終焉のその先へ
死は、空気のように街に漂っていた。
焼け落ちた建物の隙間から吹き抜ける風が、鉄と血の匂いを運んでくる。気がつけば、それに鼻をしかめることすら忘れていた。もう、当たり前の臭いになっていたからだ。
結城理人は、崩れかけた歩道の縁に腰を下ろし、黒くひび割れた地図端末の画面を睨んだ。
《ノア=セクターX》。
政府の機密通信から解析した断片的な情報によれば、あの場所は「始まり」と「終わり」が同居する、死者の都市だという。
そして――俺の記憶も、きっとあそこにある。
Orbisに感染したはずの自分がなぜ生きているのか。
この体の中で、何が進行しているのか。
胸の奥がうずいた。熱じゃない。ウイルスの影響でもない。
もっと、根の深いものだ。罪悪感か、あるいは恐怖か。
わからない。ただ一つ確かなのは、自分がこの世界で唯一、まだ人間として歩けている存在だということ。
空を見上げた。
遠くで何かが爆発する音がした。だが驚く者はもういない。
世界は、終わる準備をすっかり終えていた。
耳鳴りがしていた。
静まり返った世界の中で、ただそれだけが、結城理人の耳を焼いていた。
もはや人の気配など、とうに絶えたこの都市にあって、病院の屋上は静寂の極地だった。風に煽られた紙くずが、舞い上がってはフェンスにぶつかり、乾いた音を立てて散っていく。
理人は、その風の中に立っていた。
かつてここには、無数の命があった。
助けを求める声。泣き叫ぶ家族。絶望の中でなお、希望を捨てぬ医師たちの姿。
だが今、そのすべては灰と瓦礫に変わっていた。
《Orbis》――突如、世界を襲った未知のウイルス。
発症すれば、致死率は99.99%。
高熱、痙攣、内出血、呼吸不全。
そして、死。
それが、この数ヶ月で人類に突きつけられた現実だった。
理人も、例外ではなかった。いや、例外"になるべき"だった。
彼は国立感染症研究センターの免疫学研究員として、パンデミック初期から《Orbis》の解析に携わっていた。
日々、患者の血液を扱い、自らも防護服を身にまとって研究にあたる。
感染リスクなど、常に隣り合わせだった。
だが――
彼は発症しなかった。
発症どころか、感染の兆候すら見られなかった。
「……なぜ、俺だけが生きている」
理人は、自分の手のひらを見つめた。
乾いて、ひび割れている。
それはウイルスのせいではない。
飢えと疲労、そして焦燥。
世界が壊れてから、もう何日が過ぎたのか。
人の数は、どれほど残っているのか。
今や、電波も交通も、行政も機能していない。
東京の中心部はすでに封鎖され、人影も見えない。ライフラインは停止し、あらゆる物資は略奪された。
だが、そんな世界の片隅に、奇跡のように生き残る者がいた。
結城理人。
――俺は、なぜ生きている?
その問いに答えを求めて、彼は歩き始めたのだ。
◆
人が消えた街には、ある種の静寂がある。
それは死の匂いに似ている。
駅前のビル群は崩れ、車は歩道に乗り上げ、交差点には打ち捨てられた遺体が朽ちかけていた。
理人は手に入れた古びたバイクを押して進み、旧知の同僚が残したメモを手がかりに、感染症研究センターの地下記録庫へとたどり着いた。
非常用電源はまだ生きていた。
冷気漂うサーバールームで、理人は数十万件のデータを漁った。
その中に、異質な名前が浮かび上がっていた。
《ノア=セクターX》
公式な地図にも記録にも存在しない、謎の医療施設。
《Orbis》発生の三年前。
極秘裏に建設され、情報へのアクセスは理人の上司ですら不可能だった。
その存在が示すもの――
それは偶然ではない。
理人は思い出す。
ウイルスの遺伝子構造。
複雑すぎる進化パターン。
まるで、それは「自然な突然変異」ではなく、「意図された設計」のようだった。
誰が、何のために?
その答えを求め、理人はその場所へ向かう決意を固めた。
◆
バイクを捨て、徒歩で山道を進む。
西東京郊外、かつて自然保護区と呼ばれた区域。
獣道すらも崩れかけたその先に、理人は奇妙な違和感を覚えた。
草木が不自然に切り揃えられている。
地面には、人工的な整備の跡。
そして、土砂崩れで塞がれたように見えた斜面の奥に、それはあった。
鋼鉄の防爆扉。
"Sector-X"と記された、錆びついた刻印。
理人は、持ってきた工具で何時間もかけて扉を開けた。
冷たい空気が、内部から漏れ出してくる。
その瞬間、彼の背筋に戦慄が走った。
これは、単なる医療施設ではない。
何か――何か、重大なものが、ここにある。
◆
施設内部は、予想に反してまだ稼働していた。
非常灯が点灯し、自動ドアが開閉を繰り返す。
まるで、理人の到来を待っていたかのように。
無人の廊下を進む。
その途中、理人は複数のカプセルを見た。
冷却保存された遺体。
脳死状態に近い昏睡患者。
そして、目だけをぎょろりと動かし、理人を見つめる子供たち――
それは、生きながらにして管理された"標本"だった。
「……これは、なんだ」
理人は、答えを求めて施設の深部へと進んだ。
研究エリア。
そこに、黒川衛の名前が記された端末が残されていた。
かつての恩師。
《Orbis》解析の第一人者。
そのログイン情報は、生きたまま残されていた。
そこには、一本の動画が保存されていた。
『これを見ているということは……理人、お前か』
動画が再生される。
痩せこけ、感染末期の症状を見せる黒川が、カメラ越しに語りかけてくる。
『君の身体には……ある種の“鍵”がある。ウイルスを“適応させる遺伝子配列”だ。だが、それは偶然じゃない。Orbisは、君のような存在を作るために設計された』
背筋が凍る。
『ノア=セクターXは、“選別”の場所だった。適応者――ウイルスと共生できる個体を見出し、新たな人類として進化させる。そのための、神の箱舟だ』
動画がノイズ混じりに途切れる。
黒川は、最後に微笑んで言った。
『だが君は……最後の適応者だ。理人、この世界の希望であり、同時に……終わりだ』
再生が止まる。
理人は、しばらくその場に立ち尽くした。
その手は、わずかに震えていた。
生きていた理由。
それは、設計された進化の結果。
自分という存在が、「誰か」の意志によって生まれたのだとしたら――
彼は、人類なのか。
それとも、何か別の存在なのか。
だがその疑問すら、もはや意味をなさない。
理人は、唇を引き結んだ。
「……俺が、終わらせる」
Orbisの進化を。
そして、この世界を蝕んだ“神の選別”を。
それが、自分に残された最後の責務だ。
結城理人は、冷たい光の中を歩き出した。
――終焉のその先へ。