片想い
遠山楓は部屋から飛び出していった。追いかけていくと、リビングの床に白チョークで落書きをしていた。
少し前のアタシだったら殴ってでも止めたが、今はこの落書きにも何か意味があるのだと見守ってしまう。
「よし、出来た! 今から母が来ます。母なら霞さんを助け出せるので、何か言われたらその通りにしてください!」
「今から来るって……」
アタシの疑問を晴らさずに、遠山楓は落書きの上に立ち、大きく息を吸って、止めた。
その瞬間、遠山楓の下にある落書きが輝き出し、その光は遠山楓の体を渦巻いていった。光が徐々に薄れていき、現れたのは見知らぬ人間。
いや、人間なのだろうか。背も腕も足も異常に長く、黒いローブで全身を隠し、顔は白い鴉のような奇妙なマスクで隠されている。
「あら? 随分と小さなお家ね。こんばんわ、お嬢さん。早速患者さんの所へ案内してくださる?」
芯がありながら澄んだ声。多分女性だろう。彼女はグッと顔を近付け、アタシの目の前に迫ってきた。マスクの目の部分には穴が開いているが、途方もなく暗い。
「あ、あの、こっち―――じゃなくて、こちらです……」
目の前にいるコイツは怖過ぎる。蛇に睨まれた蛙ってのは、こういう事を指すんだな。
言われるがままに霞の前にコイツを連れてきてしまった。遠山楓のように妙な道具を使うかと思ったが、コイツは放心状態の霞をあらゆる角度で観察しているだけ。たまに何かを感じ取ったのか、首が急に動くのが怖い。
「そんな警戒しなくて大丈夫よ。すぐ処置を終わらせて、すぐ帰るから」
「……正直言って、アタシはまだ信用出来ない」
「信用を得るのは難しいものね。じゃあ、こう考えてみて。私はお医者さんで、流行りじゃない方法でこの娘を診ます」
「そんなんで信用出来ない、です……」
「アナタはお医者さんが行う診察の全てを理解しているかしら? きっとよく分からないのもあるでしょう。今から私がやるのは、そのよく分からない事です。じゃあ、まずはいくつか質問しますね。楓はどうやって診察したのかしら?」
「……なんか、ネックレスに付いた宝石をブラブラさせて……催眠術みたいな」
「あらあら。あの子は思い切りが良いわね。よく知りもしない人間の心に入り込むなんて。人の心は、その心の持ち主でも数え切れない程に数と種類があるの。例えば、楽しい。この楽しいという想いは、一つだけの心だけじゃなく、いくつもの心を生む事だってあるの」
「心は、一つだろ?」
「心はね、器なの。シャボン玉のように可愛くて壊れやすい器。心が想いを生むのではなく、想いが心という膜を張るの。それが割れて、新しい心が生まれて、その繰り返しで人は生きている。でも、この娘は心が頑丈で、抱えきれない程の心で圧迫された状態。そうなるとね、人は途端に迷子になるの。自分が何を想って、何をしたいのか分からない。心が満ち溢れているからこそ、空っぽだと感じてしまう。人間って不思議でしょ?」
この人の言っている事のほとんどを理解出来ない。それはアタシが馬鹿なのか、あるいは理解出来ない領域の話をしている所為か。
「アナタはこの娘のお友達?」
「当然だ」
「ならその関係をずっと維持していてね。それ以上でも、それ以下でも駄目。この娘にとって、アナタは友達だと認識してしまっているのだから」
「……好きに、なっちゃいけないって事か?」
「残酷ね。それにしても、この娘面白いわね。ここまでキャパオーバーな心の量だと、普通は耐えられなくて死を選ぶのに。この娘は、死を微塵も覚えていない。心を糧として生きているのか、あるいはその逆か」
「難しい話はここまでにしてくれ。肝心な話を。霞は元に戻るのか?」
「これが彼女の素よ。相手の事ばかりが大切で、自分の事は微塵も考えない。誰かがいて、初めて自分という存在を認識する。今はそれすら分からなくなっている状態だけど。そうね……リセット。アナタの心を除いた全てを消す。それによって記憶が断片化されて変に感じるかもしれないけど、この娘なら大丈夫でしょう」
「それって、アタシ以外の……胡桃の事も、音々の事も、忘れるって事だよな?」
「そう。この娘が再び目を覚ました時、世界は真新しさで満ちている。でもアナタだけは記憶に根付いている。もし、アナタがこの娘が知る一面以外を見せた時、きっとこの娘の心は複雑化する。そうなってしまえば、もう私でもどうにも出来ないわ」
そう言うと、コイツは霞の前から離れた。再び目にした霞は眠っていた。まるで産まれたばかりの赤子のように、無垢な表情で眠っていた。
「とりあえずは大丈夫。でも、用心して。この娘の心の在り方は変わっていない。出会い、思い出、感情。それらが多過ぎると、また今回のようにキャパオーバーになるから。そうね、しばらく楓を就けておくわ」
「アイツが!?」
「そう嫌がらないであげて。あの子は魔法使いにしては優しい子なのよ。本来、こうした魔法での施術は対価が必要なの。あの子はいつも対価を求めず、無償の善意を行う。魔法は人間の知恵の外にある外敵に対処出来る術だけど、万能ではない。今回の失敗で、あの子も少しは無償の善意に危機感を覚えたはず。だから次にあの子に助けを求める時、アナタから対価を与えてあげて」
「……お前、本当にアイツの母親なのか?」
「母よ。あの子を育て、見守る役目。次の機会があれば、ゆっくりお茶を飲みましょう」
そう言って、遠山楓の母は部屋から出ていった。
アタシはベッドで眠る霞の傍に近寄った。体は大人の女性に成長しているが、顔は少女の頃から変わらず幼い。彼女が目を覚ます時、彼女の記憶は、思い出は、感情は、全てリセットされる。アタシだけは変わらぬまま。
それはきっと、名誉というべきものだろう。アタシが彼女に友達以上の想いさえ抱いていなければ、名誉だった。
初恋のもどかしさや心地良さが、今は苦痛でしかない。




