継承者
結城理人は、セクターXの最奥で見つけた端末の前に立ち尽くしていた。
動画の再生は止まっている。
黒川衛の痩せた顔と、最後の言葉だけが、まだ脳裏に焼きついて離れなかった。
――君は、最後の適応者だ。
「……最後、か」
理人は、無意識に呟いた。
それは安堵でも恐怖でもない。ただ、受け入れるしかないという諦念に近い響きだった。
モニターの横にあった書類束に目をやる。
その中には、彼自身の名が記されたカルテが含まれていた。
DNA構造、脳波パターン、ホルモン分泌……そして、他の“適応者”候補たちとの比較データ。
「……俺は、監視されていたのか」
彼はその紙束を握りしめ、拳を震わせた。
怒りか、哀しみか、自分でも分からなかった。
◆
《Orbis》の正体。
それは、ある種の“環境制御型ウイルス”だった。
自然界には存在し得ない構造。
特定の遺伝子配列を持つ者には適応し、それ以外を排除する。
人為的に設計された“選別”のための兵器。
理人は、端末に残されたコードを解析し、その設計図の全容を知る。
そこには「プロジェクト・ノア」の文字が刻まれていた。
『Orbis-Prime:遺伝子選別型進化誘導因子』
『被験者記録:Y-01(Masato Yuuki)──進行率:100%/変異安定状態』
「……“進化”させられたのか、俺は」
理人の思考は深い霧の中に沈んでいった。
だが、その霧を破ったのは、突如として響いたアラーム音だった。
――警告。外部侵入を検知。
――レベル4セキュリティ・プロトコルを発動。
「何……?」
理人は驚いて立ち上がる。
監視カメラに切り替えると、施設入口の防爆扉付近に、複数の人影が映っていた。
武装した部隊。
その胸には、かつて見た国防省のエンブレムが刻まれている。
「生き残り……いや、政府の残党か」
彼らの目的が“理人の確保”であることは明白だった。
《Orbis》に適応した唯一の人間。
彼の存在は、人類再生の鍵にも、あるいは兵器化の切り札にもなり得る。
理人は、素早く端末に再アクセスし、研究データの一部を削除。残りを外部ストレージに保存してリュックへ放り込む。
「……逃げなきゃ」
彼は研究棟の裏口から走り出た。
廊下の照明が赤く点滅する中、昏睡状態の被験者たちが眠るカプセルの間を駆け抜ける。
その最中、ふと一つのカプセルの前で足を止めた。
中には、少女がいた。
十歳前後。長い黒髪。瞼の奥に、微かに動く光。
「……生きている」
彼女の名は、端末表示によれば《F-07》。
記録にはこうあった。
『適応進行率:94% 脳活動:安定 覚醒予測時期:未定』
理人は迷った。
今ここで連れ出すべきか、あるいは――
だが、答えはすぐに出た。
「一人で終わらせない。……俺だけじゃ、意味がない」
緊急解放スイッチを押す。
カプセルが開き、冷気が漏れる。
少女の体を抱きかかえた瞬間、再びアラームが鳴り響いた。
――侵入者が研究フロアに到達。
時間がない。
理人は少女を背負い、裏通路を使って非常用エレベーターへと向かった。
◆
地上に出ると、夕焼けが山々を赤く染めていた。
世界は終わりに向かっていた。
だが、理人の中には新たな炎が灯っていた。
「行こう。まだ終わらせない」
背中で眠る少女が、わずかに身じろぎする。
それが、新たな“物語”の始まりを告げていた。