日常Ⅲ:Vol3
ーースゥゥ
横式のドアを開けると、渦中の人物がそこにいた。
赤と黒のチェック柄のパジャマを着ており、
とても患者には見えない寝巻き姿だった。
しかし、松田峰香の目は、どこか虚ろ気だ。
瞳は光を失い、濁っている様な印象、
竜司が開いたドアの音に反応して首を振らず、
ただまっすぐ一点のみに見つめていた。
「あの...」
夢でも現実でも、散々暴れ回っていた
彼女とは、到底、思えない様相をしている。
そのギャップという違和感を確かめる為に、
竜司は、恐る恐る話しかけると...
「うふふ...」
突然、彼女が笑いだした。
しかし、相変わらず、お互いの視線は一向に合わない。
不気味に感じた竜司は、戸惑いながらも
話しかけようとするが、その前に、彼女が言葉を呟き始める。
「もう、あなたったら...今夜までお楽しみはお預けよ。」
「ねぇ、もうすぐ子供が生まれるの。」
「うふふ、あなたと入れて、私はとても嬉しいわ。」
誰もいないので、あたかも、松田峰香の隣には、
パートナーらしき人物がいて、仲睦まじい様子で、
コミュニケーションを繰り広げていた。
「ねぇ、早くあなたが欲しいから抱かせて。」
夢の中の彼女を彷彿とさせる会話だ。
「...。」
竜司は、しばらく、その場で立ち止まり、無言を貫いた。
松田峰香の方は、全く意に介さなかった。
むしろ、元々、竜司の存在自体すら、認識せず、
彼女の独壇場で、一人芝居に夢中になっている。
ーープチッ
次第に、パジャマのボタンすら外し、裸になろうとさえしていた。
「松田さん!何をやっているのですか!」
ちょうど、巡回で居合わせた担当であろう
看護師が、彼女にストップをかけた。
「なにするのよ!!邪魔しないで!」
松田峰香は、激昂した。
彼女の妄想の中では、これから外国人の彼氏と
お楽しみをする所であったのであろう。
そこに、邪魔を入れられて、ヒステリックになった。
そして、現実の彼女は、暴れ始め、全身をバタバタと、
両腕、両足を全力で振り回そうとする。
間一発、彼女の暴行から免れている看護師は、
ナースコールで応援を呼び、複数で彼女を抑え込む。
「くっだらねぇ...。」
大根芝居の寸劇を見せられた気分になった竜司、
成れの果ての姿となった彼女を見届け、
この場にこれ以上いても、仕方ないので
病室を後にした。
「わたしは...わたしは...!」
病室から離れていても、松田峰香の慟哭の様な
嘆き声が、竜司の耳奥にまで、響いてくる。
ーーうるさい..。
それに、いたく不快感を覚え、ワイヤレスイヤホンを
装着し、ノイズキャンセルの機能を使った。
すると、あたりは静寂な無音に包まれた。
この時ばかり、最新科学の利器に、感謝の念を覚えた。
とても音楽を聞く気分にはなれなかったが、
あの魔女の断末魔を聞こなくなっただけで、
快適になった。
「あぁぁぁぁ!!!」
エレベーターの扉が閉じる直前まで、
彼女の悲痛は、フロア全体に響き渡っている。
竜司には、すでに彼女の声は聞こえていない。
それどころか、今後、二度と聞く事もない。
ただ今あるのは、音のない無である。
竜司は、そのまま病院を後にし、帰宅の途に着いたのであった。