生きていた。その事実が大きすぎて、頭が追いついていない。
「で、先輩はどう思ってるんですか。嬉しい?」
「……わからない」
「わからないって」
「だって、私のせいで蒼真は」
「はいストップ」
千紗がぴしゃりと遮った。
カウンターに手をついて、まっすぐ私を見る。
あの頃より大人になった顔。でも、目の強さは変わっていない。
「凪先輩、自分のこと不幸にするの得意すぎません?」
「……え?」
「十年前の事故、先輩のせいじゃないでしょ。海に行こうって誘っただけで、嵐が来るなんて誰も予想できなかった。それなのに先輩、ずっと自分を責めて、東京で体壊すまで働いて、挙げ句に『幸せになっちゃいけない』みたいな顔してる」
図星すぎて、何も言い返せなかった。
この子には昔からそうだ。ずけずけと核心を突いてくる。
でも、嫌な気持ちにならないのは、その裏に心配があるって分かるから。
「神代先輩、生きてたんですよ。会いに来てくれたんですよ。それなのにまだ自分を罰するんですか?」
「……でも」
「でもじゃない」
カウンターに手をついて、千紗が私の目を覗き込んだ。
「先輩がどんだけ自分のこと『普通』とか『地味』とか思ってるか知りませんけどね、あの神代先輩が十年間忘れなかった人なんですよ、先輩は。もうちょっと自分の価値わかってください」
……この子、いつの間にこんなに強くなったんだろう。
高校時代は、私の後ろをちょこちょこついてくる可愛い後輩だったのに。
今は、逞しく自分の足で立っている。
私だけが、十年前から何も変わっていない。
「あと昨日、神代先輩がカフェに寄ってくれたんですけど」
「え、来たの?」
「はい。で、先輩のこと聞いてきたから色々教えてあげたんですけど」
「何を教えたの……」
「先輩が東京で過労で倒れたこととか、帰ってきてからずっと元気ないこととか」
「余計なこと言わないで!?」
なんで、そういうこと言うの。
蒼真に心配かけたくないのに。私のせいで苦しんだのに、これ以上——
「あ、あとね」
千紗がにやりと笑った。嫌な予感しかしない。
「神代先輩が凪先輩のこと見てる目、あれ絶対やばいやつですよ」
「やばいって何」
「十年分の重さ、って感じ? 優しい顔してるけど、目だけバチバチに本気。あれはもう執着ですね、執着」
「ちさ、」
「『僕は優しくなんかないよ。君を手放す気がないだけ』とか言いそう。いや言ってた。昨日言ってた」
「……本当に?」
「本当に」
コーヒーカップを持つ手が、また震えた。
今度は、寒さのせいじゃない。
蒼真が、そんなことを言った?
優しくて、穏やかで、いつもにこにこ笑ってる蒼真が?
「先輩、顔赤いですよ」
「う、うるさい」
「あー、これ完全に両思いじゃん。十年越しの初恋成就じゃん。エモすぎる」
「違っ、私は——」
「はいはい、自分には資格がないとか、幸せになっちゃいけないとか、そういうのもう聞き飽きました」
千紗が、私の目の前にクッキーを置いた。
手作りらしい、少し不格好なやつ。
「食べてください。美味しいですよ」
「……ありがとう」
「あ、そうだ。もう一個嫌な話していいですか」
「……まだあるの」
「氷室先輩、先輩が帰ってきたこと知ってるみたいですよ」
氷室怜司。
高校時代に私に告白してきた、一つ上の先輩。
今は地元の有力者の息子で、不動産開発をやってるとか。
正直、あまり良い思い出がない。
告白を断った時の、あの目。悔しそうで、恨めしそうで。
「俺を振るなんて後悔させてやる」みたいなことを言われた気がする。
「たぶん近々接触してくると思います。気をつけてくださいね」
「……何を気をつければいいの」
「さあ? でもあの人、神代先輩に対抗心バリバリだったじゃないですか。先輩を取られて悔しかったから、今度こそ手に入れようとしてる、みたいな」
取られて、って。
私は誰のものでもないのに。
千紗の言葉を聞きながら、私はふと窓の外を見た。
港の向こうに、錆びた観覧車が見える。
あの頃、蒼真と「大人になったら二人で乗ろう」と約束した場所。
十年前は、まさか叶わないなんて思わなかった。
でも今、蒼真は生きている。
この町に、帰ってきてくれた。
——私は、どうすればいいんだろう。
第三章 重なる影、交わらない視線
その夜。
私は蒼真に呼び出されて、廃遊園地に来ていた。
月明かりが、錆びた遊具を青白く照らしている。
かつては子供たちの笑い声で溢れていた場所。今は、ただ静かに朽ちていくだけ。
「ここで描いてたんだ、ずっと」
蒼真が、スケッチブックを見せてくれた。
この町の風景画。
港。商店街。灯台。
そして、何枚も何枚も描かれた、観覧車。
錆びる前の、綺麗な姿。
夕日に染まったゴンドラ。夜空に浮かぶシルエット。
何十枚、いや、何百枚あるんだろう。
「記憶がなくても、この景色だけは忘れられなかった。夢に何度も出てきて、気がついたら描いてた」
「……蒼真」
「十年間、僕の中には『誰か』がいたんだ。顔も名前も思い出せないのに、会いたくて会いたくて、胸が苦しくなるような『誰か』」
蒼真が、私を見た。
月光を映す瞳。青みがかった、海の色。
優しい顔をしているのに、どこか必死で、痛々しくて。
「それが君だって分かった時、僕は」
言葉が途切れる。
蒼真の手が、わずかに震えていた。
「我慢できなかった。もう一秒だって、離れていたくなかった」
「……っ」
蒼真の手が、私の手を取った。
細い指。絵を描く人の、綺麗な手。
なのに、触れた瞬間、微かに震えているのがわかった。
十年間、この人は一人で戦っていたんだ。
記憶のない世界で、見知らぬ町で、誰かを探し続けて。
「凪。僕は——」
「あれ、奇遇だね」
声がした。
振り返ると、街灯の下に人影があった。
「氷室、先輩……」
「久しぶり、芹沢さん。十年ぶりかな」
氷室怜司。
スーツ姿で、相変わらず整った顔をしている。
高校時代より大人びて、『成功した男』の余裕を纏っていた。
でも、目は変わっていない。
あの時と同じ、何かを狙うような目。
「神代も一緒か。生きてたんだな、驚いたよ」
「……氷室くん」
蒼真の声が、わずかに冷えた。
「こんな時間に何の用?」
「いや、ちょっと視察にね。この土地、うちの会社が買収予定なんだ」
「買収?」
私は思わず声を上げた。
「ああ。この廃遊園地、潰してリゾート開発する計画があるんだ。観覧車も当然撤去。老朽化してるし、危険だからね」
観覧車を、撤去?
あの約束の場所を、壊す?
「待ってください。この観覧車は、この町のシンボルで——」
「シンボル?」
氷室先輩が、嘲笑うように笑った。
「錆びて動かない鉄屑が? 芹沢さん、東京から帰ってきたばかりで分からないかもしれないけど、この町はもう死にかけてるんだよ。俺が再開発で生き返らせてやるんだ」
「生き返らせる、って」
「リゾートホテル、商業施設、マリンレジャー。都会から観光客を呼べば雇用も生まれる。町の人間は喜ぶさ。あんな錆びた遺物より、ずっとね」
蒼真の手が、私の手を強く握った。
「……町の人たちには、聞いたの?」
静かな声。でも、その奥に怒りが滲んでいた。
「聞く必要ある? 金を出すのは俺だ。決定権は俺にある」
「それは傲慢だよ、氷室くん」
「傲慢?」
氷室先輩の目が、すっと細くなった。
「死んだと思ってた奴が今更出てきて、偉そうに説教か。相変わらずだな、神代」
空気が、ぴりっと張り詰めた。
二人の間に、見えない火花が散る。
昔からそうだった。蒼真と氷室先輩は、なぜか噛み合わなかった。
「まあいい。芹沢さん、今度ゆっくり話そう。東京では大変だったみたいだね。俺でよければ相談に乗るよ」
「あ、あの——」
「じゃあね」
氷室先輩は、そう言い残して去っていった。
残されたのは、私と蒼真と、月光に照らされた錆びた観覧車。
「……蒼真」
「大丈夫。あの観覧車は、絶対に守る」
蒼真の声は、静かだけど、強かった。
「あそこは僕たちの約束の場所だから。誰にも壊させない」
僕たちの、約束。
大人になったら、二人で最後のゴンドラに乗ろう。
あの日交わした、子供の約束。
「覚えて、くれてたんだ……」
「忘れるわけないでしょ」
蒼真が、微笑んだ。
優しくて、穏やかで、でもどこか有無を言わさない笑顔。
「凪との約束だけが、僕を生かしてきたんだから」
その言葉の重さに、私は何も言えなかった。
十年間。
記憶がなくても、この人は私を想い続けてくれた。
私は、何をしていたんだろう。
自分を責めて、苦しんで、逃げ続けていただけじゃないか。
「蒼真……」
「凪」
蒼真の手が、私の髪に触れた。
「もう、自分を責めないで」
その声が、あまりにも優しくて。
私は、また泣いてしまいそうになった。
第四章 母の沈黙、母の涙
帰宅すると、母が食卓に煮魚を並べていた。
「……お帰り」
「ただいま」
私の好物だ。
子供の頃から、落ち込んでいる時はいつもこれだった。
言葉では何も言わないくせに、こういうところで気づいている。
不器用な人だ。私と同じで。
「座りな。冷める前に食べな」
「うん……」
芹沢佐和子、五十八歳。
私の母は、昔から寡黙な人だった。
愛情表現が下手で、褒めるのも叱るのも苦手で。
「頑張ったね」とか「大丈夫?」とか、そういう言葉をもらった記憶がほとんどない。
でも。
「あんたの部屋、掃除してある」
「……ありがとう」
「布団も干しといた。カビ生えてたから」
「……うん」
黙々と煮魚を食べる。
味が濃い。ちょっとしょっぱい。でも、懐かしい味だった。
子供の頃、父が死んだ後も、母はずっとこの味を作り続けた。
一人で食堂を切り盛りして、私を育てて。
弱音なんて、一度も聞いたことがない。
私は、この人に似たんだと思う。
何でも一人で抱え込んで、誰にも頼れない。
「……東京、大変だったんだろ」
母が、ぽつりと言った。
「え……」
「千紗ちゃんから聞いた。過労で倒れたって」
あの子、本当に余計なことを。
「あの子、余計なこと……」
「余計じゃない」
母の声が、少し強くなった。
「あんたはいつもそうだ。何でも一人で抱え込んで、誰にも言わないで、限界まで我慢する」
「……」
「蒼真くんのことも、ずっと自分を責めてたんだろう」
箸が、止まった。
「知って、たの……?」
「親だからね」
母が、湯呑みを両手で包んだ。
皺だらけの手。働き者の手。私を育ててくれた手。
「あの事故の後、あんたがどれだけ泣いたか。どれだけ自分を責めたか。全部見てた」
「お母さん……」
「でも何も言えなかった。私も、言葉が下手だから」
母の目が、潤んでいた。
見たことのない表情だった。
この人が泣くところなんて、父の葬式以来見ていない。
「今日、蒼真くんが店に来たよ」
「え……」
「挨拶に来てくれた。ちゃんとスーツ着て、手土産持って」
蒼真、何やってるの。
いきなり母に会いに行くなんて、順序がおかしい。
いや、順序って何だ。私たち、そういう関係じゃないのに。
「『凪のこと、ずっと大切にします』って。『十年間待たせて申し訳ありません』って」
「そ、そんなこと言ったの……」
顔が熱くなる。
恥ずかしい。穴があったら入りたい。
「私も言ったよ」
母が、私を真っ直ぐ見た。
「『生きててくれて、ありがとうね』って」
——ぁ。
涙が、勝手に溢れた。
止められなかった。
十年分の何かが、一気に決壊したみたいだった。
「凪」
母の手が、私の頭に触れた。
不器用で、ぎこちなくて。
でも、温かかった。
子供の頃、熱を出した時に撫でてもらった記憶が蘇る。
「大丈夫だよ」とは言ってくれなかったけど、ずっと側にいてくれた。
「もういいんだよ。自分を許してやんな」
「……っ、お母、さん……」
「蒼真くんは生きてた。帰ってきた。あんたを迎えに」
母の声も、震えていた。
「幸せになっていいんだよ、凪」
その言葉が、胸に刺さった。
十年間、ずっと待っていた言葉だった。
誰かに言ってほしくて、でも言ってもらう資格がないと思っていた言葉。
「私、ずっと……ずっと、自分が許せなくて……」
「知ってるよ」
「蒼真を死なせたのは私だって、ずっと……」
「それは違う。あんたのせいじゃない」
母が、私の肩を抱いた。
「嵐が来たのは誰のせいでもない。あんたは悪くない」
「でも、私が誘わなければ……」
「誘ったのがあんたじゃなくても、蒼真くんは海に行ったよ。あの子、あんたと一緒にいたかっただけだから」
涙が止まらなかった。
十年分の涙だ。
誰にも見せられなかった、心の奥に閉じ込めていた涙。
「泣きな。今日くらい、思いっきり泣きな」
母の腕の中で、私は子供みたいに泣いた。
第五章 錆びた鉄屑に、魂を吹き込め
それから一週間。
事態は急速に動いた。
氷室先輩の開発計画が、町に正式に発表された。
観覧車を含む遊園地跡地は三ヶ月後に取り壊し。跡地にはリゾートホテルと商業施設が建設される予定。
町の掲示板に貼られた計画書を見て、私は拳を握りしめた。
反対する人は少なかった。
この町はもう何年も衰退し続けていて、仕事がない若者はみんな出ていく。残っているのは老人ばかり。
「お金を落としてくれるなら」「雇用が生まれるなら」という声が大半だった。
「くそ……」
私は一人で署名活動を始めた。
商店街を回って、一軒一軒お願いして。
でも、集まった署名はたったの二十三人分。
町の人たちは、私を見て苦笑いするだけだった。
「芹沢さんとこの娘さん、東京から帰ってきて急にどうしたの」
「あの観覧車、もう何年も動いてないでしょ」
「思い出があるのは分かるけどねえ」
……そうだ。
私は十年間、この町を捨てていた人間だ。
今更帰ってきて「壊すな」なんて、説得力がない。
何の力もない。
何の実績もない。
ただの、負け犬だ。
「凪」
蒼真が、私の隣に立った。
夕暮れの公園。ベンチに座り込んでいた私を、見つけてくれたらしい。
「一人で抱え込むなって言ったでしょ」
「でも、私しかいないから」
「僕がいるよ」
蒼真が、スマホを取り出した。
「これ、見て」
SNSの画面。
蒼真のアカウント。
フォロワー数——五十万人。
「え……?」
目を疑った。
五十万? 五十万人?
「記憶がない間、ずっと絵を描いてたって言ったでしょ。それをネットに上げてたら、いつの間にか」
投稿されている絵を見た。
この町の風景。港。商店街。灯台。
そして、何百枚と描かれた、観覧車。
どれも、息を呑むほど美しかった。
写真よりもリアルで、でも写真にはない温かみがある。
見ていると、この町に行きたくなる。この観覧車に乗りたくなる。
コメント欄が溢れていた。
『この町どこですか?』
『観覧車、めちゃくちゃエモい』
『行ってみたい』
『実在するなら聖地巡礼したい』
「蒼真、これ……」
「発信しよう、凪。この町の魅力を。観覧車の価値を。僕たちの、物語を」
蒼真の目が、真っ直ぐ私を見ていた。
夕日を映して、琥珀色に輝いている。
いつもの穏やかな目じゃない。強い意志を宿した、本気の目。
「錆びた鉄屑なんかじゃない。あそこには、僕たちの十年分の想いが詰まってる。それを、世界に伝えよう」
——ああ。
この人は、十年間ずっと、この町のことを想い続けていたんだ。
記憶がなくても。名前を忘れても。
「帰りたい場所」として、描き続けてくれていたんだ。
私は、何をしていたんだろう。
一人で署名を集めて、一人で落ち込んで。
蒼真は、十年かけて武器を作っていたのに。
「……うん」
私は頷いた。
「やろう。一緒に」
蒼真が、ふわりと笑った。
「それでこそ、僕の凪だ」
『僕の』という言葉に、心臓が跳ねた。
でも、嫌じゃなかった。
むしろ——嬉しかった。
第六章 錆びた約束の町に、光を
そこからの一週間は、怒涛だった。
蒼真が新しい投稿をした。
『この町が、壊されようとしています』というキャプションと共に、観覧車の絵を添えて。
反響は、想像を超えていた。
一日で十万いいね。
リツイートは五万を超え、コメントは千件以上。
『え、取り壊し? 嘘でしょ』
『この観覧車、残してほしい』
『署名とかないんですか?』
千紗がオンライン署名を立ち上げた。
三日で一万人の署名が集まった。
テレビの取材も来た。
「SNSで話題の錆びた観覧車」として、全国ネットで放送された。
『十年前の海難事故で離れ離れになった幼馴染が、この観覧車の絵を描き続けていた』
『記憶を取り戻し、約束の場所で再会』
『二人の十年越しの初恋が、町を救おうとしている』
私たちの物語が、全国に広まった。
「凪先輩、やばいですよ! 取材申し込みが殺到してます!」
千紗が、興奮した声でカフェに飛び込んできた。
「え、まだあるの?」
「雑誌三社、テレビ二社、あとウェブメディアが五つ! どうします!?」
「ど、どうしようも……」
「僕が対応するよ」
蒼真が、穏やかに言った。
「凪は裏方の仕事をやって。僕が表に出る」
「でも、蒼真は絵を描く時間が——」
「大丈夫。凪のためなら、何でもできる」
さらりと言われて、顔が熱くなる。
この人、恥ずかしいセリフを平気で言うの、やめてほしい。
「あー、ごちそうさまです」
千紗が、にやにや笑っている。
「うるさい」
「何も言ってませんけどー」
言ってるも同然だ。その顔。
町の人たちの反応も、少しずつ変わり始めた。
「芹沢さん、うちの店も取材してもらっていいかい?」
「商店街でイベントやろうって話が出てるんだけど」
「昔の写真、探してみたよ。観覧車が動いてた頃の」
外からの注目が、内側の人たちを動かしていく。
「この町、まだ死んでなかったんだな」
蒼真が、呟いた。
「ただ、眠っていただけだ。きっかけがあれば、目を覚ます」
「……うん」
私は、この町のことを諦めていた。
寂れて、衰退して、もう駄目だと思っていた。
でも違った。
この町には、まだ力がある。
想いを持った人たちが、ちゃんといる。
「凪」
蒼真が、私の手を取った。
「ありがとう」
「え? 私、何もしてないよ」
「してるよ。凪がここに帰ってきてくれたから、僕は動けた。凪がいなかったら、僕は一人で絵を描いてるだけだった」
「それは……」
「凪が、僕の原動力なんだ。昔から、ずっと」
蒼真の指が、私の指に絡まる。
温かい。震えていない。
強く、しっかりと、私を掴んでいる。
「……蒼真」
「何?」
「……ありがとう。私こそ」
言葉が、うまく出てこない。
十年分の想いを、どう伝えればいいんだろう。
自分を責め続けた十年間。蒼真を想い続けた十年間。
幸せになることを諦めていた、長い長い時間。
でも今、蒼真は隣にいる。
私の手を、離さないでいてくれる。
「……後で、ちゃんと言う」
「うん。待ってる」
蒼真が、微笑んだ。
穏やかで、優しくて、でもどこか嬉しそうな笑顔。
その笑顔を守りたいと、心から思った。
第七章 覆る天秤、堕ちる仮面
蒼真の投稿は、さらに拡散された。
『錆びた約束の観覧車』というハッシュタグがトレンド入りし、全国からコメントが殺到。
「この町を救いたい」「観覧車を残してほしい」という声が日に日に大きくなっていった。
新聞にも取り上げられた。
『地方再生の新しい形——SNSが繋いだ、町と人の絆』
そんな見出しで、一面を飾った。
町の人たちの反応も、完全に変わった。
「うちも協力するよ」「商店街でイベントやろう」「昔の写真、もっと探してみる」
千紗のカフェは観光客で連日満席。
母の食堂も、十年ぶりの活気を取り戻していた。
「凪、お客さん増えすぎて人手が足りないんだけど」
母が、嬉しそうに困っていた。
「手伝うよ。私、しばらくこっちにいるし」
「……ありがとうね」
母の笑顔を見るのは、久しぶりだった。
そして——
「氷室怜司氏、補助金不正流用の疑い」
そのニュースが流れたのは、開発計画の最終承認会議の前日だった。
町役場の会議室。
私と蒼真は、傍聴席に座っていた。
「な、何だこれは……!」
氷室先輩が、顔を真っ赤にしていた。
手に持った新聞を、握りつぶすように丸めている。
「氷室さん、これは事実ですか」
町長が、書類を差し出した。
過去五年間の補助金の流れ。そのうちの相当額が、氷室先輩の会社に不正に流れていた証拠。
「で、デタラメだ! 誰だ、こんなものを!」
「匿名の告発がありました。調査の結果、事実と確認されています」
「そんな……そんなはずは……」
氷室先輩の目が、ぎろりと動いた。
会議室の隅に立っていた私と蒼真を、睨みつける。
「お前らか……! お前らが仕組んだのか!」
「僕たちは何もしてないよ」
蒼真が、穏やかに言った。
いつもの優しい声。でも、目は笑っていなかった。
「ただ、この町のことを発信しただけ。注目が集まれば、色んなことが明るみに出る。それだけの話だよ」
「くっ……!」
「氷室くん。君は町を救うって言ったよね」
蒼真が、一歩前に出た。
「でも君がやろうとしてたのは、町を食い物にすることだった。自分の劣等感を埋めるために、僕たちの思い出を壊そうとした」
「劣等感だと……?」
「違う?」
蒼真の声は静かだった。でも、その目は笑っていなかった。
氷のように冷たく、容赦がない。
「高校の時から君は、僕に勝ちたかったんでしょ。凪を手に入れれば勝てると思った。観覧車を壊せば、僕たちの絆を消せると思った」
「黙れ……!」
「でも残念だったね」
蒼真が、私の手を取った。
「凪は君のものじゃない。僕のものでもない。凪は凪のものだ。でも、凪が選んでくれるなら——僕は、一生かけて幸せにする」
「っ——」
氷室先輩は、何も言えなかった。
整った顔が歪んでいる。余裕の仮面が剥がれて、醜い本性が露わになっている。
高校時代、私に告白してきた時の目と同じだ。
「手に入れたい」という欲望だけが詰まった、獲物を見る目。
町長が、静かに言った。
「氷室さん。開発計画は白紙に戻します。補助金の件は、後日改めて」
「くそっ……くそっ……!」
氷室先輩は、よろめきながら会議室を出ていった。
その背中を見送りながら、私は思った。
——十年前、この人に告白された時、断ってよかった。
本能的に感じていた違和感は、間違っていなかった。
あの人が見ていたのは「私」じゃなかった。
「蒼真に勝つための道具」としての私だった。
「凪」
蒼真が、私の肩に手を置いた。
「終わったよ」
「……うん」
終わった。
観覧車は、壊されない。
約束の場所は、守られた。
「蒼真」
「何?」
「さっきの、本気?」
「何が?」
「一生かけて幸せにする、って」
蒼真が、微笑んだ。
穏やかで、優しくて、でも真剣な笑顔。
「本気だよ。僕はいつも本気」
その言葉の重さが、胸に染みた。
第八章 回り始めた観覧車
開発計画が頓挫してから、半年。
町の人たちの協力で、観覧車の修復プロジェクトが始まった。
クラウドファンディングには全国から支援が集まり、目標額の三倍を達成。
「錆びた約束を、もう一度動かしたい」というプロジェクト名は、瞬く間に広まった。
錆を落とし、部品を交換し、塗装をやり直す。
地道な作業が続いた。
私も蒼真も、毎日のように現場に通った。
ペンキを塗ったり、ゴミを拾ったり、作業員さんにお茶を配ったり。
母も、一番に寄付を申し出てくれた。
「あんたたちの約束の場所だろ」と、ぶっきらぼうに言いながら。
千紗は、修復の様子をSNSで発信し続けた。
「#錆びた約束の観覧車」のタグは、今や十万件を超えている。
そして——
修復完了の日。
夕暮れの廃遊園地。いや、もう「廃」じゃない。
新しく生まれ変わった遊園地。
観覧車が、夕日を浴びて輝いていた。
錆は落ちて、新しい塗装が施されて。
でも、形は昔のまま。私と蒼真が、子供の頃に乗った観覧車。
「凪」
蒼真が、私の手を引いた。
「乗ろう」
心臓が、大きく跳ねた。
十年前の約束。
大人になったら、二人で最後のゴンドラに乗ろう。
「本当に動くの……?」
「さっき試運転したよ。大丈夫」
蒼真と二人、ゴンドラに乗り込む。
扉が閉まる。
ゆっくりと、観覧車が回り始めた。
「……動いた」
「うん」
窓の外に、町の景色が広がっていく。
港。商店街。灯台。千紗のカフェ。母の食堂。
夕日に染まった、私たちの故郷。
「綺麗……」
「うん」
蒼真が、私の隣に座った。
肩が触れる。温かい。
「凪」
「……なに?」
「十年遅れたけど、言わせて」
ゴンドラが、ゆっくりと頂上に近づいていく。
夕日が、目の前に広がる。
空がオレンジ色に染まって、海がきらきら光っている。
「凪、ずっと好きだった」
心臓が、大きく跳ねた。
分かっていた。分かっていたけど。
改めて言葉にされると、こんなにも——
「記憶がなくても、名前を忘れても、僕の心はずっと君を探してた。君に会いたくて、僕は生き延びたんだ」
「蒼真……」
「これからも、ずっと」
蒼真の手が、私の頬に触れた。
「一緒にいてくれる?」
涙が溢れた。
十年分の罪悪感と、十年分の寂しさと、十年分の——想いが、全部溶けていくみたいだった。
「……うん」
声が震えた。でも、ちゃんと言えた。
「私も、ずっと好きだった。蒼真のこと」
蒼真が、ふわりと笑った。
泣きそうな、でも幸せそうな、そんな笑顔。
「やっと言ってくれた」
「……遅くて、ごめん」
「ううん。待った甲斐があった」
潮風が、ゴンドラを揺らした。
蒼真の顔が、近づいてくる。
「凪」
「……うん」
目を閉じた。
唇が、重なった。
潮の香り。絵の具の匂い。蒼真の温もり。
全部が、愛おしかった。
観覧車が、頂上で止まった。
夕日が、海に沈んでいく。
錆びていた約束の場所で、十年越しの初恋が、ようやく実を結んだ。
エピローグ 約束の先へ
一年後。
観覧車は、汐崎町の新しいシンボルとして、毎日たくさんの人を乗せて回っている。
『恋人の聖地』として認定されて、カップルが全国から訪れるようになった。
「観覧車の頂上で告白すると結ばれる」なんて噂も広まって、週末は行列ができるほど。
蒼真の絵は、町の観光ポスターに採用された。
『錆びた約束の観覧車』というタイトルの画集は、ベストセラーになった。
個展も開かれて、蒼真は今や「港町の画家」として知られるようになっている。
私は、東京には戻らなかった。
母の食堂を手伝いながら、町の広報の仕事を始めた。
SNSでの発信を続けて、町には少しずつ若い人が戻ってきている。
千紗のカフェは、相変わらず繁盛していた。
「凪先輩と神代先輩が付き合い始めてから、カップルの聖地になっちゃいましたよ」
と、嬉しそうに(でもちょっと呆れながら)報告してくれる。
「私たちのせいじゃないでしょ」
「いやー、十年越しの初恋成就とか、エモすぎてみんな便乗したくなるんですよ」
……否定できない。
氷室先輩は、不正流用の件で会社を追われ、町を出ていった。
今どこで何をしているのかは、知らない。
知りたいとも思わない。
あの人は、結局最後まで、自分のことしか見ていなかった。
町のことも、私のことも、ただの「手段」としてしか。
対照的に、蒼真は——
「凪、起きて」
朝。
隣から、蒼真の声がした。
「んー……あと五分……」
「だめ。今日、大事な日でしょ」
「……なんだっけ」
「忘れたの?」
蒼真が、私の髪を撫でた。
毎朝のことなのに、まだ慣れない。
この人と同じ布団で目を覚ますことに。
「観覧車修復一周年記念イベント。君が企画したんだよ」
「……あ」
飛び起きた。
「やばい、準備!」
「ほら、だから早く起きてって言ったのに」
蒼真が笑っている。
その笑顔を見ると、胸がきゅっとなる。
一年経っても、全然慣れない。
「蒼真、私の服どこ——」
「はい」
用意されていた。
完璧に。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
蒼真が、私の頬にキスを落とした。
「行ってらっしゃい。僕は会場で待ってるから」
「うん」
玄関を出る。
潮風が、髪を揺らした。
港の向こうに、観覧車が見える。
朝日を浴びて、ゆっくりと回っている。
——十年前、私はこの町から逃げ出した。
蒼真を失った罪悪感から。自分を許せない苦しみから。
でも今は違う。
ここが、私の帰る場所。
蒼真がいて、母がいて、千紗がいて。
大切な人たちがいる、私の故郷。
「行ってきます」
誰にともなく呟いて、私は駆け出した。
錆びた観覧車は、もう錆びていない。
止まっていた時計は、もう動いている。
私たちの物語は、ここから始まる。
——これは、錆びた約束を磨き直す物語。
十年越しの初恋が、ようやく実を結んだ物語。
止まっていた時間が動き出す、私と蒼真の、始まりの物語。
【完】




