きっとおれは栄養不足だ
くたびれた機械だ。本当にくたびれている。哀れを誘うフォルムだ。見れば見るほど悲しくなってくる。使い倒され、蹴飛ばされ、びくびくおどおど、いつも何かに脅えている。心配の種は尽きることなく、何もなければないでどこからともなく不安が立ちのぼってくる。それでも、のろのろと健気に動く。その動きがまたもの悲しくある。たったいま起こること、これまで起こったこと、これからきっと起こるであろうこと、すなわち現在、過去、未来、これらが修復不可能な損傷を機械に与えた。与え続けている。すべてが瞬間的にご破算になるわけではないが、不確かな失望と不定形の絶望、そいつの正体を探ろうとすれば、深く探ろうとすればするほど、決定的な欠陥が、致命的な故障が、自ずと浮き彫りになるだろう。シリアルナンバー19820108。あまりにも長い時間が刻印の周囲を削りとり、刻印の底との差を不明瞭にしていった。経年劣化。くたびれてゆく、何もかもが。近いうちに必ず酷い目にあう。わかっていてながら回避する術を持たない。このままくたびれ、へたれ、いつか動かなくなるまで、その間の少しの時間、ここでこうしていよう。なぜならここでこうしている以外にすることなどないのだから。
分厚い雲の切れ間に覗いている薄い青。今日はどうやら晴れるらしい。なんだかぬるい明け方だった。こうも気温があっちにいったりこっちにいったりコロコロやられると、自律神経が暴れ出して頭痛と涙と鼻水が止まらなくなるのだが、正直言うと自律神経がどのようなものなのかよくわかっていない。覚えておいてほしいのは、自律神経と気圧の変化、これらで謎の体調不良はすべて説明できるような気がする、少なくとも大抵の連中の納得は得られるということだ。だが納得を得ることができたとして、それが何になるというのだろう。微妙な体調不良は一向におさまる気配はないし、おまけに目まで痒くなってきやがって、もしかして今って春ですか。そんな錯覚に陥りながら人の話に耳を傾けると、花粉症って一年中あるからねー、スギだけじゃないからねー、ほらブタクサとか。
ブタクサ。よく聞く名だ。花粉症といえば文句なしにスギだが、二番手を挙げるとするならおれはブタクサだ。しかし、ブタクサ。花粉症関係でしか話を聞かないが、いったいどこに生息しているのだろう。実在するのか。七年分のプロ野球選手名鑑の隣に差さっていたポケット野草図鑑で調べてみると、確かにブタクサ、存在するようだ。見たことがあるような、ないような、そんな草に囲まれておれは生きている。やつらはなにも言わないし、主張もしない。いや、本当はバリバリに主張しようとしているのだが、誰かがそれを食い止めているのだった。しかしどうやら戦況は思わしくないようだ。頭痛と涙と鼻水に気を取られている間に、膠着していた戦線は崩れ始めていた。最前線はクマに翻弄されているようだ。おれたちはじりじりと後退している。ヘラクレスも金太郎も、もういない。あれやこれやのよしなしごとは自律神経と気圧の変化のせいにして、目の前のことにせいを出す。それ以外のやり方はすべて忘れてしまったのだった。
そうでもしないと生きていけない。動くことすらできなくなってしまう。自分自身に問い掛けてはいけない。問い掛けてみることはできる。なぜ生きているのか、どのように生きているのか、なぜ、こうまでして生き続けているのか。そんな問い掛けをしたところで、そうやって考えてみたところで、いずれ必ず生きることはやめてしまうのだから、やがて生きてはいけなくなってしまうだろう。すべては動き、変わり続けるが、個人の主観を通して見れば、同じ出来事に同じ反応を繰り返すだけの、繰り返しに継ぐ繰り返しにしか過ぎず、繰り返しに飽き飽きしているおれに向かってクマがじりじりと近づいてきているのは、それはもしかしたら救いになり得ることなのかもしれないじゃないか。
変わり続ける。いいだろう。いずれ酷い目にあう。それだってもういいだろう。イチからやり直すのは不可能ではないが現実的ではないし、つまりはクソだるいってことなのだし、それに加えてもともとやり直す気などは毛頭ない、明確にやり直しには反対する立場であるという前提に立ちながらも、自分の立ち位置というものをいつの間にか見失った結果にあるのは、自己疎外を促進し続ける身体を生かすためだけの労働に従事している間に考えていることは、それはいったい誰の、どんな立場に立脚している人間の考えなのだろうか。なにかを終えて、終えたつもりになって、どこに帰り、帰ったつもりになって、それからまた新たな繰り返しの準備を迫られ、迫られているつもりになって、積もり積もった経験と言えるかどうかもあやふやな体験がするすると通過してゆくが、同時進行ですべては変わり続け、その変化の途上で渦中で途切れてしまう。ぶつっとな。
おれが言いたいのは、そんな存在に意識なんてものが果たして必要だったのかということだが、まあ、あるものはあるでやっていくしかあるめえよ。その事実と早いこと折り合わなければいけない。のだが、残された時間はあまりにも少なく、同時に人生はあまりにも長すぎる。どうにかこうにか生きていく基盤を作るために繰り返しうんざりしながら生き続けて、とことんまで消え去りながら、それでも残ってしまうものに縋りつきながら、決定的な瞬間に突き放しながら。
にわか雨が通り過ぎたじゃりつく跡を踏みしめ、次第に暗くなってゆく街を行きつ戻りつ、閃光と点滅、ざわめきと足音、なんだかすべてが遠くの出来事だった。もういいだろう。突然、そんな気分になって、さっさと帰ることにした。人の群れの流れに乗り、この群れはいつ解散するのだろうか。おれたちそれぞれ行くべき場所があり、少なくとも行くべきだと信じている場所があり、いやわからない、それすらもどうだろうって気がしてきた。なにもかもがくたびれている。おれは新しい服を手に入れなければならない。それなりに値の張る、パリッとしたやつをだ。たったそれだけのことで気合いが入るに違いない。なにしろ腑抜けに腑抜けちまいやがって、もう目も当てられやしない。ほんの少しでも刺激を与えてやらなければ。目の前を歩いている男が、すれ違う外国人の女にまあまあの勢いで肩をぶつけて、もちろんそれがわざとなのかどうかはわからないが、まあたぶんわざとだろう、確証はないが、まるで何事もなかったかのようにそのまま歩き去っていった。どうしてこういうことが起こるのだろう。腹の中でなにを考えていようがそいつの自由だし興味もないが、なんらかの主張がそいつの肩を必要以上にいからせたのだとすれば、こんなに情けないことってない。
でもやっぱりわざとではないかもしれない。そんなことはおれにはわからない。もしかしたらそいつ自身にもわかっていないのかも。もう一度同じ様なことをしたら、後ろから被せ気味に右フックを食らわせてやろうと思ったが、本当におれはそうしただろうか。おそらくしなかったと思う。
結局そいつは上野方面に行ってしまったし、おれはそっちには行かなかったから、機会は永遠に失われてしまったわけだが、おれは本当にそうするつもりだったのだろうか。なにもしないのが一番良いに決まっている。死人や怪我人、特別に不幸な目にあった人がいたわけでもなし、それなのに一方的に襲いかかったのなら、おれに相応の罰が下されるのは明らかであり、それをすべてわかっていながらなお、おれは思いつきを実行することができたのだろうか。なんてふうに追い込んでしまうと、本当にやらざるを得なくなってしまうこともあるから気をつけなければならない。




