霞
霞が増えた。一人二人といった数ではなく、この世界に生きる人間の数と同じく。胡桃も音々にも、ご近所さんや知らない奴の傍にも、今は霞がいる。そんな不可思議な現象が起きれば、当然世間は騒ぐ。伝染病の症状、宇宙人の侵略など、憶測ばかりが蔓延った。
でも、それもすぐに収束した。デメリットと言える部分が無かったからだ。その人物の理想像を完璧に演じ、どんな人間にでもなれる。赤子から老人まで。男も女も関係なく。誰にでも今は霞がいる。
それ以来、世界が変わった。誰もが霞で満足し、霞以外の人間とは関わらなくなった。仕事上の付き合いなんかはまだ続いているらしいが、それもいつまで続くかは分からない。幸せで満たされながら、ゆっくりと滅んでいく。
あれから三年後の今。アタシが思っていたよりも早く、人間社会は滅んでいった。路上で寝転がって笑っている奴らには、もう取り返しがつかない事態になっている事に気付きもしない。満ち溢れた幸せに溺れ、正常な判断が出来なくなっている。幸せ過ぎるのも考えものだな。
でも、良い事もあった。胡桃と音々が、アタシと同じくらいに危機感を持った事だ。かなり限定的で小さな事だが、アタシにとってはようやく現れた共感者だ。だからといって何か出来るかというと、何も出来ない。やる事と言えば、一つの家に三人で住んで、残りの余生を過ごす事くらいだ。
「ハァ……久しぶりにペスカトーレが食べたい」
「なんだそりゃ?」
「パスタよ。海老とかイカとか貝とか。海鮮類がデカデカと盛り付けられたパスタ料理」
「作ればいいじゃねぇか」
「肝心の海鮮を誰も獲らなくなったから無理よ。ただの素パスタの完成」
「時雨ちゃんなら、獲ってこれるんじゃない?」
「音々。あんまり無茶を言うな。アタシはカナヅチなんだよ」
こんな風に、アタシ達は一日のほとんどの時間を過ごす。椅子に座り、コーヒーか紅茶を片手に、会話をする。人間が滅びかかっているなんて大事は忘れて、穏やかに過ごす日々。凄く幸せというわけじゃないが、不幸でもない。
そう思っていた矢先、天井を突き破って木が倒れてきた。木の背があと少し高ければ、アタシは木の下敷きになっていた。今日は特別風が強いわけじゃないのに、どうして木が倒れてきたのだろう。
外に出てみると、三人の霞が輪になって密談していた。三人の近くには切り株があり、手にはそれぞれ斧が握られている。やっぱりコイツらの仕業か。
「げっ!? し、時雨ちゃん!?」
「……一応聞くが、何しようとしてたんだ? いや、何したかは分かってるが、何でそんな事したんだ?」
「ほ、ほら! よく絵本とかで木こりって登場人物がいるじゃん?」
「どういう気持ちで切ってるのかなって、こっちの私が言いだして」
「同じ霞同士、一緒にやろうって張り切って」
「二人もノリノリでやってたじゃん! なんで私を主犯みたいに言うの!?」
「「主犯でしょ」」
「うぅ……自分自身に裏切られた……! 時雨ちゃ~ん!」
アタシに泣きついてきた霞のオデコにチョップした。死にかけたにしては、かなり甘い制裁だと自覚してる。
アタシと胡桃と音々。三人の理想である霞は、分かり易く違いがある。胡桃の霞は甘えん坊。音々の霞は面倒見が良い。アタシの霞は変人でトラブルメーカー。内面の違いだけじゃなく、髪型や服装でそれぞれの違いを出している。
霞に恋心を抱いていたアタシ達三人の取り合いは、あまりにも非現実的で、理想的な収まり方で解決した。最初は霞の事を都合よく扱ってる気がして嫌だったが、当の霞達は特に気にしている素振りはなく、アタシ達も自然と慣れていった。
それでも、一人になると考えてしまう事がある。あのノッポの魔法使いが言った言葉。終わり良ければ総て良し。確かにその言葉通りの状況になっているが、どうしても納得がいかない。アイツはどうして、霞の願いを叶えたのか。ただの気紛れか、あるいは何らかの意図があってか。
悩んで悩んで、いつも通り分からなくなって、煙草の煙と一緒に吐いた。
「また一人で考えてる」
「ああ。また答えが見つからなかったよ」
「どうしてそんなに悩むの?」
「さぁな。納得がいかないから、とか?」
「私は時雨ちゃんじゃないんだから分かるわけないじゃん」
「だよなー……なぁ、霞」
「ん?」
「アタシが知ってる霞のままでいてくれ」
「どういう事?」
「……ずっと友達でいてくれって事」
霞は眉間にシワを寄せて小首を傾げた後、アタシを真っ直ぐ見つめながら笑顔で答えた。
「もちろん! 私と時雨ちゃんは友達! ずっと変わらない、大親友だよ!」
「……アタシも同じ気持ちだ」
アタシは霞が好きだ。昔から今も、それは変わらない。叶うなら、恋人になりたい。
でも、アタシの記憶に焼き付いた霞は、出会った時に見せた無邪気で変人で、突然消えてしまいそうな。霞のような人。




