リリィと看護士
イアンの「症状」――リリム・フネラルとその母親に対する罵詈雑言は留まるところを知らない。
看護士や医師はその度に、リリィの顔色を伺っていたが彼女は素知らぬ顔で仕事をこなしていた。医師の助手としての仕事だけではない、冷水で手があかぎれだらけになってしまうような清掃作業も、男でも嫌がる屋外での除雪作業もリリィは積極的にこなしてくれる。医師や看護師はそんなリリィを改めて再評価し、代わりにイアンにはますます白い目を向けるようになっていた。
「あの王子、今日も元婚約者は悪魔だったって騒いでたんだって?」
「『僕は王太子なんだぞ!』って威張り散らしていた頃はまだ大人しかったのにですね……」
「最近じゃ公爵令嬢だけでなくて、その母親まで罵ってるんだろ? どうせまた妄想を拗らせているんだろうけど、聞いてる方はいい気分しないよな」
イアンに対する不満は看護士同士の間で知らぬ間に、さざ波のように広がり療養所の中で広まっていく。
看護士たちが普段、相手にしているのは何を考えつくかわからない怪物のような存在だ。
真面目に接しようとすればこちらが疲弊する、下手を打てば自分がその狂気に飲み込まれてしまう。だから彼らは医師と同じかそれ以上に、患者との距離に気を遣っている。干渉や関りは最低限、放たれる言葉や理不尽な暴力は全て受け流さなければならない。厳しい仕事に見合うだけの給金――その中には高貴な身分の人間を取り扱うための、口止め料も加味されている――は支払われているが、それでも人手不足になっている側面は否定できなかった。
そんな中でふと、看護士の一人が「そういえばあの王子、療養所に来た時にリリィさんに殴りかかろうとしたんだって?」と尋ねる。
「リリィさんは先生に言われて、検査の準備を始めただけなのに王子がいきなり取り乱して……リリィさんが軽く躱せたからいいけれど、今は『リリィさんは絶対に王子と顔を合わせないように』って先生に言われてるんだろ?」
「あぁ。俺、その時先生に呼ばれたから覚えてますよ。リリィさんも気の毒ですよね、普段は優しくていい人なのに」
「あの人、『自分はまともな医学知識も経験もないが、何でもするから助手として雇ってほしい』って言ってこの北の療養所に来たんだよな。最初はなんでこんな美人が、って思って臨時で雇ってたけど、働かせてみれば仕事は早いし何をやらせても完璧で先生もかなり驚いたらしいぞ」
「今日なんて外に出て、雪かきを手伝いに行くって言ったんですよ。女の人には大変だから、俺が代わりに行くって言ってもどうしても聞かなくて……」
半ば呆れたようにそう話す看護士の一人は、大きめのシャベルを持ったリリィの姿を思い返す。
降り積もった雪が生み出す、白銀の世界。澄んだ空気の中でリリィはそれでも美しく、分厚いコートにシャベルという質素な装いがより一層その美貌を際立たせている。――そのリリィのあまりの美しさに、思わず見惚れてしまった看護士は気づいていなかった。
この厳しい寒さの中、外に出ているにも関わらずリリィの吐く息は全く白くなっていなかったことを。
◇
全身を突き刺すような寒さの中、イアンは看護士の監視を受けながらなんとか足を動かしている。
イアンは今日もリリムとその母親の罵詈雑言を叫んでいたが、今日は特に酷かった。空気が乾燥しているせいか唇が切れ、血も流れ始めたがそれでも彼は罵倒をやめようとしない。見かねて止めようとした男性看護士にも食って掛かり、ついには「リリィを出せ! あの女はリリムなんだ! 僕がこの手で、息の根を止めてやらないと気が済まない!」などと言い出したので医師は苛立ちを隠しながらイアンにこう命令した。
「それだけ叫ぶ元気があるなら、気晴らしに外でも走ってこい。ほどほどに疲れたら少しは『症状』も収まって、気が楽になるだろう」
それはいつまで経っても同じことを繰り返し叫ぶイアンに嫌気が差して、半ば匙を投げたような提案だった。
患者の健康維持のための運動は定期的に行っているが、今のイアンのように他者に対して攻撃的な妄想を持つ傾向が酷い場合は特例として再度運動させる機会を設けることにしている。それは「体力を使って疲れたなら、少しは妄想も収まって世話が楽になるだろう」という療養所側の事情が大きいのだが……加えて医師は、イアンの罵詈雑言がリリィに届くことも恐れていた。
リリィとリリム・フネラルが同一人物なんて馬鹿げた妄想を信じるつもりは毛頭ない。
だがもしリリィがこれを耳にし、イアンがリリィを直接攻撃するようなことがあれば事態はさらに拗れてしまう。既にリリィは優秀な人材として、この療養所では重宝されているのだ。何としてでもリリィの耳に、イアンの戯言を入れるわけにはいかない。それを防ぐためにはひとまずイアンを落ち着かせ、少しでも精神的な安定を計るべきだ。
そう考えた医師の指示によってイアンは、男性看護士の監視下で決められたコースを走らされることになったのだが――イアンにとってこれは、計画通りの流れだった。
「北の療養所」という、この国の中でも限られた場所にいる限りイアンもリリィも移動できる範囲には制限がある。その上リリィ、名前と髪型を変えたリリムはおそらくイアンを狙っているはずなのだ。だからリリムとその母親を挑発し、彼女の怒りをあえて刺激すれば……他の看護士や医師たちがどれだけ引き離そうとしても、絶対にリリィはイアンへの接触を試みるだろう。
加えて――今のイアンはあくまで「患者」という立場に甘んじている。
元は父である国王やこの北の療養所の人間たちが勝手にそう判断し、そういう存在として扱っていたならそれを利用しない手はない。もしイアンがリリィを手にかけることがあっても、それは「イアンの『病気』のせいだと言えば誰も反論できなくなる。ならば、自分はあえてリリムとその母親を罵り続けてリリィの方から仕掛けてくるのを待ってやる――そんなことを考えながらイアンは、全身を襲う寒さに抗いながら走り続ける。
乾いた肌は今にも張り裂けそうだ、硬直する体を看護士の指示通りに動かすイアンはそれでもルシウスのペンダントを首に着けている。
『もしイアン様の前にまたリリムそっくりの令嬢が現れたなら、このペンダントを見せてみてください。もしその女がリリムの関係者であるなら、何か反応を示すかもしれない』
ルシウスのその言葉を信じるなら、きっとこれもまたリリィの逆鱗に触れる材料となるだろう。もしリリィが取り乱し、自分がリリムであることを認めるようなことを言い出したら――その時がアナベルとカイン、エドガーの仇を取る時だ。凍てつくような空気の中、密かにどす黒い気持ちを膨らませるイアンはもはやリリムへの復讐だけで頭がいっぱいになっている。
――そんな風に、心の中で憎悪を滾らせているイアンの耳に誰かの歌声が聴こえてきた。
その声は弦楽器のような上品さとこちらを誘うような妖しさ、それでいて人を魅了する圧倒的な魅力があった。だが、それは同時にどこかで聞いたことがあるような気のする声で……先に動き出したのは、イアンの監視役としてついてきたはずの看護士だった。
「っおい! 待て!」
思わずイアンがその後を追いかけるが、その先にいた人間に思わずイアンは足を止める。
そこにいたのは他の看護士を観客代わりにして、雪の中で美しいダンスを踊るリリィだった。
厚いコートを着ているにも関わらず、優雅な動きはまるで高級ドレスを纏っているかのように錯覚させる。雪かきの休憩中だったのか、シャベルを適当な所に置いている他の看護士たちもリリィの美しい踊りに目を奪われていた。あまりに集中しすぎて、イアンと他の看護士が近づいてきたのにも気づかないほど……その渦中にいるリリィが、イアンの姿に気がつくとはたと動きを止める。
「……あら、お久しぶりですね。イアン元王太子」
その言葉でようやく看護士たちは我に返り、イアンとリリィを交互に見返す。
屋外の寒冷地ということで、ただでさえ耐え難い寒さの中。その場の空気がより一層、冷たいものになり――緊張感が走る中、リリィとイアンはお互いに睨み合っていた。




