リリカとカイン
リリカの踊りは、カインの胸にあった全ての感情を吹き飛ばす。
ダンス教師への身勝手な不満、踊り子であるリリカへの不信感。リリムに関わる全ての女たちに対する、恐怖や苛立ち。どれもカインの胸に深く刻み込まれ、決して消えることのないと思っていたのに今この時だけは何もかも忘れてしまう。リリカのダンスはそれほど美しく、あれだけリリカに警戒心を抱いていたカインが何も言えずぼうっと見惚れてしまうほどだった。
「字は読めずとも、絵や図があれば踊りを学ぶことができるものですよ……」
踊り終えたリリカが諭すように、そう告げればカインはようやく我に返る。
「っこんな、書庫でいきなり踊り出すなんて非常識ですよ……それに、勝手に王城の蔵書を読むのも……」
「あら、それは失礼しました。ですが私、やはり文字は読めませんので……ご安心ください、私のような一介の踊り子が何を見たってその内容はわかりはしませんよ」
「……そういう問題じゃないでしょう」
口ぶりだけは自嘲しているリリカに、カインの中で何かが膨らんでいく。
「リリカさん……あなたが本当に文字を読めない証拠なんてどこにもないでしょう? そうやって私たちを欺いて、一体何を考えているのです? 何を、企んでいるのですか?」
「企むだなんて、そんな……私、あなたのように頭の良い人間ではありませんので。本当に文字の読み書きなんてできないのですよ? だいたい言葉なんて、コミュニケーションに使う道具の一つに過ぎないのですから。他にものを伝える方法はいくらでもあるし、仮に文字が読めたところで私のような人間には大して意味がないものですよ」
あくまで謙遜したようにそう語るリリカの言葉。淡々とした、意味のない世間話。しかし――その軽さがかえってカインの心に火を点ける。
公爵令嬢としてのリリム・フネラルは、学園での成績も良かった。
首位こそカインが独占していたが、成績上位者のリストには必ず彼女の名前があった。加えて王妃教育や茶会・社交術のマナーなど、令嬢のみが学ぶ分野があることもを考えればリリムは相当に地頭が良かったのだろう。
だが、カインはそんなリリムがどうにも気が食わなかった。
知識の量だけならカインはリリムに勝っているが、リリムはカインと違い自らの知識を有効に利用することができる。例えば何か食料問題が起こってその解決策を考えなければならない時、カインは前例をを元にして先人たちの轍を踏むことしかできない。逆に言えば前例にないことはやろうとすら思わないのだが、リリムは一見関係ないように見える諸外国との関係性や一般人の生活などを鑑みた上で「こうしたらどうか」と新しい提案を行うことができる。いずれも努力して膨大な知識を身に着けることが必要であるが、「ただ詰め込むだけのカイン」と「頭に入れた知識を総合的に見てそれを組み合わせることのできるリリム」には雲泥の差があった。
そうやってリリムに少なからずコンプレックスを抱いている時にアナベルと出会ったカインは、おそらく「アナベルの取り巻き」の中で一番心を奪われるのが早かった。
アナベルは国を預かる貴族として本当に必要な能力や、カインの欠点に目を向けることなくただ「カインが一生懸命に勉強している」という努力だけを評価し「私にも教えてくださいませんか?」などと甘えることにも長けていた。
もともと男性としての自信に欠けたカインだ、美しい容姿のアナベルに言い寄られて悪い気がするわけがない。カインの勤勉さを純粋に、真っ直ぐと褒めてくれる、そうして心を徐々に浸食されていけば、「リリムだって普通に嫉妬しライバルの女を攻撃する、つまらない女にすぎない」「可愛いアナベルを守るためなら、リリムがアナベルを虐めたという偽の証拠を作ることぐらいお安い御用だ」と考えるようになっていた。
そうして、持ち前の知識量をアナベルのためだけに活かしリリムの虐めの証拠を捏造することに成功したカインだが……今、自分の前にいるリリカはそれを知っているのではないか。知っていて自分に復讐するために、わざわざ無知な踊り子を成りすまして今ここにいるのではないか。そう、考え始めるとカインの中でそれは疑いようのない事実のような気がして――気が付くとカインは、乱暴にリリカの肩へと掴みかかっていた。