リリアとアナベル
学生時代のアナベルは、学園にいる「貴族令嬢」と違う女性を演じていれば良かった。何も知らない純真無垢な少女として振る舞い、男たちが彼女に頼られる喜びを覚えてしまえば後は早い。まして王太子として完璧を求められるイアンやその側近候補たちは、「朝露に濡れた薔薇」と謳われるリリムに引け目を感じているようだった。その劣等感を刺激しつつ、「私のような者が皆様に近づいては」などと嘯き芝居をすれば彼らは簡単にアナベルを守ってくれた。
だが、それが通用するのも「学生」という猶予期間の間だけであった。
「ほら、また足が動いてない! 一体、何回言えばわかるんですか!」
ダンス教師は目を吊り上げ、大声でアナベルを叱りつける。それにアナベルは小声で謝るが、何度踊っても思うような動きはできない。リリムの死後、アナベルに与えられた日々はその繰り返しだった。
平民風情が公爵令嬢を陥れた。そんな陰口を退けるため、またアナベル自身がさらなる高みを目指すためにアナベルはイアンの婚約者として王妃教育を受けることになった。だがそこで待っていたのは何もかもを完璧にこなしていたリリム・フラネルとの比較、そして「なんでこんな女が」という蔑みと失望。今までの「可哀想な少女」を演じていても、誰も同情してくれない。むしろ「甘えるな」と怒鳴られ、見下される一方。それまで学園で男たちに囲まれ、優雅な暮らしを享受していたアナベルにそれは耐えがたい屈辱だった。
リリムとアナベルでは比べ物にならない、アナベルにリリムほどの能力を求める方が間違っている。
それは王城に仕える教育係たちもよくわかっていた。ましてダンスはリリムと同等は愚か、並んで見劣りしないレベルの人間すらいるかどうか怪しい。だが、だからこそ彼らはリリムの後釜に座ったアナベルを許せなかった。リリムの才能を惜しむ気持ちと、自死に追いやられた悲劇への憐憫。それが重なればアナベルに対し印象が悪くなるのは当然のことだ。
ダンス教師の女は「もういい」と、半ば諦めたように授業を打ち切る。アナベルは頭を下げるが、ダンス教師はそれに溜め息で返した。リリムの聡明さに比べれば、上達が遅いのは仕方がない。しかしそれを差し引いても、アナベルはなかなかダンスが上手くならなかった。それを嫌というほど思い知らされたアナベルは、先日現れたリリアの存在を思い出し歯ぎしりをする。
アナベルはリリアを見た時、死んだリリムが生き返ったのかと思った。
しかし王城の侍女として働き始めたリリアは、今や誰にも疑われず「侍女として優秀との評価」を得ている。謙虚で真面目、面倒な仕事も嫌な顔一つせずテキパキこなすその姿はとても貴族令嬢のものだとは思えなかった。その噂を聞けば聞くほど、アナベルの胸には得体のしれない不安と理不尽な怒りが湧き上がる。
アナベルは自らの美貌と立ち回りで、リリムを蹴落とした。王太子の婚約者という、この国の女で一番の地位と名誉を手に入れた。だが、今はどうだろう。王城にいる人間は、非業の死を遂げた令嬢リリムの影に囚われアナベルへ白い目を向けている。アナベルがどれだけ足掻いても、自分が打ち負かしたはずのリリムに追いつくことができない。その矢先にリリム本人だとしか思えない、しかしアナベルと同じ平民であるリリアの登場――何もかもがアナベルの予想外で、彼女の心をざわつかせるに十分なものだった。
あの女は、公爵令嬢リリム・フネラルで間違いない。だが彼女はそれを上手く隠し、平民として完全に王城の侍女としてなじみつつある。せっかく、リリムという目障りな女を蹴落として次期王太子妃としてここまで上り詰めたのに一体どうしてこんなことに……と苛立ちを募らせながら、アナベルは王城の廊下を歩いていく。
――その時、アナベルの耳に軽やかなステップが聴こえてきた。