八 叫ぶ声。たわわな果実を手放すな。
八月二十五日。夜。小雨。
物陰に注意しながら血痕に彩られたエントランスを出る。チラリと覗いてみたが、管理人室の主は不在のようだ。
街灯に照らされた道路に人影は見当たらない。しとしとと降り注ぐ雨が衣服に染みこんでいく。通常であれば徒歩五分に位置するコンビニが、今日は宇宙よりも遠く思える。
車道には複数の放置車両。陰に潜むゾンビに警戒しつつ歩道の端を歩く。
一歩毎に後方確認。
一歩進んで周囲の安全確認。
一歩歩いて付近の観察。
周囲にはまだらに灯る民家の明かり。思っていたよりも生存者が多いようだ。カーテン越しに漏れるソレはかつての日常を想起させるが、彼等はちゃんと食えているのだろうか?
扉を開けると、明かりの下に餓死者が横たわり……。想像して鳥肌が立った。合掌。
水たまりを避けて歩く。無理矢理五感が引き上がる。心臓が激しいリズムで踊り狂う。身体を濡らす、雨と汗。
たった数分の距離を歩いただけで疲労感が身を襲う。
日本各地の勇者達は闇夜に紛れて食料を求めた。動画サイトにライブ配信しながらだ。後に続く同胞の為に、より多くの情報を残す為に。ある勇者はコンビニ目前で果て、別の勇者は食料調達に成功した帰り道で。
散っていった彼等の経験を糧にゆっくりと歩を進める。勇者は教会で復活できない。しかし映像を媒介として、その魂は受け継がれていくのだ。勇気と蛮行を伴った魂は続く同胞に宿る。
機材が無い俺の魂を同胞に託す事は出来ないが。それでも先人達の魂は俺の心で生きている。
今日は俺の番だ。続く同胞の灯火になれないのが残念だが、燃料くらい自分で準備しろ。俺は女の為に命を賭ける。女こそが俺の生きる理由だ!
そして辿り着いた見通しの悪い交差点。ここを曲がればコンビニはすぐそこにある。曲がった先にゾンビが居なければ。
震える足で姿勢を下げる。塀の陰からそっと様子を伺う。
「――ッ!!」
俺の鼓動が激しくビートを刻む!
視界の先に一人の男! ソイツは濡れそぼったスーツを気にする事も無く、所在なさげにたたずんでいた。外傷の有無は確認できないが、ハードモードの路上でぼんやり突っ立っているのはゾンビ確定だ!
いつから居たのかなんて関係ない! どけよ! あっち行け! しっしっ!!
夜道を出歩くゾンビは少ないけれどゼロじゃない。先人達の献身で、降水量が多いほど外出するゾンビが減ると証し立てられている。気象庁職員達がボイコットした現在、天気予報サービスは停止中。
次の『夜の雨』がいつか分からない今、この日が最後のチャンスでは無いと誰が言える! だからどいて!
石でも投げて誘導しようか? 周囲に石は無い。
一人のようだし、いっそバールで決闘を挑むか!? いやいや、それは最終手段だ。
むしろ今日は周辺調査だったから。このまま帰ってもねねは文句を言わない筈だ!
そうと決まったら今すぐ帰ろう。踵を返して逃げ帰るのだ。ゾンビに恐怖した? だからどうした。文句があるならお前がやってみろ!
そして俺の肩がぽん、と叩かれる。
小雨がちらつく夜の街に、男の悲鳴が響く。
「す、すみません! そんなに驚くなんて思わなくって!」
背の高い目の前の女は黒い革のパンツに白いTシャツ。黒い革ジャン(残念、長袖だ)の姿は世紀末の正装としてそれなりに正しい。ビニール傘を差していなければ。マスクをしているが美人であることに疑いは無い。茶髪で巨乳だし。
間もなくゾンビがやって来る。俺とこの女の命はあと何秒だ?
尻もちついた格好で女を見上げる俺の姿はマフラーのようにバスタオルを首に巻き付け安全第一ヘルメット。空のリュックにバールはその辺に転がっている。
ショック死しなかったおかげで寿命が数秒延びたが、代わりに股間に温かい染みが広がっていく。
俺の最期は美人のおねーさんの前でお漏らしか。なかなか悪くない。新たな性癖の扉を開けた先は、イージーモードの来世でお願いします。
「あの? 大丈夫ですか?」
「ゾ……ゾンビは?」
本来ならダッシュでやって来るであろう、彼は来ない。耳が不自由な方だったのだろうか?
「ゾンビ? ゾンビがどうかしましたか?」
だって向こうの木陰で白いワンピースのお嬢さんが犬と戯れて……あれ?
いつの間にか外された首元のバスタオル。換わりにおねーさんの牙がそこに在った。
扉の先はハードモードのままだ。むしろ来世がルナティック?
純白のワンピースを着た犬が水着姿のお嬢さんと戯れている。
今日は日射しが穏やかだな。テラスで珈琲のほろ苦さを楽しみつつ、子供達が殴り合う様を優しく見守る。
びしょ濡れのスーツが気持ち悪いよ。
目が覚めるとぼんやりした視界に白い天井が見えた。楽しい夢を見ていた気がする。なんだよこのベッドやけに堅いな。視界の片隅にはコーヒーサーバー。反対側を見ればずぶ濡れの男。
おじさん、左頬の肉が無いよ? どっかに忘れてきちゃったの? 遺失物の相談はお近くの警察署又は交番まで。
夏用の白いセーラー服を着た女の子からペットボトルのお茶を受け取る。よく冷えたそれは外気に晒され水滴がついている。女の子の腕は肉がえぐれて白い骨が外気に晒されている。遺失物の相談は以下略。
震える手でキャップを外し、お茶を一気にあおる。ごっごっごっ!!
ぷはー! うまいっ!
何なんだよ! 何でゾンビに介抱されてんだよっ!! お前ら人間を襲うんだろ!? のんきに見てないで掛かって来いや! カモーン!!
来ない。俺も既にゾンビに成っているのか? 扉を開けた先はイージーモードでした。お望み通りのゾンビ化か!
……なんか泣けてきた。格好付けて出てきた結果がゾンビ。母さんやあえかに何て言おう? ねね? どうでもいいや。
「気が付きましたか?」
俺の性癖の扉を開いてくれたおねーさんが優しく声を掛けてくる。かろうじて覚えているぞ! お前が! 俺を! 噛んだんだな!
「申し訳ありません。待ち望んでいた抗体者の匂いで我慢できなくて。……でもこれで、ようやく契約出来ました」
へぁ? 契約?
新情報が出て来たが構わず吠える。ゾンビに成っちまえば情報なんてどうでもいいや。
「俺は母さんとあえかの為に食料を調達しなきゃいけないんだよ! ゾンビに成ってるヒマなんて無いんだよ! お願いだから、食料を……!!」
どうせ失禁を晒した相手だ。涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔など、毛ほども気にならない。
おねーさんに縋り付く。その先がたわわなおっぱいだった事は幸か不幸か? 色欲が勝った俺の頭にゲンコツが炸裂。
ムラムラしてやった。後悔はしていない。
ゾンビって会話、出来たっけ??