許された医師
「どうしましょう、先生……」
縋るような看護士の言葉に、医師は押し黙る。
北の療養所を管理する者として、ここで看護士を糾弾することは簡単だろう。
だがそうすると、自分の監督不行き届きも責められることになる。何より――イアンを吸い込み、水中へと絡めとっていった冷たい湖面を見ていたらただひたすら押し黙ることしかできなかった。ありえないほど不気味で、異常な事態に沈黙だけが帳を張る。
まるでこの療養所にいる全員が、悪魔に操られているようだった。
いつものように大声で、リリム・フネラルへの罵詈雑言を喚いていたイアンへ「外で走ってこい」などという適当な指示を出してしまった医師。除雪作業にリリィを連れ出したにも関わらず、その手を止めて彼女のダンスに魅入ってしまった看護士たち。療養所中の全員が示し合わせたように悪手を打ち、その果てにリリィとイアンが顔を合わせ最悪の事態を招いてしまった。防げたはずの過失、回避できるはずだった状況。それが現実として、ここに立ち塞がっている……一同、青い顔をして立ち尽くしているのはこの療養所の寒さのせいではないだろう。
その中で医師は現実逃避するかのように、漠然と国王陛下のことを思い起こす。
この療養所に送られたことが、父である国王の最後の慈悲であったことをイアンは死ぬまで理解できなかっただろう。
エドガーの父親は、息子が隣国王女に危害を加えようとしたという大罪を自害という形で責任を取った。だが、それは同時に「それ以上の責任を追及される前に逃げた」とも言えるのだ。次期王太子妃を輩出すると沸き立っていたのが嘘のように逃げ出した商家の夫婦、愚息が暴行犯扱いされたことに耐えられず精神を病み領地に引きこもったカインの両親。そんな彼らのことを考えれば、あくまで「病人」としてイアンを北の療養所に収容し問題を鎮静化させようとした国王の苦悩は計り知れないだろう。
(残された者たちの苦労も知らず、勝手なことを……)
そう言いたくなるのを飲み込み、医師はようやく看護士への指示を絞り出す。
「リリィ君は、どうしている」
「……一応、死亡確認はしましたがひどい状態です。全身打撲で、出血も激しく……とてもじゃないですが、遺族に見せられるものではありません」
「そうか……だがリリィ君は天涯孤独の身で、特に親しい知り合いもいないそうだ。だから……それがせめてもの救いだ……」
そこまで言って、医師は口を噤む。
患者の遺体を近親者へと引き渡す。それは医師として生きる以上、避けては通れない事態だ。どんなに覚悟を決めたつもりの人間でも、変わり果てた故人の姿を見れば自身の感情が制御できず取り乱してしまう。だから痛ましい最期を遂げた患者を、遺族に引き渡すのには精神的負担が伴う。
だが――医師はそれを利用して、この場を収める方法を思いついてしまった。
「……王子はリリィ君に懸想し、妙なことを考え始めたのかもしれないな……」
唐突な医師の言葉に、看護士たちは戸惑いの色を見せる。だが医師は冷たい空気の中、青白い顔をしながら話し続けた。
「二人は私たちの目を盗んで、恋仲になり今日は密会の約束をしていた。だが……その最中に事故か何かで、湖に転落したんだろう……そうだ、そういうことに違いない…」
血走った目で、無理やり決めつけるようにそう語る医師。看護士たちは震える声で医師に呼びかけるが、それ以上は何も言えなかった。
近しい人間が存在せず、物言わぬ躯となったリリィに反論することはできない。ならば、この不始末の責任を――医師の不注意も、看護士の不手際も、全てリリィ一人のせいにしてしまえば良いのだ。それは死者をの尊厳を踏みにじる行為であり、死したリリィの名誉を貶めるものだが……そうしなければ自分たちが破滅する、ということはこの療養所の人間全員が理解していた。
「俺には妹がいるんだ……」
看護士の一人が、不意に口を開く。
「妹は結婚が決まったばかりなんだ……実兄が問題を起こしたなんてことが知れれば、それが白紙になってしまう……」
「それなら、僕だって年老いた母が……」
「お、俺には妻が……」
口を揃えて、次々とそう言い始める看護士たち。その主張は皆、「今回のことが公になったら自分に近しい存在にも悪影響がある」という内容で一貫していた。だから医師の提案に同意する、という意思も含めて……その反応を確認した医師は、看護士たちにリリィの遺体を運ぶよう指示する。
冷たくなったリリィの亡骸は、既に硬直しかけていた。ずいぶんと重みを増したそれを、数人がかりでなんとか湖の傍まで運ぶ。皆、リリィから目を逸らす中で最後に医師がリリィの顔を見直した。開き切った瞳孔を確認すると、医師は「すまない」と呟きその瞼を閉じさせる。
「君はいい助手だった……本当に申し訳ない、許してくれ……」
そう言いながら、医師も看護士たちと共にリリィの死体を抱えると――慎重に氷の上に進み、イアンが沈んでいった湖の裂け目へ突き落とそうとする。
その時、リリィの髪の一部が医師の手に触れた。
「許しましょう。先生も、この北の療養所の皆さんも」
――リリィの髪が医師から離れ、冷たい水の中へ吸い込まれていく直前。医師の耳には、確かにリリィの声でそう聞こえた。




