悪役令嬢(仮)×婚約破棄×復讐
黒猫を抱いて、ヴェンツェル公が一子、ミリアムは微笑んでいた。
金の瞳の黒猫に甘い声で歌まで歌って聞かせている。
──薔薇は赤く、菫は青い。お砂糖は甘くて、あなたはすてき。
ミリアムが呟いた一節は古い童謡だ。子ども部屋の歌。母親が子どもをあやすために口遊む歌。
少し低めの、柔らかな声。
その声が時に毒を含んで甘くなることを、リンデは知っていた。
リンデの足下には、ミリアムの真なる従僕である機構犬が二匹──というべきか、二体というべきか──うろついている。黒金の機体をエボニー、黒銀の機体をアイボリー。そう呼んでいた。リンデは到底名前を呼んでみる気にはなれない。触れるなどまっぴら御免だ。この機構犬は、警備の為に造られたもの、といえば聞こえは良いが、つまりは殺傷能力があり、武器が搭載されている。ミリアムが一声掛ければ、この二つの血腥いものはリンデを八つ裂きするだろう。
ひく、と息を呑み、固まってしまったリンデを、エドヴァルド王太子が抱き寄せる。本来なら甘い抱擁となるはずだが、リンデは機構犬から目が逸らせずにいた。リンデの橙の瞳を、細く大きな手で、王太子は覆い隠す。
「リンデ、君に見つめて貰えないのは、寂しい」
甘やかな、少しだけ拗ねた少年の声を混ぜた、遊びの声に、リンデは漸くぎこちなくではあるが、微笑み、エドヴァルドと見つめ合った。
「君が最も気に掛けるべきは君自身と僕だ。
そして今対峙しているのは、ミリアム公爵令嬢。彼女の犬や猫などではないよ。……全く、趣味が悪い」
エドヴァルドは眉間に皺を寄せ、あからさまに侮蔑と忌避を浮かべる。
「金の瞳の黒猫など……全く」
金の瞳の黒猫が毛嫌いされる理由は、猫には関係がない身勝手な人間の戦争によるものだった。
この国──エギュレス王国だけでない。近隣諸国もまた、その罪を許せず、戦ったのだ。罪を背負う悪魔の如き人間達は、世にも珍しい金の瞳と黒く艶やかな髪をしていた。そんなものは滅ぼされて、この世にいなくなってしまったけれど、似た見目として黒猫が残ってしまった。運の尽き。黒猫は各地で血祭りに上げられた。悪魔の使い魔として。
「あら、殿下。命というものは重いものです。金目の黒猫も可愛いものですわ。ねぇ、ノワール」
「……『黒鉄令嬢』は黒いものであれば悪魔さえ愛すると?」
「殿下はわたくしをご存じないのですね。黒いから好いているわけではございませんけれど、黒は好きですわ。わたくしのドレスは全て黒ですし。でも今日は金糸と緋糸のレースなどあしらっておりますわね。少々仰々しいかしら」
微妙に噛み合わない会話に、エドヴァルドはあからさまに眉を寄せた。
黒鉄令嬢、とミリアムが呼ばれるのは、その衣装が基本的に黒であること、そして──機械工学に並々ならぬ関心を寄せているからだ。
黒を愛し、鉄金を取り扱う令嬢──黒鉄令嬢ミリアム。
金の巻き毛を結い上げた髪を一筋も揺らさず、ミリアムは翠の目をきゅうと細めた。ノワールという黒猫も同じように、白々と目を細めている。
「存じておりますわ。殿下、わたくしとの婚約を破棄しようと仰るのでしょう?」
「そうだ。……ミリアム公爵令嬢。貴女には大変申し訳ないが、私はこちらの…リンデ、ジークリンデ・フィッシャー男爵令嬢との真実の愛に身を捧げたい」
「真実の愛……うふふ、素敵ですわね。砂糖菓子のよう。ですが、殿下。残念ながら、わたくしがここで了承いたしましても、王家と公爵家が是とするかは疑問ですわね。然るべき手続を踏まなければなりません。
王家の方々と、ヴェンツェル公爵家にお話を通して、それから大法院にて書類とにらめっこ。
さあ参りましょう!
──ジークリンデ嬢?」
不意に水を向けられたリンデはびくりと身体を震わせる。エドヴァルドは彼女を庇うように抱き締め、ミリアムに厳しい目を向けた。
ミリアムはただただ微笑み──
「ジークリンデ嬢。これから起こること全て──覚悟はよろしいわね?」
歌うように、宣告した。
機構馬が曳く馬車に揺れはない。
馬の性能ではなく、車体のサスペンションによるものだ。こうした最新技術は庶民にはまだ手が届かない。金属の塊で出来た馬や犬も、魔法の産物から科学の産物へと呼び名を変えたばかりだ。
ミリアムは自身が婚約破棄される手続に向かうというのに、上機嫌だ。流石に生身の猫であるノワールは連れていないが、機構犬二体は護衛の代わりとして持ち込んだ。
「お二人は機械にご興味がありませんのね。けれど、硬い硬い金属の塊を、こうして滑らかに柔らかに加工する技術!素晴らしいとは思いませんか?まぁわたくし手ずから造ったのですけれど、水銀の調合には苦労したのです……」
機構犬のエボニーとアイボリーを掲げ、ミリアムは誇らしげだ。
エドヴァルドとリンデは完全に引いている。
銀髪の巻き毛を弄りながら、エドヴァルドは適当に相槌を打ち、リンデは引き攣った笑みを浮かべるばかり。
ミリアムは機械愛をひとしきり語った後、ようやくというべきか、社会的な話を始めた。
「──エドヴァルド殿下、近頃、南の森が枯れていっているのをご存じ?」
「南部の森?ネロリンダの辺りか?」
「えぇ。あの辺りは数年前に王命にて大規模工業地帯になりましたでしょう?人通りが増え、勤める方々も増え、栄えてはいるのですけれど、妙なことも多くて」
「妙なこと?」
「まずは森が枯れ始めたこと。それから……陽気な方々が増えたのです」
「陽気?酒でも飲んでいるのでは?」
「お酒を過ごした、ということではありません。お酒を一滴も飲めない方も、ふわふわと、楽しそうだそうです。休んでいないのにとても元気で、楽しそうで。まぁ楽しいことは良いことですわね」
「生活に満ち足りているのだろう」
ミリアムは黒のレースに包まれた手をそっと頰に当て、きゅうと目を細めた。
「北のノルスタインでのユニークな赤ちゃん達についてはご存じ?」
「なんだ、ユニークな赤子とは」
「なんでも右腕が二本あったり、双子ちゃんの頭が引っ付いていたり」
リンデはその様を想像して口元を押さえた。ミリアムのいう”ユニーク”は、どう考えても尋常ではない。エドヴァルドもこれには顔を顰めた。
「……それは、何か得体の知れない病が流行っているのではないか?」
「数年前から王命にてノルスタインでは、医療体制が変わったばかりですのに」
「流行病はどこから涌いてくるか分からないものだ」
「えぇ、ノルスタインの民は、お医者様にはよくかかれるようになったのですけれど、とんだ災難ですわ。……ジークリンデ嬢?お顔が真っ青。ごめんなさい、お腹に赤ちゃんがいる方の前でするお話ではなかったわね」
エドヴァルドははっと目を見開いた。
「何故、リンデに子が出来たと分かった?」
「低いヒール。緩やかなコルセットの締め方。後はエドヴァルド殿下の、ジークリンデ嬢への接し方、かしら?わたくしとて一人の人間。赤ちゃんのご両親には健やかに、末永くご一緒にいていただきたいもの」
「だから身を引くと?」
「わたくし、殿方とお茶をするより、機械などを弄っていたいですし。ねぇエボニー、アイボリー」
機構犬はきゃんきゃんと子犬の声を再生した。
エドヴァルドは変人と名高い黒鉄令嬢の心意気に感動し、リンデは身を縮こまらせる。
ミリアムは出来損ないの子どもを見る継母の目を向けて、
「ふふ──ほんとうに、殿下は何も分かっておられないわ」
うっそりと微笑んだ。
「あら、カトリカの方々ですわね」
大法院の前でプラカードを掲げている黒衣の集団は、キリシト教カトリカ派の僧侶と熱心な信者達だ。カトリカ教会が近年新たに定めた七つの大罪を、国が堕落し犯していると、声高に叫んでいる。
「七つの大罪など……犯そうと思って犯せるものではないだろう」
「人や生物の人為的改造、人体実験、環境汚染、社会的不公正、人を困窮させること、不正に金銭を蓄えること、麻薬中毒、が新たな七つの大罪ですわ。社会的不公正や困窮については確かに政治手腕が問われるところです」
「生物の人為的改造、人体実験については、悪魔の一族が犯していた罪だ」
「もう数十年前のことでしたかしら。黒髪金目のジェロ一族」
「悪魔の名をそう易々と口にするな」
「ふふ、申し訳ございません。
とはいえ、殿下。カトリカ派は無碍に出来ません。エギュレス王国は信仰の自由が保障されていますが、国教としてはカトリカ派です。伝統的に王家の方々もカトリカ派。
国が大罪を犯しているだなんて、そんなお話は何処から出たのでしょう?」
「世迷い言を吐く連中は何処にでもいる。カトリカであろうと、そうした残念な人間はいるだろう」
「今日は諸外国の外相級会議があるのでしたかしら。
カトリカの方々は、各国要人の目に触れて、問題意識を顕在化させるために集まられたのでしょうけれど」
「直に衛兵が来る。……そら」
彼らの視線の先では、衛兵が抗議の人々を追い返している。一悶着はありそうだが、暴動までには至らないだろう。悪魔との闘争以外の暴力は基本的に禁じられている。非暴力的に解決しなければならない。……基本的には。
「あぁ……手を出した衛兵が」
リンデの声は絶望に満ちていた。
「一悶着ですわね」
エギュレス王城に着いたエドヴァルドはリンデを伴い、早速国王と王妃に面会を望んだ。ミリアムもその後ろをしずしずと従っている。先日改修工事を終えたばかりの王城は見違える程に美しく、そして内装はどこか劇場めいている。
王の間に通されたエドヴァルド達が事の顛末を報告すると、自身の父であるエギュレス国王も王妃も困惑を隠さなかった。しかしヴェンツェル公爵とミリアムは笑顔を浮かべている。
「……ジークリンデ・フィッシャー、エドヴァルドの子を身籠もっているというのは真か」
「……はい、陛下」
「ごめんなさい、こういうことを聞くのは失礼だと思うけれど、本当に、エドヴァルドの子なの?」
「……はい」
スキャンダルだ。婚約もしていない、しかも男爵令嬢を、婚前に身籠もらせたともなれば、批判を免れない。しかし、切り捨てる程、文明後退国ではない。リンデを次期王妃として迎えるかはともかく、その子どもは王位継承権を持つ。
国王は深く溜め息をついた。
「……ヴェンツェル公爵、ミリアム嬢。賠償金を支払おう。ジークリンデ嬢の子がエドヴァルドの子となれば、確かに迎え入れなければ」
ミリアムはす、と片手を上げた。
発言を求める構えだ。
「どうした、ミリアム嬢」
「賠償には及びません、陛下。
──陛下は近年発表された、カトリカの新たな七つの大罪について、どう思われますか?」
「唐突だな。
……カトリカの七つの大罪は、法令にて定められた犯罪とは限らないが、人道に対する罪であり、国際法に問われるものもある」
「黒髪金瞳のジェロ一族が犯したとされる罪は、当時犯罪ではなく、国際法にも問われないものでしたが、一族郎党皆滅ぼされました。矛盾では?」
「ジェロは殺人や人体実験を繰り返し、生命を冒瀆していた」
「陛下、人体実験とは限りませんが──違法行為によって生じたもの全ては排斥されるものだと思いますか?」
「当然だ」
ミリアムは、
ぞっとする程酷薄な笑みを浮かべた。
「おめでとうございます、陛下。
貴方の孫は殺されなければなりません。
なぜなら──そこにいるジークリンデはジェロの残した人体実験の成果物ですので」
「こちらがフィッシャー男爵とジェロの一族の契約書がございます。およそ、数十年前のものですが」
ミリアムが傍らのエボニーの口から吐き出させたのは大量の契約書だった。
「先代のフィッシャー男爵に技術を渡し、その結果今の男爵家が続いておりますわ。そして、ジェロの技術が再び使われたのはつい十数年前。生まれたのは、こちらのジークリンデ嬢」
「フィッシャーが悪魔とそんな契約を交わしていただと?」
「フィッシャー男爵だけではございませんわ。こちらはウェントラン公爵家、トライド侯爵家。爵位を持つお家柄だと、跡継ぎの問題がございますので、ジェロの”生産”技術は売れに売れたようです」
馬鹿な、と悲鳴のような声を上げたのはエドヴァルドだ。
「リンデがそんなおぞましい悪魔の所業で生まれただと!?その契約書が本物だとして……リンデが自然に生まれていない証拠にはならない!」
「ジークリンデ嬢は珍しい薄桃色の髪と橙の瞳をしているでしょう?ジェロが仕込んだものです。契約書には細かい字で副作用もきちんと書かれておりますわ。”自然では生まれ得ない、薄桃色の髪と橙色の瞳を持って生まれる”と」
「そんな……そんな……」
「可愛らしい色で素敵ですわ。
──陛下、お話の続きがございます。
南部ネロリンダ工業地帯での環境破壊と麻薬汚染は、王家主導のものですが、それについてお伺いしたいのです」
エギュレス王の表情が強張る。
「環境破壊と麻薬汚染、だと?」
「はい。豊かな森が急速に枯れています。それは工場から大量に出る煤煙のせい。ネロリンダ工業地帯にて、重大な欠陥のある製造工程を回していたのですもの。そろそろ人体にも影響が出る頃ですわ。呼吸器障害を初めとして、脳血管から循環器に。
労働者に”活力が湧き出る薬”として一種の麻薬、興奮剤を蔓延させていますわね。あの調子で服用していれば、一年と持ちませんのに」
「そんなはずは……!」
「ねぇ、エギュレス国王陛下。
──あの製造工程を作ったのはだあれ?
──興奮剤を作ったのはだあれ?」
エギュレス王ははっきりと、蒼白を通り越した顔色になった。
「そう、あれらもまた、ジェロの技術。強奪される際にわざと欠陥品を残したのですわ。あたかも金の卵を産むように。そう、北部ノルスタインで奇形児が数多く出産されているのも同様です。寒さや暑さに強い人間が生まれる……馬鹿じゃありませんの?下手に薬物を妊婦に投与して、どれだけリスクを負うか」
明瞭なミリアムの罵倒にも、王は怒ることすらできない。
ミリアムは翠の瞳をすう、とエドヴァルドに向けた。その瞳が語っている。
──言ったでしょう?殿下は何も分かっておられないわ、と。
「まぁ……同様のことが、国外でも起こっているのですけれど。
数十年前、ジェロ一族を迫害したのは、金の卵を産む雌鶏が、神と崇められるのを防ぐため。カトリカもそれに加担しましたわね。神の名の下に。うふふ。ジェロ一族の恩恵を受けられたはずの庶民達は、今、あなた方に毒を撒かれ、馬車馬よりも酷い待遇で働かされているわけですわね」
「……!」
「もうひとつ。
──この王城の改修工事を指揮したのは、ヴェンツェル公爵。我が父と呼ぶべき方なのです。
さて、この城にどういった改修を施したでしょうか?」
***
王城から王都へと響き渡る音声に、人々は全ての動きを止め、聞き入り──そして、一人残らず激怒した。
***
王城に詰めかける、無名の人々。
外相会議に出席していた他国の要人から貴族達が軒並み捕らえられそして、
王と共に処刑された。
処刑された人間の中に、金髪翠目の黒鉄令嬢と薄桃色の髪と橙の目の男爵令嬢はいなかった。
リンデは悪魔を見る形相で、目の前の令嬢を見つめていた。目を逸らすのも怖ろしかった。
──ミリアム・ヴェンツェル公爵令嬢。
「少し、失礼する」
ミリアムはそう断ってから、自身の”ウィッグ”を外し、そしてコルセットを外し、両目を一撫で。
現れたのは黒髪金瞳の少年だった。
「あらためて──僕はアドルファス・ユージーン・ジェロ。生き残り、というよりもジェロの技術が残した産物。あの場にいたヴェンツェル公は僕が作った機械。本物は五年前だったかに殺したかな。本物のミリアムも」
リンデは咄嗟に腹を守るように抱える。アドルファスと名乗った少年は、ミリアムと呼ばれていた時よりも穏やかな瞳で微笑んだ。
リンデがミリアムと出会ったのは、2年前。エドヴァルドと出会ったのもその頃だった。何から何までがミリアム──今となってはアドルファスだが──の計算だったのか、分からない。知りたくもない。男爵令嬢に過ぎなかったリンデに分かるはずもない。
「ジークリンデ。
──お腹の子をどうしたい?
どちらでも構わない。よく考えて決めれば良い」
「……殺さないの?」
「何故殺すと思うの?」
「貴方はみんなみんな壊したでしょう?国が一つ滅んだわ」
「いや、各国新聞社やら労働組合やら思いつく限りに全ての事実をリークしておいたから、全世界大パニックだよ」
「……なお悪いと思うわ。私にだって、分かる。この先、地獄しかないって。貴方、王や貴族だけじゃなくって、普通の人々だって殺したのよ」
「──ジェロ一族を実際に殺したのはね、普通の村人達だったよ。醜聞、風聞を真に受けた馬鹿共。だから僕は誰にだって容赦しない」
「人間が嫌いなの?」
「僕はね、同族を一人残らず嫌悪し、憎悪するように出来ている。
同族というのは幅広い意味。そう、人間ということ。
僕のこの憎悪だけが、僕を人間と歌ってくれるんだ」
夢見るようにアドルファスは目を細める。
その表情こそが、少女のように美しい。
「君と、その子は、より僕を人間にしてくれるでしょう?」
書き終わってから、黒猫ノワールちゃんの行方が気になりました。ノワールちゃんはたくましく生きていますのでご安心ください。猫に優しい世界であれ。
どうか、評価・感想お願いいたします。






