リリムとルシウス
公爵令嬢リリム・フネラル。
彼女を知る人は皆、口を揃えてこう言う――「不幸な少女だ」と。
リリムがそう言われるようになったのには理由がある。
いずれ嫁ぎ先となる王城では、厳しい王妃教育にたった一人で耐えなければならない。婚約者であるイアンは王太子という立場にも関わらず、平民の少女アナベルに現を抜かしリリムを蔑ろにしている。せめて「学生」として肩の荷を下ろせるはずの学園では、イアンとその取り巻きたちが一方的に彼女を罵り苛烈な攻撃を加えてくる……そうしてリリムの心を擦り減らし、死へと追いやっていった場所は他にもあった。
「何なのその目は!」
フネラル公爵夫人――亡くなったリリムの母に取って代わり、その地位に収まったルシウスの母はそう言ってリリムを鞭打った。その鋭い痛みにリリムは悲鳴を上げるが、夫人は手を休めることなく何度も何度もリリムを鞭打つ。その攻撃が、ようやく止んだかと思えば――遠巻きに見ていた侍女の一人に、掃除用のバケツへ水を汲んでくるよう命じた。
感情のまま、リリムを甚振る夫人に逆らったら何をされるかわからない。いつその矛先が自分に向かうかという恐怖に苛まれながら、侍女はバケツいっぱいの水を用意する。夫人はそれをひったくるように受け取ると、その中身をリリムに向けて勢いよく浴びせかける。痛みに蹲っていたリリムは、頭からそれを被ることになり一部始終を見ていた侍女が「ひっ」と悲鳴を上げた。
「それで少しはその気色が悪い緑色の髪も、洗い流すことができたでしょう! ほら、私に感謝しなさい! 『フネラル公爵夫人が継子である自分の汚れを洗い流してくれた』と! さぁ! さぁ! さぁ!!!」
押し黙るリリムに対し、夫人は高圧的に言い立てる。ここでリリムが何か言い返そうものなら、きっと更なる暴力を振るわれるだろう。それを察したリリムは涙ながらに感謝の言葉を述べる。すると夫人はリリムの哀れな姿に満足したのか、冷たい笑みを浮かべると適当な用事を言いつけ侍女と共にその場から立ち去っていった。彼女たちが姿を消すと同時に、リリムも耐えられなくなったのか部屋を飛び出す。
ずぶ濡れになったリリムが屋敷の中を歩いていても、声をかける者は誰もいない。夫人の癇癪もさることながら、フネラル公爵はリリムに対して無関心だ。それを諫めようとしたならば、一方的に解雇を言い渡される可能性もあることを屋敷内の人間は全員知っている。
俯きながら足早に、廊下を進むリリムだったが――
「どうなさったんですか、姉上」
唐突にかけられた声に、リリムがはっと顔を上げる。
そこには義弟であるルシウスがいた。リリムと一歳しか違わない腹違いの弟、王太子イアンに嫁ぐ予定の自分の代わりにフネラル公爵家を継ぐことになるであろう男。その彼が、美しい顔を心配そうな表情で染めている。
「そんなにずぶ濡れになって……一体どうしたんですか? まさか、僕の母上が……?」
ルシウスの穏やかな語り掛けに、リリムは「仕方ありませんわ」と顔を背ける。
「継子いじめだなんて、よく聞く話ですもの……まして私の、深緑色の髪の毛を気味悪がるのも珍しくありません。あなたという後継ぎができた以上、お父様も私のことなど気にも留めていないでしょうし……私にできることは公爵令嬢としての務めを、果たすのみですわ」
涙を指で拭い、背筋を伸ばしたリリムは凛とした声でそう答えその場を去ろうとする。
だが――そこでルシウスはリリムの腕を掴んだ。
「待ってください姉上。そのままでは風邪を引きますよ、早く着替えないと」
気遣わしげな言葉とは裏腹に、ルシウスは乱暴にリリムの身体を引き寄せ壁に押し付ける。目を見開くリリムに、ルシウスは美しい顔を近づけた。
「可哀想な姉上……僕の部屋に着替えを用意させておきます。だから、どうか僕の部屋で体も温めていってください」
ルシウスの指がそっと、リリムの頬に触れる。その手は舐めるように、リリムの首元から下へと下がっていった。硬直し、動けなくなってしまったリリムの耳元でルシウスが甘く囁く。
「僕と懇ろな関係にあるとなれば、屋敷の人間も母上も姉上を虐げることはできなくなるでしょう。悪い話ではないと思いませんか……?」
リリムの腰に手を回し、そのまま抱き寄せようとするルシウス。だがリリムは咄嗟にルシウスを突き飛ばし、その腕の中から逃れる。
「……軽はずみな真似はやめなさい、ルシウス。あなたは我がフネラル公爵家の嫡男、私は王太子であるイアン・ロード様の婚約者……その立場を弁え、常にそれ相応の振る舞いを心がけるようになさって」
濡れたままの髪をそのままに、それでも高位貴族としての佇まいを取り戻したリリムは毅然とそう言い放つ。
だが――それを見つめるルシウスの目は恐ろしいほどに冷めきっていた。踵を返し、素早く廊下から自室へと戻っていくリリムにルシウスは舌打ちをする。
その後、フネラル公爵家の屋敷でルシウスがリリムと話すことは二度となかった。
王立学園に入学したルシウスは先輩にあたるイアンにも人当たりよく接し、彼の「取り巻き」の一員に入ることに成功した。
男に媚びる以外に能のなかったアナベル、騎士としての強さしか誇れるものがなかったエドガー。知識だけで自分を優秀だと思い込もうとしているカインも、王太子の座に驕り高ぶるイアンもルシウスにとっては思い通りに動かせる相手だった。透き通るような白い肌に長い黒髪、その一部が深緑色に染まった美しくも不気味な少女。学園でも有名な才女で、何をやらせても完璧な可愛げのない女。イアンたちがそんな彼女を忌み嫌い、苛め抜くようになるのはルシウスの予想通りだった。
だからルシウスは、その様を静観したのだ。
義理の姉が生家であるフネラル公爵家では継母にいびられ、実父である公爵からも冷遇される。そうなると使用人たちも彼女を薄気味悪いと感じるようになり、ますますリリムの拠り所がなくなる。学園に行けば婚約者であるはずのイアンが自身の学友と平民の女を引き連れて、何かにつけて濡れ衣を着せられ糾弾される。味方となってくれる人間はどこにもいない、ただ理不尽な状況にも孤独に耐えるしかない……そうしてリリムが傷つけられ、心を擦り減らしていく様子を見るのは楽しかった。
どんなに気丈に振る舞っても、リリムを苦しめる環境は変わらない。どんなに美しく優秀であっても、その精神は確実に蝕まれている。
その果てにリリムが自害した時は、さして愉悦を感じることもなかったが……死したリリムに似た少女が次々と現れること、その度に「将来有望」と謳われていた令息たちが不可解な死を遂げていること。それには単純な興味と好奇心があった。
そんなルシウスがいる、フネラル公爵家の領地に――一人の少女が訪れていた。




