音楽家とリリン
伝説的な音楽家とあって、リハーサルの演奏でもその腕前は素晴らしいものであった。
「あの高名な音楽家が演奏するらしい」と聞いて現場まで見物に来た者。音楽家が来ると聞いてはいたものの、他の仕事があって手が離せなかった者。事情を知らずにたまたま、その場を通りがかっただけの者。――しかし、その音色を耳にした者は誰もが音楽家の奏でる調べに耳を奪われた。
多種多様な音色は聴く者の意識を絡めとり、別世界へと誘う。鍵盤楽器による軽やかな旋律、弦楽器の脳を射貫くような高音。リズミカルな打楽器は全身の血を滾らせるような情熱も、居ても立っても居られないほどの焦燥感も煽ってくる。もはや音の届く範囲の人間全てが、音楽家に支配されているようだった。
音楽家の演奏が一通り終わると、一瞬の静寂が訪れる。聴衆――気づけば彼らは全員、手を止めただ音楽家の演奏に集中するただの観客になっていた――は演奏の余韻に浸ったまますぐには動けずにいたが、はっと我に返ると示し合わせたように惜しみない拍手を贈る。
「素晴らしい」「さすが」「見事だ」……彼の音楽に魅了された人々は様々な賛辞を口にするが、音楽家はそれを聞いても顔色一つ変えない。そこには自分の才能を鼻にかけた傲慢さも、嫌味にすら聞こえる謙虚さも存在しなかった。ただ自分がいかに他者を感動させることができるか、いかに他者の心を揺さぶるかを正確に把握してそれを披露している……驕りも謙遜もないその様は、リリムが「王太子の婚約者」としてイアンの側にいた頃のようだった。
――次期王太子としてリリムを同伴し、パーティー等に参加すると彼女と共にダンスを踊ることがあった。
互いに手を取り、足並みを揃えて踊る。ただそれだけの時間が、イアンにとっては堪えようのない苦痛と不安を煽るものだった。向かい合えば、否が応でもリリムの美貌と不気味さに接することとなる。否が応でも、リリムの人智を超えたダンスに合わせなければいけなくなる。そうするとイアンは、リリムの黒曜石のような瞳によって自身の価値を推し量られているように感じるのだった。
加えて、踊っていればリリムの長い髪が――あの深緑色の髪が自分に触れることもある。イアンはその度に、「この深緑色の髪が自分に纏わりつき、そのまま絡めとってしまうのではないか」と想像をしていた。だが目の前にいるリリムはいつも、ぞっとするほど美しい笑みを浮かべていて……その余裕のある態度がまた、「王太子イアン・ロード」という存在を見下し、嘲り、辱めているようでイアンの神経を逆撫でするのだった。
苦々しい記憶を掘り起こしながら、イアンはまた音楽家の様子を伺う。自身の才能を最大限活用し、その結果が素晴らしい芸術を生み出すと信じて疑わない姿。そして、その事実を裏付けするだけの実績と実力。それを正確に把握しているからこその、堂々とした振る舞い。全てがリリムに通じるものであり、イアンには苛立たしさを感じさせるものだった。
だが音楽家はそんなイアンの心情に気がついていないのか、適当にリハーサルを終えるとイアンの方へと近づいてくる。
「――さて、待たせたな。若き王子よ……それからリリム・フネラルに関係のある方が王城にいるなら、その方もできれば連れてきてほしい。年寄りの昔話だが……これは一応、『忠告』だ。少しでも聞いてくれるつもりがあるのなら、時間と場所を取ってほしい」
音楽家の真っ直ぐな眼光に、イアンは少しだけ尻込みする。だが――それ以上に「一体、この老いぼれが何を言うつもりなのか」の方が気になった。
「……かしこまりました。……リリムの弟は自分の領地に戻っていますが、他にもエドガーという騎士がリリムと関わることが多かったので……その者も、同席してよろしいでしょうか?」
音楽家がイアンの提案に頷くと、イアンは急いで王城の一室を手配しエドガーにも連絡を取る。
エドガーは「たかだか音楽家風情と何を話すってんだ?」などと話していたがリリムに関わる情報が得られるかもしれないと聞くとすぐに音楽家が待機している客間へと向かい――あっという間に音楽家とイアン、エドガーが向かい合って会話することとなった。
「それで、お前はリリム・フネラルについて何を知っている?」
音楽家が適当な理由をつけて人払いし、三人だけでテーブルを囲むことになった直後。何の前触れもなく不躾な問いかけをしたエドガーを、イアンが制止しようとする。だが音楽家はそれを気にした様子もなく、二人の若者をじっと見据えた後――声を落として、こう告げる。
「何やらリリム・フネラル公爵令嬢に関わる話で何かと騒動を起こしていると聞いているが……はっきり言っておく。あまり彼女に、深入りしないほうがいい」
思いもよらない音楽家の発言に、イアンとエドガーは目を丸くする。だが音楽家は畳みかけるように、言葉を重ねる。
「良いか、若き王子と若き騎士よ。どんな名曲も、どんな駄作も必ずその音を鳴らす者がいる。なぜならどんな楽器は触れなければ、決して音が鳴ることはないのだから。美しい調べも耳をつんざくような騒音も、それを奏でる誰かが存在するのだ。つまり誰が音を鳴らすかによって、どんな音が聴こえるかも変わるということだ。だから……」
「ま、待ってください、一体、何を言って……」
困惑しながら口を挟んでくるイアンに、音楽家は真剣な眼差しで言い切る。
「リリム・フネラル公爵令嬢を害し、悪意を持って接することはしない方がいい。彼女は何か持っている。儂は……儂はまだ五歳にもならない時に、彼女そっくりの顔をした『リリン』という名の女性に出会ったことがあるのだ」