七 家族の涙。灯火を業火に換えろ。
八月二十五日夜。雨。
先日から天気はぐずついて、今は小雨がシトシトとピッチャン。ゾンビ騒動は収まるどころか日本全土に広がるばかり。
初期の頃、高温多湿の日本で歩く死体など、三日もすれば腐って崩れ落ちるだろうと楽観視されていた側面もあったが彼等は今日も元気です。腐敗臭は感じられません。
各種ライフラインは今のところ問題ない。各拠点は自衛隊に守られ、職員達が泊まりがけで(監禁とも言う)頑張ってくれているようだ。
が。日本各地のゾンビを掃討するだけの武器弾薬が足りない。人員も足りない。救助活動も受け入れ態勢もままならない。ネット上のつぶやきによると、いくつかの避難所がゾンビに襲撃されたようだ。バリケードは作っていたのかな?
事態の収束又は救助が望めないまま、二十日余りが経過した蘭堂家ではこれまで棚上げしてきた問題に、そろそろ取り組まなければならない時期を迎えていた。
言うまでも無い。食料問題だ。節約すれば三週間ほどの余裕がある。言い換えれば三週間以内に食料を調達出来なければ、餓死。
よくあるゾンビパニック作品ではノロマなゾンビから逃げ、シャベルや金属バット等を駆使して無力化。警官のゾンビから運良く拳銃を調達してヒロインと終末世界を生き抜いていく。
イージーモードは楽でいいなぁ。
ハードモードのこの世界ではゾンビに見付かれば、それはイコール死に繋がる。いっそゾンビになってしまえばどんなに楽か。地上を徘徊するだけの簡単なお仕事です。人間を見付けたらちゃんと噛み付いてあげてね?
……まだ早い。絶望するにはまだ早い。今夜は俺が待ち望んでいた日だ。
夕食にハンバーグカレー(レトルト&冷凍)をリクエストした俺はさらにチーズのトッピングを要求する。
「ちょっと贅沢じゃない?」
「どうしても食べたくなってさぁ。頼むよ、母さん」
しょうがないわね。今日だけよ。
サンキューマッマ! ごめんなさい。
食後のひととき。コーヒーを飲み終えてから用意していた台詞を吐く。
「ちょっとコンビニ行ってくる」
「ちょ……」
「兄さ……」
「ダメよ!! 絶対にダメ!」
軽く言ってみたが流してはくれなかった。
「行くよ」
「まだ暫く大丈夫なんでしょ!? わざわざ死にに行くなんてダメよ!」
「母さん、今日がチャンスなんだよ。雨の日の夜がゾンビの外出率が低いんだ。救助の見込みもないし、今日が一番安全なんだよ」
全国各地のつぶやき情報から、夜。又は雨。路上のゾンビは姿を消す。夜の雨なら効果は抜群だ!
「でも……!」
「今日は周囲の探索とコンビニに行ってくるだけだから。無茶はしないよ」
母さんが俺をそっと、抱きしめる。その体は小刻みに震え、俺の肩口は涙に濡れた。
あえかとねねも俯き、肩を震わせている。
戦場に赴く男に言葉は要らない。女が流す一筋の雫。
それが手向けとなるのだ。永遠とも思える一秒。戦士に闘志の灯火を。涙で灯火を業火に換えろ。戦士の命が尽きるまで……。
ちょっと重すぎじゃない? 君たち。
「御免なさい。朝春。本当は母さんがやらなきゃいけないはずなのに……!」
母さんでは無理だ。
「ちょっと偵察に行ってくるだけだよ、母さん。心配すんなって。俺はプレッパーなんだから!!」
「もう……、プレッパーは引き籠もりなんじゃ無かったの?」
「俺は今日からアクティブ・プレッパーだ! だから心配御無用! すぐに帰ってくるよ!」
母さんの涙なんて見たのは初めてだ。親の涙なんて子供が見るもんじゃないな。しみじみと思う。
「今日のカレー。美味しかったよ。母さん」
母さんが泣き崩れる。あえかは先程から俺の足下でうずくまり、嗚咽を堪えて震えている。いかん、逆効果だったようだ。何か気の利いた、ウィットに富んだギャグを一発かまさないと……。
「朝春」
潤んだ瞳で、眩しい笑顔。
なんだよ、ねね。
「バニラアイス。よろしくね!」
「分かったよ。ピザポテチ」
はぁー!? 何よそれ!? 誰がピザポテチかー!! ピザポテチも欲しいけどー!!
サンキュー、ねね。やっぱりお前は優しいな。
ヘルメットを被り、首元にバスタオルを巻き付けて噛み付き対策をする。レインコートは動きの邪魔になるので着ない。
空のリュックサックを背負ってバールを装備すれば、ちょっとした終末の戦士だろう。俺の闘志は燃えている!
二十日以上の時を経て、我が家の玄関扉が開かれる。ゴゴゴゴゴ……。
玄関の覗き穴から確認後、音をたてないようにドアを開ける。隙間から覗くと共用廊下にゾンビは居ないようだ。
隣の部屋はベランダから確認する限り、今日まで照明が点く事は無かったが、だからと言って無人である証拠にはならない。生存した人間に食料を集られる方が余程厄介だ。
共用廊下、クリア。エレベーターは無視して階段へと歩を進める。廊下には照明が点いているので外から見られないように身を屈め、素早く静かな移動を心掛ける。
階段到達。ひとまずクリア。慎重に降っていく。ドキドキ。
バールを握りしめて階段を降りる事十五分。五階から一階までの、今日の所要時間だ。ビビリ過ぎの自覚はあるが、残機はゼロ。心臓の音がさっきから五月蠅い。コツコツと鳴る自分の足音も同様
に。
唇も既にカサカサとして、ゴクリと飲み込む唾液の音すら恐怖に感じる。
無事一階に辿り着く。周囲にゾンビは居ない。ふと、立ち止まる。エントランスが静寂の中で煌々と輝く様は、現代に造られた聖廟か。俺達家族はまだ生きているぞ。
ここで最初の関門、マンションエントランスのオートロック。
ガラス仕立ての大きな自動ドア。
周囲にゾンビは見当たらない。
……ウィーン。
普通に開いたよ! 電気が生きているんだから当然かな!? やったー!
……かくして俺は夜の雨に紛れて、死地へと赴くのであった。まる。