桔梗
三日続けて床を共にした人が名を名乗ってくれない。なぜなの?相手に聞いても、言えない。教えられないと言う。
愛し合って、お互いを深く知ったのに、名も分からない。素性も分からない。では、いったい私の知ったのは誰なのか。何者なのか。
なぜなの?なぜ教えてくれないの?私は泣いて、取りすがって聞いた。
それでも、彼は教えてくれない。悪い。申し訳ない。許してくれ。そう言う。
どうしてなの?そう叫んだ。でも、無言しか返事がなかった。
何も信じられない。もう。二度とあの人を信じられない。
でも、私は何度も自分に言い聞かせた。彼も事情があるのだろう。何か事情が。
たぶん、言うに言われぬ問題があって、仕方なくそうしているのだ。いつかきっと言ってくれる。
「互いのことを忘れたら、楽だろうな」
彼はそうまで言った。そして、すまない。そう言い残して、ばたりと訪れが途絶えた。
すまないと言うばかりの人に、すまないと断られるほど、私は問題がある女だったのか。すまないと済まされてしまう者は、いったいどうしたらいいのだろう。
文も途絶えたから、せめて文だけでもと、私は侍女の花子に文を持たせて、相手へ使いにやったら
「姫様、近衛少将様は、言われた屋敷にはおられませんでした。家の者に聞いても、そんな者はいないと言っています」
と、さらに驚くべきことが分かった。
音信不通、身分詐称、何者か分からない。なんて、夢だろうか。
私の家は貴族で、はやくに両親を亡くし、近くに兄がいて、結婚して別宅に夫婦で暮らしている。
私は古い屋敷に残されて、やむなく家の当主になった形だ。弟なども結婚して、別宅に移っている。
家の者が昔から青い花を植えており、今は一面の群落になっており、桔梗の屋敷と呼ばれている。
あの方も、私のことを桔梗の姫と言った。
ここ数年、断続的に文が来て、ここ最近は頻繁に文が来た。
本来なら、家長である者が審査したり、家の内実を調べたりするだろうが、私が当主だったから、私が選んだ。実際の邸宅まで調べたりするのは、私はそこまで必要だと考えてなかった。
もともと由緒ある家なので、文を送ってくる相手は多数いた。だから、あえて調べずとも大丈夫だろうと、名のある貴族のそのうちの一人思って、一人を選んだのだ。
近衛少将なら当然、良家の息子と思った。着ているものも上等なもので・・・それが嘘なら、いったい何者なのか。
あの頃は、不審なそぶりはなかったか。温かな言葉の中で、冷たい毒を吐いてなかったか。
うかつ。失敗。見抜けなかった。騙しの王道だ。少しずつ近づいて、さらさらと器用にこなして、全てを奪っていく。
「どうします?姫様」
「行方知れずになったのなら、仕方がない。かくなる上は覚悟を決めるまで」
侍女の花子はまだ承服してない様子だったが、私は家の当主だ。き然として、動揺した素振りはしなかった。
(まずかった。最初、この人は大丈夫なのかと思った、あれが)
文はくれる間に、時折、我が家にあの方も姿を現すようになった。桔梗の咲く花の群落の間に、おずおずと出て来るその気弱な態度に、なんだか駄目そうな気がしていた。
「姫様、いったい何をするのです?」
きらりと引き抜いた刀身を眺める私を、背後から見て、花子は慌てた。深窓の姫君が銀色の刀身を抜いて、掲げているなんて、世にも怖ろしい光景だろう。
「かくなる上は、あいつをめった切って、死ぬのみ」
てっきり、覚悟を決めたと言ったから、諦めたのだと思ったのだろう。花子には真逆の予想だった。
「桔梗の君」
悔しくて刀を持って殺人しようと思っていたら、部屋に身分詐称男が現れた。
いるわけないと思ったが、一番いるわけがないところに来たわけだ。この世の何者でもない偽物の存在。そこにいるだけで違和感しかない。
何者だとて、観念のしどき。今日初めて殺人するけど、うまくやれるかしら。
「どうして、あなたは」
「許してくれ。言おうと思った。何度も言おうと思ったんだ。でも、本当のことを言うと、君に嫌われると思ったら、言えなくて、何度も迷ったんだ」
責められるべき男が、責める私に苦悶を訴える。私こそ、騙され、苦痛を味あわされ、苦痛を味わっているのに、なぜ、私より苦し気に文句を言えるのだろう。
また気弱におずおずと、気弱そうに出てくる。乱れる烏帽子も傾き、藍色の直衣も乱れている。私を見て、さらに気弱そうに目を反らす。そんなふうに、悪そうに詫びて見せても、誰が信用するだろうか。
「君を見捨てたりしない。私は君を傷つけるつもりはなかった。君のことを騙したわけじゃない。いや、結果的に騙したかもしれない。でも、君のことを愛していた。愛してたのは嘘じゃない」
「なぜ、何者か、教えてくれないの、なぜなの?」
「教えようと思った。でも、君のことが大事で、何より、大事で、だから言えなかった。私は、人を思うことの難しさを知った」
私は彼の直衣に取りすがって聞いた。
彼は青ざめた顔で、私を見る。
怖いほどの強い視線で、鬼に魅入られたかのように、黒い瞳の奥には隠れた思いが見え隠れしながら。
「何度も君を忘れようと思った。君のいない人生を歩もう。そうしたら、私は救われると。君も救われる。私が救われることは重要ではないが、私の罪が消えることこそが、君に重要なのだ。けれど、君のことを忘れられない。私は君のことを忘れられないから、困っている」
「もう、私とのことは辞めるということね?私のことは諦めるのね?」
彼はふと私の手を突き放す。
「そうせねばならなかっただろう。こうなるなら・・・でも」
私はもう彼とは終わりになるのだと覚悟した。もう、終わらねばならないのだと。確かに何か事情があるのだろう。そしてもう、彼は決意している。私と別れて、違う人生を歩むことを想像したなら、もう、追いかけたくない。もう、二度と取りすがりたくない。
けれど、彼は私の想像していることとは違うことを言った。
「でも、忘れられない。どうあがていも君のことを、忘れられない」
「こちらへ・・・」
殺気立つ私を、男はどこかに誘導する。何をする気か分からないが、もう言うことを聞く気はなかった。ただ、何を言うか、その言い訳ぐらいは聞いてもいいと思った。
「君に言うべきか、言わざるべきか。何度も迷って・・・」
「ここは・・・」
そこは、朝廷でも権勢を保つ有名な一族の家だった。
「私がこの家の息子だと言ったら、どうする?君の家の仇敵だと知ったら、君は受け入れてくれてくれたか?」
我が大伴家は、この藤原氏が仇敵だ。
藤原氏には謀反の疑いをかけられ、処罰や処刑をされた。
確かに、彼は多数の先祖の亡霊が付きまとう家柄だ。罰を受けて死んだ係留たちなら、恨んで憎んで、地獄の果てまで追っても気が済まないだろう。
彼の言うことが真実なのは、左京太夫とか呼ばれる彼の兄そうな人が、中へ入らないのか?と声をかけていったことで確認出来た。身なりからして、あれは嘘ではない。
「迷ったけど、言うよ、言わねばならない。私は、君に嫌われてももう言うしかない。君と別れられないなら、言わねば。これで真実を知って、私が嫌いになったなら、そう言ってくれ、そう言ってくれたら、助かる。私ももう、君には近づかない」
彼は覚悟の決意をした表情で言う。
「ごめん。君のことをずっと思っていて、それで黙って身分を伏せて、君に少しだけ触れたくて、少しだけと思ったんだ。でも、どうにも押さえきれなくなって、君に求愛した。けど、こんな事情で、とうてい私は君に合う人間ではないと思い、しばらく悩んだ。それで迷った。どう打ち明けたらいいのかと。どう言ったものか、どう説明すべきか。何度も迷って、連絡が遅れていたら、君の従者が来て、ニセの住所がバレたのだ。でも、どう言ったものか、方法が見つからなくて、すぐに君に会えなかった。だから、君に申し訳なくて」
本当に気にして、心から済まなく思っている表情だ。苦痛に討ち震え、後悔している。うつむいて、目に涙も溜めている。
おどおどして・・・どれほど、後悔したのだろう。気弱なこの人は、きっとたくさん後悔したに違いない。
「そんなこと、私は気にしない」
私は彼の愛を覚えている。確かに彼は私を愛していた。私はもうこの人のことを責めはしない。私を大事に思うからこそ悩んだ。己の思いを捨てようとしながら、捨てられなかった。
彼に愛されたことは決して間違いではなかっただろう。私も彼への愛がある。
「ほんとう?」
愛に溢れた目。やはり彼は私への愛に溢れている。温かな人だった。私を思いやる気持ちは、彼は一番大きい。彼の思いに私は包まれた。それ以外、ない。何があるだろう。
「でも、君は・・・」
「もう、昔のことよ。私も大伴家たって傍系で、ほとんど本流の大伴家とは関わりがない。多少の因縁はどの一家でもあるし、私は気にしない。でも、あなたは気にするの?」
「君が気にしないのなら、それで・・・」
彼は私を見つめ、抱き締める。
「私の身分だけでなく、本当の、本心の真実を言いたい。君には言わねばならない。君を思うことは難しい。君を思い続けるのも難しい。でも、忘れられない。だから、今、本当の、言うべきはずだった、真実を告げよう。君を愛している」
彼は私の手を取り、私は苦悶から開放されて、刀を落す。彼の体に包まれて私の刀身は、もう温かい鞘の中に収まる。私の中から憎しみの青い炎は消えていった。あるのは温かい明るい灯だけ。
彼は言う。もう二度と君を離さないと。
(終わり)