警察に声をかけられた瞬間、異世界に召喚された俺の話
「ちょっといいですか?」
背後から声がかかった。
心臓が止まる。
振り向く前に分かる。
制服の気配。
革靴の音。
間違いなく警察だ。
終わった…
アパートの前で、彼女の帰りを待ち伏せしていた時間、三十分。
いや、もっとかもしれない。
「君、そこで何をしていたの?」
説明できない。
しかし逃げることもできない。
あの夜のことを思い出す。
最初は偶然だった。
終電で隣になった。
吊り革を掴む手首。
細くはなかった。
だが、骨が見えた。
一瞬だけ。
それだけだった。
次の日、同じ時間の電車に乗った。
確認のつもりだった。
その次も乗った。
気づいたら、待つようになっていた。
改札の外。
見えない場所から。
ただ、通り過ぎるのを。
理由は、なかった。
最初から、なかった。
振り向こうとした、その瞬間。
視界が白く弾けた。
そして俺は異世界に召喚された。
月が三つあった。
見たこともない植物があった。
獣の耳を持つ者がいた。
俺の目は、そのどれにも止まらなかった。
俺の目線を絶え間なく奪って止まなかったのは、侍女の手首だった。
白い、だが細すぎない。
水差しを持つとき、わずかに浮かぶ筋。
あの筋が、妙に気になる。
そのたびに自分に言い聞かせる…やめろ!と。
また同じことを繰り返すつもりか、と。
だが、視線は勝手にそこへ向かう。
廊下の向こう。
銀の盆を運ぶ時の、袖口からほんの一瞬だけ覗くあの手首を。
ただ、ひたすら。
いや、やめろ!
もう二度と、こんなことはしないと誓ったはずだ。
だが気づくと、足音を覚えていた。
軽い靴音。
規則的に聞こえながら、時折ほんの少しだけずれる。
少し内股だからだろうか。
そのずれに、三日目で気づいた。
四日目には、音だけで分かるようになった。
たぶん、王宮内でそのことに気づいているのは俺だけだ。
昼、食堂の窓際。
彼女は座る前に、必ず髪を耳にかける。
右手で。
必ず右手で。
その時、耳の後ろの白さが見える。
ほんの一瞬。
白磁は、その名前に反して少し青みがかっている。
その侍女とて同じ。
俺はその青みがかった白さの上を汗が滑り落ちるのを想像する。
やめろ!
これじゃあ前と同じだ。
中庭。
井戸の横。
彼女は水を汲むとき、少しだけ背筋を伸ばす。
その時、首筋が見える。
影が落ちる。
その境目が妙に気になる。
召喚から六日目。
俺は、その時間を覚えた。
七日目。
先回りしていた。
頭では分かっている。
だが体が先に動く。
アパートの前で、窓の灯りが点くのを待っていた。
カーテンが揺れた。
それだけだった。
だが動けなくなった。
そして今・・・
「勇者様」
呼び止められた。
異世界の現実に戻る。
衛兵が立っていた。
「陛下がお呼びです」
血の気が引いた。
終わった。
俺は、また同じことをした。
玉座の間は、石の匂いがした。
古い石。
湿気を含んだ冷たさ。
扉が閉まる音が、背後で響いた。
王が、俺を見ていた。
目だけが動いた。
首は、動かない。
一歩、踏み出す。
靴音が響きすぎる。
天井が高いからだ。
分かっている。
だが、響きすぎる。
止まった。
頭を下げた。
視線を上げることができない。
紙の擦れる音がした。
一枚。
また一枚。
「召喚から、七日」
声だけが届く。
低い。
余計な感情が、ない。
「北回廊。通行回数、二十三」
心臓が、一度だけ跳ねた。
「食堂。窓際。滞在、平均十一分」
やめろ。
「中庭。井戸。六日連続」
言葉が刺さる。
一つずつ。
丁寧に。
「侍女の動線」
喉が塞がった。
「護衛の交代時刻」
手の先が、冷えていく。
「北柱から三番目。死角」
知っている。
俺が気づいていた。
王宮内で、俺だけが気づいていた。
沈黙。
紙が、置かれた。
「見事だ」
顔を上げた。
王が頷いていた。
ゆっくりと。
一度だけ。
その瞬間、侍女の手首を思い出した。
水差しを持つ時の、あの筋を。
やめろ、とは思わなかった。
「七日でここまで把握するとは」
俺は何も言わなかった。
言えなかった。
だが、今度は違う理由で。
「勇者よ。なぜ、あの侍女を観察した」
答えは、ある。
言えない。
沈黙が続いた。
王が、また頷いた。
「良い」
文官が何かを言った。
騎士が何かを言った。
聞こえていたが、入ってこなかった。
「王女の護衛兼観察役だ」
息が止まった。
「お前の目は、信用できる」
廊下の侍女のことを思った。
軽い靴音。
規則的で、時折ほんの少しだけずれる。
内股だからだ。
俺だけが知っていた、あのずれを。
これが、諜報だったのか。
違う。
俺はただ、見ていた。
理由など、なかった。
最初から、なかった。
前世でも、そうだった。
「ちょっといいですか」
あの声。
振り返れなかった、あの夜。
視界が白く弾けた、あの瞬間。
王が言う。
「期待している」
・・・俺は前世と何も変わっていない。
ただこの世界で、許される立場に、なっただけだ。




