呪術士の鬼熊
1
サブデューの研究には、まず推測が必要だった。相手が言葉を操らない獣ということもあり、失敗が致命傷へと容易に繋がる。森の生態系でも上位の熊を操ろう、というのだから、まずは十分に推測した上で呪文を構築する必要があった。しかし推測や構築の成否は実地以外で得られない。
当初は熊などではなく、人間が標的だった。しかし、ことごとく失敗し続けた。たった一人の成果を上げることもなく、ただ一回の成功例すら示せなかった。原因も今はわからない。そんな中、研究に疲れたサブデューが戯れに呪文を構築し行使して成功したのが、犬を操る呪文だった。
人間を操るための鍵としてサブデューは名前を使おうと考えていたが、これは人間にも動物にも当てはまらなかった。そこで興味本位から名前のない野良犬に呪術を行使すればどうなるのか、と人間用の名前を指定する呪文を指定しない犬用へ改編して行使したところ、すんなりと成功した。
サブデューの興味は今も人間操作から離れていない。しかし動物操作から人間操作へと派生できないか、という観点から今は動物操作に軸足を置いていた。大きく考えれば、人間も動物である。動物操作の先に人間操作があるのではないか、という推測が今のサブデューの土台となっていた。
サブデューには、かつて師匠がいた。その師匠の研究方針は「すべての術は元を辿れば同じものである」というもので、明らかに術士界隈にある主流の考え方から外れている。魔術士たちは見えざる隣人の存在を強固に支持し、呪術士たちは精霊や祖先のうちに見えざる隣人は含まれない、という見解だった。治癒術士たちについては、治癒は何者の力も借りておらず完全に別物である、と主張していた。
サブデューの師匠は魔術でも呪術でも、治癒術すらも使いこなしていた。だが誰からも実力を認められることはなく、常に傍流にあり続けた。サブデューもその流れを汲んでいるため呪術も魔術も治癒術も、得手不得手の差はあれど使うことができている。
しかしサブデューから見える師匠は不遇に慣れ過ぎており、その点だけが不満だった。もっと声高に研究成果を主張しても良いのでは、と考えていた。特に呪術と魔術については大きな声でこそなかったが類似性を指摘する声は他にもあり、師匠の研究もあながち的外れではない、と主張するよう師匠と論議のような喧嘩をしたことも一度や二度ではない。
果ては喧嘩の結末として、師匠とは袂を分かつことになる。師匠の下から出奔した形となるが、知識量を始めとした術士としての実力は既に師匠へ迫るところまでとなっていたので、もはや師匠を失ったとて術士として大きな問題ではなかった。
恐らくは師匠との決別により歪んだのだろう、とはサブデュー自身も感じ取っている。興味が急激に人間へと移っていったためだ。どうして人間とは、こうもままならないものだろうか、と勝手に憤ったことも覚えている。いつしか「人間とは何か」という、やや哲学的な切り口を、術士的な観点から眺めることで人間を理解しようと努め始めていた。そうして人間操作の発想へと辿り着き、そこから今は動物操作へと全力を傾注している。
程なくしてサブデューは森への出入りを始めた。最初は犬だったが、次は鼠を標的とした。鼠の次は猫だった。しかし街中で簡単に標的を得ようとすると、この辺りまでが限界だった。
最初の頃は森の中を、ただ歩くために歩いた。野生動物を見つけることが目的だったが、しかし無謀に過ぎた。遠目から偶然に熊を見つけ避け得たことで一度、獣避けの呪文を習得するところまで手順を戻す。この時に森の中では最終的に熊を操ろう、とも決めた。
習得した獣避けの呪文は完全に機能したが、副産物として獣寄せの呪文を構築するに至る。いざ獣を集めてみると、森の中はサブデューが知り得なかったほどの動物で溢れている事実へ行き着いた。
獣避けの呪文と獣寄せの呪文を駆使することで手始めの兎から鼬、狐を経て狼を使役するに至り、つい先日には熊を使役する呪文の構築を終えた。あとは試すだけであったが、なかなか目的の熊と出会えずにいる。過去に獣寄せの呪文で集めることに成功したこともあったのだが、その時はまだ呪文の構築が終わっていなかったためサブデューの方から逃げ出していた。
獣寄せの呪文の欠点は、集める動物を指定できない点にある。集まる動物の種類を限定する手順を組み込んだ呪文も幾度か試してはみたものの、極端に限定しなければ効果が発揮されたように感じられなかった。種類の限定を徐々に緩くしてゆくと、ある段階から限定として機能しなくなったためだ。
結局のところ獣避けの呪文が、どんな動物でも問答無用で避けるものであるため、獣寄せの呪文も種類を限定する必要は薄い、という結論へと至る。回り道も研鑽の一環であるとは理解していたが、獣寄せの呪文の改良にかける時間がサブデューには惜しくもあった。
2
今日、幾度目かの獣寄せの呪文も空振りに終わった。集めた獣の中から狐を選んで使役しておく。明らかに自身の命を損なうような命令は聞き流されるが、狐に他の獣を襲わせる分には問題なかった。ただし熊へ襲いかかるよう命じた場合は話が変わり、こればかりは実際にやってみなければサブデューにもわからない。
使役している狐に対しては平常、魔力を費やす以外は何もする必要がない。何かを命じるときには若干、魔力の消費量が多くなるものの微々たるものである。狐だけでなく使役されている動物全般に言える話だが、どうやら自由意志が損なわれている様子もなく完全に自立して術者であるサブデューへ付き従っている状態であるようだった。
逆に自由意志があるからこそ自傷命令には聞く耳を持たないのだろうし、獣を襲う習慣がないらしい兎に至っては自傷命令はおろか、他の獣へ襲いかかることもなかった。このことから自由意志を損なっていないことを推測するに至ったが、狐が熊に襲いかかることなどあるのかサブデューは知らなかった。
しばらくは狐を連れて森を歩く。この狐にしても獣避けの呪文に乗せられた魔力次第では、サブデューを避けるような行動を選ぶことも実験済みだった。呪文に乗せる魔力量を調整すれば使役中の獣に対して獣避けの呪文が効果を発揮しないようにすることもできそうだったが、研究の主眼ではないため気にせず獣避けの呪文で追い払っている。使役する獣を家畜として飼うつもりではないため所有欲がある訳でもなく、また都度都度で繰り返すことにより小さな気づきを積み重ねていく方が研鑽という意味で有用と思えたためでもあった。
たっぷり二刻を歩いたところで、再び獣を集めようと立ち止まる。前を行かせていた狐も、サブデューの動きに釣られて歩みを止め振り向いた。
「真っ直ぐ前へ進み続けろ」
最後にサブデューは、ひたすら前へ進み続けるよう狐へ命じる。実際は言葉にする必要はないし、そもそも獣は人語を解さない。要領としては呪文の無詠唱と変わらず、もっと言えば命令を強く念じるだけで事足りるものを、サブデューは敢えて発音した。
狐の方も了解したのか、サブデューを省みることもなく歩みを再開した。狐が歩み去ってから半刻ほど時間を空け、周囲に人間がいないことを見分けられる範囲内で確認してから、正確さを保つために朗々と詠唱する。後に使うつもりでいる獣避けの呪文が効果で上回らせるために、乗せる魔力はほどほどにしておいた。
──Great ancestors of beasts, lend me your power.
──Your many pups will never be far from me.
程なくして様々な動物が集まり始めた。野鼠や野兎などは一番に集まってくるものの、サブデューの狙いは彼らではない。心の中で呪文を準備しながらも、襲われない限りはそのまま放置する。もうしばらくすれば彼らの天敵であろう鼬や狐も現れるだろうが、その場合は彼らの間でのみ問題が発生するようでサブデューが襲われたことはなかった。しかし鼬や狐の気まぐれで襲われなかったのではなく、他にもっと容易に襲うことのできる獣がいるからだろう、とサブデューは考えていた。
早速、視界の端で兎と狐の小競り合いが始まった。あっという間に一匹の兎が犠牲になる。他の兎や鼠は即座に散って狐との距離を取ろうとするが、狐は獲った食事に夢中でその場を動かない。この状態で、もうしばらく時間を費やす。次に来るのは果たして何か。順当にいけば狼あたりではあるが、これも実地を伴わなければ推測すらできない事柄だった。
予想が当たる。食事にありついていた狐が、狼の餌食となった。小動物たちは捕食者の視界から逃れようとしているがサブデューの周囲を離れられないため、サブデューを挟んだ反対側に位置し始めた。対する捕食者は食事に夢中で、その場を動こうとしない。
狼が食事を終えるまでが、思案のしどころだった。狐を腹に収めて満腹となる以上サブデューを狙うことはないと思いたかったが、狼の意向を確認する術はない。狐に飽き足らず人間を襲う可能性を否定し切れなかった。今までであれば食事中の狼を使役して他の獣は散るに任せていたが、今回は熊を狙いたかった。
サブデューは狼を注視しながら心中で獣避けの呪文と、熊を使役するための呪文を用意した。狼の食事が終わった様子を見せるまでか、熊が姿を現すまでは待つ。しかし優先順位は獣避けの呪文の方が上だった。安全を確保するには譲れない順位のつけ方である。
獣避けの呪文は無詠唱でも効果を得ることができていたようだが、使役の呪文は人語を解さない獣相手であっても詠唱を必要とした。効果を及ぼしたい相手には詠唱を聞かせる、という理屈はわかっているものの、動物相手では釈然としないのも確かだった。しかし、この時点でサブデューは、狼を使役する、という選択肢を捨てている。さすがに四つの呪文を同時に用意するのは、正確さに支障が出ないとも限らない。
そしてサブデューは複数の呪文を同時に使うことも捨てていた。魔力量としても技量としても、それができないサブデューではない。あくまで確実さ正確さを求めて同時に複数の呪文を使わないし、きっちり詠唱もしている。いつの間にか気づけばサブデューの背後にいたはずの小動物たちは、狼などに近しい位置へと移動していた。
3
サブデューは不意を衝かれた。熊は確かに現れてはいたが、それは彼の背後に、であった。呪文の準備に集中しすぎて周囲の警戒が疎かになっていた。咄嗟に前方へ向かって身を投げ出す。と同時に維持されていた獣寄せの呪文が途切れた。
獣寄せの呪文が途切れたからといって、すぐさま獣たちが散り散りになる訳ではない。しかしサブデューの周囲にいることを強いられなくなった獣たちは皆それぞれに熊から逃げ始めた。
サブデューは辛うじて熊に向き合う体勢で起き上がり、無意味とは知りつつも両腕を前方に構える。普通であればどうにかして逃げる算段を立てる局面ではあるが、これはサブデュー自身が望んだ対面であった。逃げる選択肢はない。
どうして気づかなかったのか、と思うほどの濃厚な体臭を熊は纏っていた。もちろん他の獣たちも似たような臭いを纏ってはいたはずだが、サブデューには今その臭いを初めて嗅いだかのように印象強く感じられていた。幸いにして熊が興奮している様子は見られない。立て直す好機は今だった。
再び熊を使役するための呪文を心中で組み直し、試しに無詠唱で行使してみる。ただ一人だけ逃げることのなかった目の前のサブデューに視線を合わせながら、熊はおとなしく佇んでいた。まだ大丈夫、だろう。しかし呪術の効果は発揮されなかった。やはり無詠唱では駄目だった。獣臭さ漂う空気を吸い、十分な魔力を乗せてサブデューは注意深く詠唱した。
──Great ancestor of bear, lend me your power.
──Lend me your reverence.
──Lend me one of your many cubs.
表面上、四つ足で佇む熊に変化は訪れなかった。しかし使役の呪文でわかりやすい変化が訪れる相手は、あまりいない。熊の視線は変わらずサブデューに注がれていた。呪術が失敗した感触もない。熊に実現可能で、この場では取らないであろう行動を考える。
「私に背を向けて、後ろ足だけで立ち上がれ」
当座の目標としていた熊の使役に、サブデューは成功した。熊は無事に後ろ肢だけで立ち上がり、サブデューに尻を向けている。他の獣はすべて逃げ出した後であり、残っているのは熊だけであった。
しかし、もう他の獣は必要なかった。研究の成果として、いま目の前で熊が首を垂れている事実さえあれば。熊を使役する呪文の構築と習得が完了した、という証に他ならないからだ。誰かに認められる訳ではないが、完了した事実をサブデュー自身が把握していさえすれば、他は二の次だった。
サブデューは、はたと気づく。いつの間にか袂を分かった師匠と同じ考え方をしていた自分に。成果が自分の手の中にあれば外野が何をどう騒ごうと知ったことではない、とは師匠の取っていた態度とあまりに似通っている。自嘲の笑みが自然と浮かんでいた。
同時に得られたのは納得だった。どうして師匠が外聞にこだわりを見せなかったのか。今は深い納得と師匠への親しみを感じられていた。今更ではあるが、あの師匠に教えを乞うことができて良かった、と思える。あの師匠にして、この弟子か、とも。
総じてサブデューを包んでいたのは満足感であった。その横では満足感をもたらしてくれた熊が侍っている。生態系でも上位に位置するであろう熊と一緒に、しばらく森の中の散歩を楽しむことにした。熊には周囲を警戒しながら進むよう命令を出し、自らは鷹揚に構えながら歩く。サブデューは自らが森に君臨したかのような錯覚さえ覚え始めていた。
とにかく獣の気配そのものが感じられなかった。熊が気配を殺すこともなく闊歩している影響からか、まるで獣避けの呪文が効果を発揮しているかのように他の獣と遭遇することはない。これが呪術の力か、とまで感じ入るようになっていたが、ここで弛緩しては駄目だ、と改めて気を入れ直す。熊の使役は、まだ途上の成果である。サブデューの研究は動物の使役が主眼ではない。
それでも今回、森にいる間だけでも熊の威力を楽しみながら試しておこう、と限界まで街へ戻らなかったことが、サブデューの今後を左右することになるとは考えてもいなかった。森の中には熊をも凌駕する上位の存在があることを、このときのサブデューは知らなかった。ひょっとすると今も認めていないかも知れない。
4
さらに何刻かを森の中で熊と過ごし、そろそろ熊を手放して街へ戻ろうか、という頃合いとなって異変に襲われた。ただしサブデューではなく熊が、である。唐突に熊の左肩あたりへ一本の矢が突き立った。森の中にあって、すべての獣たちの天敵ともいえる存在──狩人の放った矢だった。
サブデューから狩人の姿を確認することはできなかったが、警戒していた熊は敏感に反応し戦闘態勢へと移っていた。今にも襲いかからんばかりではあったが、サブデューを気にしてか走り出しはしない。しかしサブデューは止めなかった。
熊の躊躇は一瞬だった。サブデューの方を一瞥したかと思えば、一瞬にして左手の茂みへと消えていく。大型の獣が移動する音や弓を射る音で、サブデューは見ることのできなかった戦闘が繰り広げられた。戦闘は、ひときわ大きな恐怖に彩られた狩人の絶叫で締めくくられる。恐らく断末魔だろう。気づいた時には遅かった。
やや間を置いてから熊が戻ってきた。その口元と前肢の爪が赤黒く濡れている。左肩の他にも数本、体には矢が突き立っていた。ついに姿を見ることのなかった狩人がどうなったかなど確認するまでもなかった。