平民のリリア
「ですから、申し上げた通りです。私の名前はリリア。平民なので苗字はございません。リリム・フネラル様とおっしゃいましたか、そのような方のお名前などたった今初めて知りました。そもそもこうやって王城にお招きされること自体、まるで夢でも見ているかのような気分なのです。公爵令嬢さまのことなんて、知る由がないでしょう……」
そう告げるリリアの目は、黒曜石のような輝きを放っている。
くっきりした顔立ちに、影を落とすような長い黒髪――だがその一部は湿原のような、深い緑色に染まっている。その髪を指さし、「嘘をつくな!」と大声で叫んだのはこの国の王太子であるイアン・ロードだった。
「その姿! その立ち居振る舞い! 他人の空似で済まされるものか! お前は自分の死を偽装し、僕たちに復讐をする機会を狙っているのだろう! だが、そんな戯言は通用しないぞ。お前の、その緑色の髪は絶対にごまかしようがないのだからな!」
そう力強く告げるイアンは金色の髪に青空のような瞳が印象的な、凛々しい顔立ちをしていた。世間的に言えば十分「美男子」と言われるであろうその姿は、社交界でも注目の的だった。
だが、この場にいる美男子は何も彼だけでない。
騎士団長令息、次期宰相候補、フラネル公爵家嫡男。女性たちの夢と欲望を詰め込んだような、美丈夫だけを集めたその中に一人だけうつむいている少女がいる。か弱そうな見た目の彼女は平民出身であるが、その身に纏っているのは高位貴族でないと入手できないであろう華美な装飾を施されたドレスで……賢い者ならその恰好だけで、この少女とそれを取り巻く美青年たちの不自然さに気がつくだろう。
もっとも、その集団はこの国ではもはや見慣れたものであり……奇しくも生前のリリムを断罪し、間接的に死へと追いやった面々と同じ顔ぶれでもあった。
そんな彼らを前にする、リリムによく似た少女――リリアはそんな彼らに一歩も引く気配を見せない。その美しい顔を困ったように歪め、たった今指摘された緑色の髪をそっと撫でる。
「この髪ですか? この髪は幼い時、湿地の沼で溺れかけてから自然とこうなったものです。そのリリム様とおっしゃる方も同じような髪色をしていたなんて、ちっとも知りませんでした……珍しいことですが、ただの偶然でしょう。ですからどうか、そうお怒りにならないでください。ただでさえ私は貧しく、給仕の仕事でやっと食いつないでいるような状態なのです。偉いお貴族さま方に関わることなどないので、どうか早く私を解放してください……」
リリアが話したその言葉は全て、事実である。
「リリム・フラネルによく似た美少女が現れた」と聞いたイアンは、すぐ王家の影たちに命令してその近辺を調べさせた。リリアは貧しい平民の少女で、決して高級ではない店の給仕として働いている。周りには「孤児なので身寄りがない」と説明しているらしく、彼女が住んでいる集合住宅もまた狭く小さな町の一角にあった。
「物置小屋の一室でもいいから、とにかく住む場所を与えてほしい」
「どんな時間でも働くから、少しの間だけでも雇ってほしい」
入居者を決める管理人と、勤め先の店主にそう懇願してみせた時の彼女はしおらしく涙を流していたという。その様子に何か訳ありだと感じた両者は、ひとまず適当な部屋や仕事を割り振って彼女の様子を観察していた。しかしリリアは素行が良く、特にその美貌ゆえに男性客を集めるため今では看板娘として重宝しているのだという。
だが――そんなリリアが降って湧いたように現れたのはいずれも、リリム・フラネルの自死が確認されたその次の日のことだ。飛び降り、臓器と共に大量の血を流したその遺体は確かにリリム本人のものであると、王城の医師やフラネル公爵家全員が認めている。
リリム・フラネルは確かに死んだ。偽装や陰謀などありえない、あるはずがない。確かにその令嬢は死に、人々はそれを嘆き悲しんだのだ。だが「偶然の一致」で済ませるには、一連の出来事が整いすぎている。現れたタイミング、この世に二人といない美貌、そして何よりイアンも言及した緑色の髪……死したリリム・フラネルが舞い戻り、リリアを名乗っている。そう思わざるをえないほど、彼女の姿はリリムと同じそれなのだ。人の心を狂わせるような、ぞっとするほどの美しさ。その異様な雰囲気に飲まれそうになりながらも、イアンは懸命に声を張り上げる。
「ならば、今日からお前を王城の侍女の一人として雇ってやろう。住み込みで働けるよう、部屋や食事だって用意してやる。……僕がこの目で、しっかり見張ってやるから覚悟しておくといい」
イアンの提案に、その場にいた全員が驚愕の表情を浮かべる。
自分たちがリリム・フネラルという人間を死に至らしめるまで追い詰めたこと。それが決して褒められた行為でない、他人から恨みを買うようなことであるぐらい彼らにもよくわかっている。特にイアンは、形だけとはいえリリムの婚約者であったのだ。本来なら一番責められるべき立場であり、実際リリムが死したその日に国王夫妻から激しく叱責を受けたのだが……最終的に下されたのは謹慎処分で、幽閉や廃嫡といった厳罰は免れることとなった。それもフネラル公爵家から「イアン王子が国王になるべきという事実は変わりない」「勝手に精神を病んだ娘が悪いのだから、気にしなくていい」という口添えがあってのことである。
もしリリムが生きていて、何らかの方法で自分やフネラル公爵家に復讐する機会を窺っているのであれば……そう考えると、イアンの背中に冷たい汗が流れる。そんな彼を前に、リリアを名乗る平民の少女は涼しい顔で答えてみせた。
「平民の私が王城で働くなど、恐れ多いことですが王太子様が雇ってくださるのであれば喜んで……至らぬところも多々あるでしょうが、どうかよろしくお願いいたします」
しずしずと頭を下げるリリアに、緊張した面持ちのイアン。それを見守る周囲は恐怖と驚愕、そして不安に駆られてただオロオロとすることしかできない。
だが床を見て、ぎゅっと拳を握りしめている少女・アナベルだけは違った。
元平民から次期王太子妃まで上り詰めた彼女は、普段は「妖精のように可憐で美しい」と称されるその顔を醜く歪めている。焦燥と不安、そして憤怒に駆られたその表情を、周囲に悟られまいと亜麻色の長い髪で必死に覆い隠していたのだった。