元王太子イアン
北の療養所はこの国で最も寒い地域にあり、冬には湖が凍ることもある。
そのため路面の凍結や積雪など、「不幸な」馬車の事故によって療養所へ辿り着く前に命を落とす場合もあるのだが――イアンを乗せたその馬車は今のところ、何不自由なく順調に療養所への道を進んでいた。
イアンの護衛にあたる騎士は、馬車の中であるにも関わらず顔をすっぽりと覆う兜を身に着けている。対外的には「病気」とされているイアンから、未知の病が感染するのを防ぐためだ。それを忌々し気に睨みつけるイアンの両手には、囚人用の枷が掛けられている。馬車に乗る前、最後まで「僕は病気じゃない!」と叫び続けたイアンを連行するため周りに無理やり嵌められたものだ。もはや囚人の護送と変わらない自身の現状に、イアンは歯を食いしばる。
――思い出されるのは、死んでいった最愛の女性と最高の友人たちのことだ。
その可憐な姿で彼を魅了し、ありのままの自分を認め深い愛情と安らぎを教えてくれたアナベル。本人の努力と勤勉さであらゆる知識を吸収し、それを惜しみなく披露してくれる賢明なカイン。騎士団長の息子という立場から己も騎士となる道を選び、その卓越した剣の腕で「イアン・ロード」という一人の人間のために忠誠を捧げてくれたエドガー。
皆、王太子として将来が確約された自分を支えてくれた。そして、リリムの義弟も……リリムを排しても、次期フネラル公爵である彼に罪はない。そう考えていたイアンはアナベルを王妃にしたら、宰相はカインで騎士団長がエドガー、そしてリリムのいなくなったフネラル公爵家と手を取りこの国を治めるつもりだった。
それが、今はどうだろう、王太子という絶対的な立場を取り上げられた彼は今、病人扱いされ馬車に揺られている。愛しのアナベル、親友であるカインとエドガー。大切な人間を三人も失ったイアンは、こうして北の療養所へと運ばれている。リリムの義弟がどうしているのかはわからない、自分の代わりに王位を継ぐという新たな王子のことも全く知らない。もちろん、今この状況に至るまでイアンたちを追い詰めたリリムらしき令嬢たちの正体も不明のままだ。
ただ確かなのは、自身が辿るはずだった輝かしい未来が奪われたことだけ……冷え切った外気に、吐息は白くなり身体の芯まで締め付けられるような痛みが襲ってくる。
「全部……全部、リリムのせいだ……」
思わず零れ出た呟きに、同行の騎士が兜の下から氷より冷たい視線をイアンに向ける。だが、かつての王太子がその目に気づくことはないだろう。それを悟ることができたならイアンは「王太子」という立場を追われることはなかったし、リリムを自死に追いやることもきっとしなかったはずだ。
全てはイアンの行いによって引き起こされたものであるが、それが理解できればそもそもこんなことは起きなかった――皮肉な事実に、イアンは最後まで気づくことができなかった。
◇
北の療養所は外壁も内装も立派なもので、高い塀と頑丈な鍵がなければどこかの高位貴族の屋敷に見えるだろう。馬車から連れ出され、乱暴に療養所の門を潜らされたイアンは恨みがましくそれを睨みつける。
「ようこそ、イアン・ロード王子。この療養所では私の指示に従い……」
「っ黙れ! 僕は王太子だ、気安く名前を呼ぶんじゃない!
噛みつくようなイアンの態度に、中年の男性医師は溜め息をつく。「診察室」と銘打たれた部屋で、ゆったりと腰かけている彼の眼差しには驚きも蔑みも籠っていない。ありふれた日常の光景、いつも通りのよくある出来事。慣れ切った事象への倦怠感を滲ませつつ、医師は淡々とイアンの「診断書」を確認する。
「激しい妄想と、それを起因とする他者への攻撃行為……この療養所に送られる患者としては、実にありがちな『症状』だ。専用の個室に定期的な運動、それから作業療法も実施している。とにかく、私の指示に従い大人しく『治療』に専念することだ」
それだけ言うと、医師はまだ何か言おうとするイアンに白け切った目を向ける。
この療養所に送られる「患者」は皆、イアンのように自分は異常ではないと訴える。だが、それを言ったところで信じる者は誰もいないのだ。それぐらい重症――もとい、そう見える人間だからこそここにいる。その現実を突きつけられ、そこでようやくイアンは押し黙る。
――北の療養所は高位貴族のみが収容される、特別施設。代わりの王子は既にいる、だから王太子でなくなったイアンは何も考えずにここで闘病生活を続けていれば良い。
自らが失った立場を改めて思い知らされていたイアンに、近づく者がいる。医師と同じく、白衣を着た彼女は――しっかり編み込み、纏めた髪の一部が深緑色に染まっていた。




