リリアのダンス
その足音へ誘われるように目を向ければ、回廊で一人踊っているリリアがいた。
着ているのは粗末なワンピース、花や扇子といった装飾品は手にしていない。何か音楽が流れているわけでもなく、あるのはリリアの足が刻む静かな足音とそれに合わせた衣擦れの音だけだ。だが、リリアのダンスはそんなもの必要ないと言わんばかりの美しさを放っている。アナベルはその動きに見惚れ、しばらくその場で動けなくなった。
音が、光が、この世の全てがリリアのために存在している。リリアの指が動けば日が差し、髪の毛に合わせて風が舞い、足元からは花が咲いてくるようだった。唐突に現れた異世界、全ての闇を消し去る光。別次元に招待されたかのような、そのダンスにアナベルは思考を放棄しリリアの一挙一動に目を見張る。
「あら、失礼。私ったらこんなところで踊ってしまって……」
踊りが一段落したのか、足を休めたリリアがそう口にしてアナベルに微笑みかけた。
はっと我に返ったアナベルはリリアを、死んだはずの公爵令嬢リリムの姿を纏ったその少女を思い切り睨みつける。怒りと嫌悪、妬ましさと疎ましさ。腹の底から湧き上がるどす黒い感情、しかし今しがた目にしたその踊りの美しさだけは認めざるをえなかった。ごくりと唾を飲み、自身の動揺を悟られまいとするアナベルはふんと鼻を鳴らす。
「ずいぶん踊りが上手じゃないの。大したものだわ、一体どこで覚えたのよ」
「いいえ、今のはただ気分に乗ってなんとなく踊ってしまっただけのものです。誰に習わずとも、リズムに乗ってしまえば無意識に足が動いてしまうものでしょう……だから自然と踊ってしまった、ただそれだけですよ」
リリアの言葉に、アナベルの中で何かがカッと込み上げてくる。
王城で教育を受けてもなお、アナベルのダンスは上手くならない。上手く踊ることができない。このままでは次期王太子妃はおろか、貴族令嬢としても不十分だ。もっと考えて足を動かせ、爪先まできちんと意識を集中させろ。踊りの教師に何度もそう怒鳴られ、その度にアナベルはやり直した。だがアナベルは一向に上手く踊れるようにならなかった。目を吊り上げ、自分を叱りつけるダンス教師の顔が頭に浮かぶ。
「あなた……私をこの王城へ呼び出した、王子様の婚約者なのですよね? そんな方に踊りを褒めていただくなんて、平民の私には恐れ多いことですわ。王家の一員ともなればダンスを披露する機会は多々あるはず。あなたはきっと、これから平民である私には想像もつかないくらい煌びやかなパーティーで華やかなダンスを踊るのでしょう……」
うっとり夢を見るように、胸の前で指を組んでみせるリリア。そのわざとらしさを感じさせるポーズに、アナベルの怒りは頂点に達した。
「っやっぱりアンタ、リリム・フネラルなんでしょう!? 私に蹴落とされたからって、逆恨みして寝首をかこうっていうんでしょ!? そんなの、そんなの絶対に許さないんだからっ……!」
言いながらアナベルは、リリアの方へつかつかと歩み寄る。激情のままに動き、可愛らしい顔を憤怒に歪めた表情は普段のアナベルからは考えられないようなものだった。しかし、それを見つめるリリアの表情はどこまでも涼しく美しい。
「いけませんわ、そのように音を立てて歩くなどみっともないことです。こんなところを誰かに見られたら……」
「黙れっ!」
ばしっ、と鈍い音が響き渡る。
アナベルがリリアの頬を平手打ちした。感情に任せ、力いっぱい叩いたせいかリリアの真っ白な左頬が赤く腫れあがる。その瞬間、アナベルの頭にほんの少しだけ後悔の念がよぎった。しかしリリアは自らがぶたれた事実を確認するかのように、淡々と自分の頬に手を添えると――自身の緑色の髪をかき上げ、片足でアナベルの足を薙ぎ払った。
「っが……!?」
突然の足払いに、為す術もなく倒れ込んだアナベルをリリアは冷たい目で見下ろしている。無様に転がる形となったアナベルを見るその視線は、恐ろしく静かで何の感情も抱いていないようだった。その事実がさらに、アナベルの屈辱を掻き立てる。
「アンタ……この私にこんなことして、ただで済むと思うんじゃないわよ……!」
アナベルは立ち上がり、再びリリアの顔を殴りつける。今度は加減をしない、明確な意思をもっての攻撃だった。その勢いの強さにリリアの上半身がぐらつくが、その反動を堪えると今度はアナベルに強烈な蹴りを食らわせた。裾の長いワンピースから現れたそれはアナベルの腹に直撃し、「ぐぇっ……!」と潰れたような呻き声を吐き出させる。
アナベルは我を忘れ、リリアに何度も何度も殴りかかった。公爵令嬢リリム・フネラル、厳しい王妃教育とそれに応えられない自分、そしてリリアという名の不穏分子。全てに怒り、激しい憎悪の念を抱き、ただ悪意の念だけを剝き出しにしたアナベルは何度もリリアの蹴りを食らった。
――そのうち、違和感を抱く。
アナベルはさして腕力があるわけではないが、何度も殴打すればいくらかリリアに傷を負わせることたできた。だがリリアはその美しい顔が打撃で歪み、ひしゃげても何度もアナベルを蹴とばしてくる。痛がる素振りも逃げようとする様子もない、繰り返しアナベルの拳を受け止めては彼女を蹴りその場に倒れさせた。殴った本人のアナベルはその痛みに、既に限界を感じ始めているというのに……
そこでアナベルは、自分の体がいつの間にか「リリアに蹴られては、立ち上がり彼女に危害を加える」という行為から抜け出せないことに気がついた。
既にアナベルの指は砕け、骨が見え始めている頃だった。耐えがたい激痛が全身を襲うのに、リリアへ襲い掛かるのを止められない。アナベルとリリアは共に傷だらけになり、そのままズタズタになっていく。
「あ゛っ……がっ……いだ、痛ぁいっ……! や、やめでぇっ……!」
皮膚が張り裂け、血がほとばしり、肉片の合間からは歯や骨が見え隠れしている。それはだんだんとエスカレートし、肋骨は折れ肺や心臓など重要な臓器にも損傷を与えるほどとなっていた。二人ともにいつ死んでもおかしくないほどの重傷、しかしアナベルは互いの血の海の中でそれでもリリアを害そうとしてはその反撃で蹴られるという行いを強制的に続けさせられている。
「あなたは私を蹴り落して、私の居場所を奪った。だから、蹴り殺されるのがお似合いでしょう」
なぜか明瞭に響いたリリアのその言葉を最後に、アナベルは激痛の中で意識を薄れさせていく。
痛みに耐えかね、もうろうとしてくる意識の中でアナベルが最後にアナベルが見たのは、自分を執拗に蹴りつるリリア――あるいは公爵令嬢リリム・フネラルの姿だった。