音楽家の悲鳴
「……儂は遠方からここまで出向いてきて、たった一回リハーサルを終えたばかりなのだぞ。急な日程変更は困る。楽器のメンテナンスも終わっていないし、体調も万全ではない……」
音楽家は狼狽えつつ、遠回しに反論の言葉を口にする。だが国王の命令を預かってきたらしい、年配の大臣も必死だ。それでもなんとか断ろうとする音楽家の前に、次々と他の大臣や文官、侍女たちが現れ懇願の言葉を口にしていく。
こうなっては、もはや演奏をしないわけにはいかない。何かと厚遇されてはいるが彼はあくまで「音楽家」としてこの城に招かれているのだ。隣国王女の急な予定変更、そして設けられた「今晩」という期限。理不尽ではあるが、確実に選択肢を削っていくこの状況に音楽家は言い返すことができなかった。
「……全力で臨むが、万全の状態とは言い難い……完璧な演奏はできないが、音楽家としての『仕事』は全うすると国王陛下に伝えてくれ……」
老齢の体に鞭打ち、苦い顔でそう答える音楽家。イアンとエドガーは目を丸くした後、共に顔を見合わせるが他の大臣や侍女たちはそれどころではない。音楽家へ感謝の言葉を伝えた彼らは大急ぎで、国王への報告と演奏会の準備を始める。その様子を見ながら、音楽家は苦い顔で溜め息をついた。
リリンとリリムに深入りしてはいけない。彼女たちは何か凄まじい力――自分たちを害する者に対し、想像を超えた「復讐」をする能力を持っている。
つまりリリムと、リリムと思しき少女たちに悪意を向ければそれは必ず自分自身に返ってくるのだ……だから音楽家は、イアンとエドガーに「彼女の機嫌を損ねるようなことをやってはならない」と忠告した。その矢先に決まった、不自然かつ急な演奏会の決行。リリムが自らの秘密を口外されることを恐れ、口封じのために自分を葬るつもりなのではないか。音楽家がそう考えてしまうのも、仕方のないことだった。
「若い二人を相手に、時間を取らせてしまったな。だが今宵の、儂の演奏にはよく耳を傾けてほしい……これは儂の、最後の演奏会になるかもしれない」
音楽家の言葉に、イアンは息を飲む。だがエドガーはそんな二人に食ってかかった。
「何を弱気になっている! その、リリンとリリムが同じ女だったとしても俺は絶対に諦めない! 騎士の誇りにかけて、絶対にアナベルとカインの仇を取ってみせる! この後の演奏会だって心配しなくていい、俺は絶対にあのリリエとかいう女騎士を追い返してやるからな!」
息巻くエドガーに、イアンはほんの少し安堵の表情を見せたが――音楽家は実に冷めた目で、それを眺めている。
「若さは素晴らしい」「若いことが羨ましい」。それは歳を重ねるにつれ、少しずつ意味のわかる含蓄がある言葉だ。
だが若者がそうやって、自由気ままに夢や希望を見出せるのは彼らが未熟で無知であるからだ。本当に恐ろしいものをまだ知らない、どう足掻いても敵わない相手がいることを想像できない……音楽家の目に映るイアンとエドガーは、まさにそんな若者の一員だった。
(……リリム嬢……今は名前が変わっているかもしれないが……彼女の怒りが儂一人で、収まることになるのだろうか……)
急ぎ、演奏会の準備に向かいながらも音楽家の胸には不安が広がっているのだった。
「この度はこちらの日程変更に対応してくださり、誠にありがとうございます。ですが、私どもも高名な音楽家にお会いできるのを楽しみにしておりまして……」
にこやかに微笑む隣国王女に、音楽家も頭を下げる。彼はリリエの、リリムそっくりの姿をした女騎士を目にした時点で既に状況を把握していた。
リリンは、リリムは、またこうしてこの国の人間の前に舞い戻り誰かしらに復讐しようとしている……それを確信した音楽家は覚悟を決め、早急に演奏の準備を始める。予定では鍵盤楽器や大型の打楽器も用いた大掛かりな演奏をするつもりだったが、今回は夜会で時間もない。音楽家は愛用の弦楽器の中から低音ベースのものを手に取り、まずは体中が震えるほどの重厚感あるメロディーを奏でる。何か強大な力を持った存在が現れる時のようなその調べは、奇しくもリリエというリリムそっくりの美少女を迎え入れたこの現状に合致していた。誰もが音楽に合わせ、息を飲む中――エドガーだけが密かに闘志を燃やしている。
自分は騎士として、人々を守るために剣の道を極めてきた。強い忠誠心と騎士としてのプライドは間違いなく本物であり、それを裏付けるだけの剣の腕にも恵まれている。そんな自分が、あんな音楽家の与太話で怯えているわけにはいかない。自分はこの磨きぬいた剣をもってしてこの国の人々を、王太子であり自分の友人であるイアンを守る義務がある。アナベルとカインの仇をとるのだって、自分にしかできない。とにかくエドガーは、自らの剣の腕で正義を執行すべきだと考えていた。
何かしようとしたら、必ず俺がこの剣で斬り捨ててやる。
そう決心し、リリエの方を力強く睨みつけるエドガー。しかし肝心のリリエはエドガーの視線を受け流し、のんびりと音楽家の演奏を楽しんでいるように見える。音楽家はそんな緊迫した状況の中で、懸命に演奏を続けていた。楽器を変え、曲目を変え。音楽家の腕から流れ出る何千もの音色は、国や身分に関わらず人々を魅了していく。それはリリエを召し抱えている、隣国王女も同じことだった。
「本当に、素晴らしい演奏でした。もはや何と言い表せば良いのか、わからないぐらいに……私も、私に仕えて今日ここに来てくれた騎士たちも皆、同じ思いです。そうでしょう? リリエ」
ただただ感嘆の溜め息を漏らしながら、隣国王女はリリエに同意を求める。彼女の発言を許可したということなのだろう、リリエは「恐れ入ります」と頷きながら言葉を続ける。
「このように美しい音楽に、もはや言葉は不要……いえ、『邪魔だ』とさえ言うべきでしょう。自分が知っていること、思ったことを何でもペラペラ喋ってしまうことは良いことではありません。むしろ多くを語りすぎればかえって余計なことを口にしてしまい、誰かを傷つけることさえあるのです。言葉なんてものを使わずとも、音楽で物事を語ることができるのならそれが一番の手段でしょう……」
言い含めるようなリリエの口調に、楽器を握る音楽家の手が強張っていく。
音楽家が、リリンとリリムの話をしたこと。さらに彼女たちの正体を、自分なりに考察し言及してしまったこと。それら全てを見透かされ、口にしているようにしか思えなかった。リリエが静かに一歩、踏み出すのを見て音楽家は小さな悲鳴を上げる。
リリエはそんな音楽家を前に、優雅に微笑むと――自分の腰に差した剣を、そっと地面に置いた。




