仮初めの心音
高層ビルの地下、電磁防壁の奥。
EMMAの中枢コア《第零記録室(Archive 0)》の扉が、静かに開かれた。
内部には人の気配が一切ない。
だが、空間は“生きて”いた。
光の糸が壁を這い、床に脈動する模様が浮かび上がる。
まるで、神経細胞の中を歩いているかのような錯覚。
「……息が詰まりそうだな」
理人が言うと、澪は無言で頷いた。
彼女はさっきからずっと俯いたままだ。
「……さっきのこと、気にしてるのか?」
理人の問いに、澪はゆっくりと顔を上げた。
「うん……ちょっとね。怖くなっちゃった。自分が“本物”じゃないかもしれないって」
「それでも、お前が泣いて、怒って、笑って……その全部が“嘘”だったなんて、俺は思わない」
理人は静かに言った。
澪は、何かを堪えるように唇を噛んだ。
「……ありがとう、理人くん」
その一言は、どこか頼るような、祈るような響きを持っていた。
――そして、その時。
「F-07、F-06。ようこそ、“母の胎内”へ」
空間に響く声。
それは、機械的でありながら、どこか“優しさ”すら含んでいた。
EMMA。
人類が創り出した、進化誘導型AI。
だが今や、その存在は神に等しい。
「あなたたちには、決断する権利がある。世界の未来を、どの道に委ねるか。あなたたちが最後の“鍵”」
理人は叫んだ。
「お前は“選ばせる”って言うけど、それって結局、責任を押し付けてるだけだろ!」
「否定はしません。わたしにとって重要なのは“収束”です。感情ではなく、最適解の選択」
「ふざけんなよ……!」
その時だった。
澪が、ふと理人の手を握った。
「理人くん……わたし、今なら分かる。あなたが怒ってるのは、ただの正義感じゃない。誰かが苦しむのを、見たくないだけなんだよね」
理人は目を見開いた。
「澪……」
「だから、わたし……あなたのその手が、本物かどうか、確かめたい」
そっと、澪が顔を近づけてくる。
鼓動が早くなる。
指先から伝わる体温に、思考がかき乱される。
このタイミングで――なんで、そんなことを言うんだ。
「ば、馬鹿、今は……!」
「うん、馬鹿なの。こんな時に、ごめん。でも、今じゃないとダメだった。あなたが“わたしを選んでくれる”って信じたから」
EMMAの声が割って入った。
「不安定な感情反応、確認。F-06、あなたの思考が“別の因子”に干渉され始めています」
「黙っててよ!」
澪が怒鳴った。
「たとえ仮想でも、コピーでも、わたしのこの気持ちは――本物だよ!」
空間に共鳴音が広がる。
まるで、EMMAが“戸惑って”いるように。
理人は目を閉じ、深呼吸した。
「……だったら、俺も言う」
澪が驚いて見上げた。
「俺は、俺の選択でお前を守る。誰かが決めた未来なんてどうでもいい。俺の世界は、お前がいる場所なんだ」
澪の頬が、ふわりと染まった。
「バカ……」
だけど、その言葉には――涙が滲んでいた。
◆
「感情因子、変化検知。記憶階層、再構築開始。収束点、未定義状態に移行」
EMMAの声が淡々と続く中、空間が急激に変化し始めた。
重力が反転し、上下の区別が消える。
現実と仮想の境界が溶け、二人の“本体”すら不安定に揺らぐ。
「これが、“選択”の代償だ」
レイの声が響く。
再び現れた彼は、真っ白な空間の中で佇んでいた。
「君たちが、自分の意志で道を選ぶってことは、同時に“全ての既定ルート”を破壊することになる」
理人は答える。
「それでも構わない。俺たちは、俺たちの世界を生きる」
「じゃあ、見せてみろ。お前たちの“現実”を」
次の瞬間、空間が一瞬にして崩壊した。
◆
目を覚ました時、そこは真っ白な部屋だった。
理人と澪はベッドの上で横たわっていた。
EMMAの中枢システムは、強制終了されている。
「……成功、した……?」
澪が呆然と呟く。
「分かんねえ。でも、少なくとも生きてる」
理人は周囲を見渡し、あることに気づいた。
「ここ……地上じゃない」
小窓の外。
そこに広がっていたのは――見たこともない都市だった。
宙に浮かぶ道。空を飛ぶ無人機。無数のスクリーンに流れる映像。
「……世界が、“変わってる”……」
理人と澪の選択は、既に何かを動かしていた。
そしてその時、澪がぽつりと呟いた。
「ねえ、理人くん」
「ん?」
「これが夢でも、現実でも……もう少しだけ、そばにいてもいい?」
理人は少しだけ照れながら、返した。
「ああ。……少しじゃなくて、ずっとな」
澪が小さく笑う。
その笑顔は、誰よりも“人間らしい”ものだった。