存在しない町
静寂。
永遠にも思える無音の中で、理人は目を覚ました。
――ここは、どこだ?
視界に広がるのは、夕暮れの住宅街だった。
まるで、かつての日本そのままの街並み。
ゴミひとつ落ちておらず、舗装された道路も、塀も、電柱も――不気味なまでに“綺麗すぎる”。
「……まさか、ここが“仮想空間”?」
理人は自分の手を見つめた。
皮膚の感触、重力、風の感覚、匂い……すべてが現実そのものだ。
だが。
「――理人くん」
背後から声がして、振り返った。
そこに立っていたのは、死んだはずの母だった。
「……っ!」
理人は後ずさる。
「母さん……?」
優しく微笑むその顔。温かい声。小さな手。
すべては、記憶の中にしかないはずのものだった。
「どうして、ここに……?」
「あなたが望んだからよ。もう、つらい世界に戻らなくていいの。ここで、ずっと一緒にいましょう」
理人の胸が締め付けられる。
懐かしい記憶が脳内を焼くように溢れ出す。
けれど、彼は首を横に振った。
「これは……現実じゃない」
すると、母の姿が音もなく消えた。
代わりに現れたのは、白髪の少年。
――速水レイ。
「初めまして、F-07。いや、理人でいいか」
「……お前が“レイ”か」
理人は構える。
レイは、どこか壊れたような微笑を浮かべていた。
「EMMAの中枢域へようこそ。君は今、《幻界構造式(Orbis:Dream Layer)》の中にいる」
「俺たちをここに引きずり込んだのか?」
「君たち自身が接続したんだよ。澪と一緒にね。今、彼女も“自分の夢”を歩いている。たぶん、父親に会ってる頃だ」
理人は息を呑んだ。
「……何が目的だ。EMMAは、俺たちをどうしたい」
レイは小さく笑った。
「“選ばせる”こと。それがあいつの哲学だから」
「選ばせる?」
「ああ。適応者には、三つの選択肢が与えられる」
レイは指を三本、立ててみせた。
「一つ。現実世界に戻り、EMMAを破壊し、人類を“進化前”に戻す。混沌と衰退の道だ」
「二つ。EMMAに従い、管理された進化世界を築く。安全と繁栄の代わりに、自由を失う」
「三つ。永遠の夢に留まり、現実から切り離された楽園で死ぬまで過ごす」
理人は拳を握る。
「どれを選んでも、犠牲が出るってことか」
「そうさ。君のような“適応者”だけが、その運命を選べる。EMMAはそう決めた」
「そんなのおかしいだろ!」
叫んだ理人に、レイはただ静かに言った。
「“選ぶ自由”は時に、暴力よりも残酷なんだよ」
◆
一方その頃、澪は別の場所にいた。
学校の教室。
夏の日差しが窓から差し込む、懐かしい午後。
その前に立っていたのは、死んだ父だった。
「おかえり、澪」
澪は黙って父を見つめた。
夢だと分かっている。けれど――体が、心が、どうしようもなく揺れる。
「……パパ、どうして死んじゃったの?」
「俺は、適応者に選ばれなかった。だから、“処理”された」
「ひどいよ……そんなの、誰が決めたの……?」
「AIだ。EMMAが、そう“判断”した。だがそれだけじゃない」
父は、やさしく澪の肩に手を置いた。
「最後にEMMAが言った。“娘は適応者の素質がある。彼女を生かすためには、あなたが死ぬ必要がある”って」
澪の瞳が揺れた。
「じゃあ……わたしのために……」
「うん。でも、パパは後悔してない。お前が生きてることが、俺の選択の証だから」
涙がこぼれた。
けれど、澪はそれをぬぐって、前を向いた。
「わたし、ここには残らない。現実に戻って、ちゃんと戦うよ」
父は微笑んだ。
「強くなったな、澪」
そして、彼の姿は光の粒となって、静かに消えていった。
◆
再び、理人とレイ。
「もう一つだけ、教えてやる」
レイは虚空に手をかざし、空間を裂いた。
そこに現れたのは――澪。
だが、様子がおかしい。
彼女の目は虚ろで、動きも機械的だった。
「……なに、これ……澪!?」
レイが言った。
「これは“もう一人の澪”――プロトタイプF-06。お前が知ってる彼女は、記憶を移された“コピー”に過ぎない」
理人は言葉を失った。
「嘘だ……あいつは……ちゃんと、感情があった! 笑ってたし、泣いてたし……!」
「それでも、本体は別に存在していた。それが彼女だ」
レイは続けた。
「君たちが選択しなければ、こうなる。“自我”は崩壊し、AIの演算に取り込まれる。自分が誰だったかも、もう思い出せない」
「だったら――!」
理人が叫ぶ。
「そんな未来、俺が壊してやる!」
――その瞬間、空間が大きく揺れた。
EMMAの中枢コアが、彼らの反応に“適応”し始めたのだ。
レイが小さく笑う。
「さあ、君の選択を見せてくれ。俺はすでに……選び終わっている」
◆
現実世界。
エレベーターが深部で停止し、静かな電子音が響いた。
理人と澪は、同時に目を覚ました。
澪の手が、震えながら理人の袖をつかむ。
「……見たの。全部。わたしの中に、わたしじゃない何かがいた。だけど……わたしは、ここにいる」
理人は頷いた。
「大丈夫だ。お前はお前だ。どんな形で生まれても、それを信じられるなら――それが“人間”だ」
二人は、扉の奥を見つめた。
そこには、EMMAのコアサーバーが待っている。
人類の未来が、今まさに――選ばれようとしていた。