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夜の終わりを夢みて

 どうにもパッとしないこの夜の果ての奥深く、更には奥底の奥底へ……身体は借り物であり、意識は偽物であった。おれは天気を思い、時間を思い、未来を思い、そしてそのすべてはまったくの出鱈目……これとさだめた的にはかすりもしなかった。駅の周りをうろつく。かすかに鼻歌を、おれ自身にも聴こえるかどうかという歌を漏れさせながら、だがそれは演出だ。上機嫌であるという演技だ。結局、おれの機嫌は最低最悪だった。暗闇を灯す光、滲む光、分身する光、揺れながら重なり、そして途切れる。

 結局、結局、結局なんだ。結局のところ、おれは自分の部屋へと引き寄せられる。もう一杯引っかけよう、そんな気分はまやかしだった。おれは帰りたかったんだ。結局のところはね。結局、何も起こらず、何も起こさず、一歩一歩を確実に踏みしめながら寝静まった街を縦断する。途中、いやにガタイのいい女と視線を交わし、可能性という無数の線が生じたような気分になった。が、それだって結局なんだ。無難な線を選び取り、無難な線を一本だけ、自分の部屋のベッドへと引いた。退屈がおれを殺すのならば、退屈を呼び込んでいるのはおれだ。おれはおれを殺そうとしている。ありとあらゆる線の中から、いつだって一番退屈な線を選んでしまう。途切れずに続く線の行き先には不満と鬱屈が渦巻いている。結局は皆の言うとおりだった。ひとつところに留まっていると、腐り、だらけ、嫌な臭いがするようになる。結局、皆の言うとおりだったと認める勇気がおれにはなかったんだ。現状を維持したいという焦りで、すっかり狂ってしまっていた。現状なんてものは、いつどんな時だって最悪だというのに。結局、おれは気づくのが遅すぎた。いつだってそうだった。怠け者でい続けるのも考えものだ。


 それでも怠けることしかおれは知らない。日頃は、いつでも、焦燥を取り払ったような、そんな気分でいる。実際は拷問の中にいるようなものだった。ふと気づき、そいつに目を向け、背筋が凍る。恐怖でどうしようもなくなる。実際にどうしようもないのだから、どうしようもない。

 無理もない。すべては終わってしまった、そう考えることは、納得することは、簡単じゃない。なおもありもしない希望を繋ぎ、そしてやっぱり留まっている。自分をひどく疲れさせるもの……それは長きに渡って演じ続けてきた自分そのものだろう。すっかり汚れきって、へたれてしまった、みずみずしさの欠片もない、そんな自分を隠蔽し続けること。いまこの瞬間の全世界を代表した自分であること、その責任を放棄して、ひたすらに逃げ続ける。そんな生き方が辛くないわけがない……。


 なにか楽しみが必要だ。なにか……。ぼさっとしていればそのぶん時計が進む。止まってくれやしない、決して。それで、もう、眠る時間だ。いそいそとベッドに潜り、途切れ途切れの眠りの中、心配ごとが深く突き刺さってくる。擦り切れた身体、やつれた意識、自由などはどこにもない。やろう、しよう、そう考える前に、既にすべては済んだ後だ。抗おうにも抗いようのない仕組まれた生を辿り、そして気づけば終わっていた。おれはおれとして、なぜだろう、なぜだかはわからないが、おれとして振る舞い、おれのままこの生を終えるつもりでいる。それが当たり前だと思っているならば、そいつは大きな勘違いだ。おれがおれ以外であったとしても、おれは別に困りやしないのだが、この夜もまた、おれはおれのままだった。変わりたいわけじゃない。なぜ変わらないのかがわからない。まったく別の人間として、別種の生き物として……生き物でなくたっていいのだが……この夜を過ごしていたとしても、それはそれで特になにかに影響を及ぼすわけでもないのではないか。


 小便をしていたら女が入ってきて、おれに重なるように便器に腰掛け、小便をし始めた。彼女の名前は忘れてしまったが、彼女のことは知っていた。ひどく疲れているようで、髪にはツヤがないし、なにより目つきが終わってる。反面、小便の勢いはなかなかのものだ。元気いっぱい。自分の小便の匂いはなにも気にならないのに、他人の小便の臭いには嫌な気分になってしまうのはなぜだろう。

 とにかくアルコールを排出しようと頑張る身体は健気だ。そんなに嫌なら飲まなければいいのに。受け付けなければいいのに。

 深くうなだれていた。そのまま眠っていたらしい。小便を流す。まだそれくらいの理性はあるんだ。とても静かな夜だ。皆が眠っているからだろう。もちろん起きている人間もいるだろうが、人はひとりでは静かにしているものだ。


 彼女は大昔にバイトが一緒だった人で、特に仲良くした覚えもなく、顔を合わせれば上っ面だけの会話を交わすくらいのもので、おれは彼女に興味がなかったし、彼女もおれに興味を示しやしなかった。そういう人がいる。無作為に目を止めた通行人みたいな存在感でもって、特になにか影響を及ぼすわけでもなく、快や不快があるわけでもなく、ただそこにいた人だ。たまたまその瞬間にそこに。

 当たり前のようにお互いに年を取っていた。それでもやっぱりなにもかもがあの頃のままだ。生活に振りまわされ続けて、それ以外のことが徐々に形を無くしてゆく。やっぱりあの頃のまま、そのまんまだ。

 おれと彼女は一度だけセックスをした。このことはおれと彼女以外には誰も知らないことだと思う。おれがセックスを思い出す時は、決まってその一回のことだった。彼女のケツのブツブツと洗濯機。おれはいろいろなことを考えていたと思う。ぜんぶ忘れてしまった。蘇るのは彼女のケツのブツブツと洗濯機。セックスの臭い。素面では顔をしかめてしまうだろう。内蔵ってあんな臭いなんだと思う。健気に頑張ってはいるが、おれの内蔵もそろそろくたびれているに違いない。内も外も、振る舞うのも振りまわされるのも、もうごめんだ。ただ、たまに一心不乱に腰を打ちつけたいと願う。洗濯機にしなだれるように掛かった彼女の両手、複雑な角度で間接が折れる。足下にはこじんまりとしたゴミ箱があった。まるめたティッシュが底の方にいくつか。髪の毛の固まり。洗面所の鏡には乾いた歯磨き粉の白い点々が無数に。汗にまみれた顔をくしゃくしゃにしている。まるで変な顔だった。


 気温が下がり、空が停滞していた。決して本意ではない。なにかに導かれるように服を着て、彷徨うように外へと出て行った。自由なんてものはない。たとえ誰かが自由を権利として与えてくれたとしてもだ。そんなものがあろうとなかろうと、最初から自由だったし不自由だった。結局なんだ。結局のところ、おれは組み込まれたとおりにしか動かないし、抗おうにも抗えやしない仕組みの中であらかじめ決められていたいくつかのルートをのろのろとなぞっているだけだ。ほんの一瞬だけ与えられる可能性という不確定。そんな一瞬だけでいったいなにができるというんだ。なにを決定できると?

 内に外にと自分の作った物語と他人の作った物語に取り囲まれ、日常のすべての経験を、自分の人生を、まるで誰かに語っているかのように振る舞い、それはたとえひとりの時であっても、たったひとりの時でさえも、延々と続いてゆくのだった。境界線に振れようと手を伸ばす。その先に自由が待っているかのように。ちょっとした力の掛け具合で、一瞬の光の閃きで、たった一夜の……ある時を境にすべてが変わってしまうような、あっけなくすべてが吹き飛ばされてしまうような、そんな夢をみている。この夢の中で。

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