九十二 交渉と事後処理。流れに身を任せる事を禁止する。
「僕も人質をとるのは気が進まないんだけどね……生き残るためにはしょうがないんだ。ねねさんだっけ? 迷惑をかけて申し訳無いと思っているよ」
「だったら今すぐ解放して欲しいんですけど? ていうかあんたのお姉さんはどうでもいいわけ?」
「……正直姉さんには渋々付き合っていただけだし……」
殴られて潰れた鼻は既に治って、小綺麗なイケメンがねねの首根っこを鷲掴みにしながら喋る、喋る。
「あんたの事情なんてどうでもいいから! さっさとあたしを解放しなさいよ!」
「いや、人質にとってるんだからそれは無理でしょ」
ねね以外の……俺の家族以外が人質にされたのなら適当に対応するんだが、対象がねねじゃあ、雑に対応出来ないな。
「犬飼信道! 取り敢えずお前の姉ちゃんを始末するから、交渉はちょっと待っててくれ!」
「いやいやいや! 姉さんを始末するんだったら僕だってねねさんを始末するよ!? っていうか人質交渉だって分かってる!?」
めんどくせぇな。未だにくしゃみをして赤唐辛子に悶える犬飼紅葉は手足を縛ってこちらの手にある。彼女を始末するのは確かに一苦労だが、『王階級』である犬飼紅葉を食べる事が叶えば、こちらの戦力増強は間違い無しだ。この機会を逃す手は無い。
ならば手段は一つか……済まない、ねね。
「……ねね、俺のこれまでの人生に於いて、お前の存在は決して無視できない存在だった……」
「朝春?」
「小学一年生の時、俺が授業中にお漏らししてしまった時。運動会のリレーで俺がバトンを落とした時。掃除の時間で俺がバケツの水をこぼしてしまった時。日直当番の日に寝坊してしまった時。小学四年生の時にクラスの女子のブルマが無くなって、それを俺のせいにされた時。
小学五年生の時にクラスの女子のリコーダーが無くなって俺が犯人扱いされた時。小学六年生の時にプールの授業でクラスの女子の下着が無くなって俺のせいにされた時……誰よりも俺を責めていたのはお前だったな」
「いや、その……朝春!?」
「俺がやらかした事、俺に濡れ衣を着せた事。全部覚えているぞ? ちょうど良いから、俺のために死んでみるのも良いんじゃないのか?」
「何を言っているんだ! 蘭堂君! 君は血迷ったのかぁ!!」
「まゆおばさん」
「はいはい。あなた、朝春ちゃんの邪魔しちゃ駄目よ~?」
「蘭堂君、正気かい? この子は君の家族同然の存在なんだろう? 今更嫌ったフリをしたところでバレバレなんだよ?」
「ねねを家族と言ったのは事実だけど、考えてみれば血が繋がってないし? さっき言ったように小学生時代は結構いじめられてたからさぁ。よくよく考えたら、人質にされたねねを救うほどの義理はねぇなぁって思ったわけだよ」
「それが君の本心だと、そう受け取って良いんだね?」
「良いも悪いも、今のそいつは自衛隊の預かりだし。もう家族じゃねぇよ」
「と、朝春……」
「大体、散々俺をいじめてたにも関わらず、俺に告白するような恥知らずだ。生き死になんて興味ねぇよ」
「うぅ……朝春、ごめん……ごめんなさい……」
「蘭堂君! いくら何でも女性に向かって言い過ぎじゃないか!?」
「男だ女だは関係ない! エリー! 犬飼紅葉を処分しろ!!」
追加で投与した胡椒&赤唐辛子の粉末で痙攣を持続する犬飼紅葉。正気を取り戻すこと無く、やがて命を刈り取られる事には同情を禁じ得ないが、彼女がこれまで犯してきた罪を鑑みれば、まだしも真っ当な処分だと言える。
「待て! 蘭堂君! 取引をしよう!」
今、まさに犬飼紅葉の首を刈ろうとしていたエリーの手が、ピタリと止まった。
「却下。犬飼紅葉は今殺す。エリーじゃ力不足か? じゃあ健治さん、ひと思いにやっちゃって下さい」
「待て待て待て! 僕の話を聞いてくれ!」
「だから却下だって言ってるだろう。何だったら空間転移で犬飼紅葉の身柄を強奪したら良いんじゃないか?」
「それはさっきから試しているが、空間転移が発動しないんだ! 君たちが何か妨害しているんだろう!」
あきらさんに視線を向けるが、彼女は肩をすくめるだけだ。
犬飼信道の空間転移を阻害している何者かがこの場に存在しているのか?
「健治さん、お願いします」
「あ、ああ。本当に良いんだな? この女性は殺すに値する、犯罪者なんだな!?」
「待て待て待て! おっさん! あんたこの娘の親だろ!? お前が姉さんを殺したら、僕はおっさんの娘を殺すぞ!」
どさくさに紛れて有耶無耶になっていた状況を犬飼信道が暴露したおかげで、健治さんが正しい判断を得る事となってしまった。
硬直する健治さん。娘の命が左右される場面では躊躇するのも止む無しか。
しょうがない。犬飼信道をさらに追い詰める為に、用意していた言葉を発する。
「あきらさん、完全変化に要する時間は?」
「六十秒ほどかと」
「じゃあスタートして。犬飼信道、六十秒以内にお前の進退を決めろ。徹底抗戦か服従か」
犬飼紅葉の生殺与奪権をこちらが握っている以上、彼に反論の余地は無い。尤もそれは、ねねを見捨てるというこちらの方針があってこそなのだが。
「蘭堂君、交渉しよう。お互い、人質の命を奪うのは禍根が残ると思うんだ」
「却下。あと五十秒」
この期に及んで交渉とか、やっぱり犬飼信道は素人か。守るべきモノと捨てるべきモノの取捨選択がまるで出来ていない。普通に戦ったらそれなりに強いんだろうけど、裏方にまわった時点でお前の命運は尽きたと言って良い。
「僕達は敵対してしまったけど、今からでも話し合いで分かり合えると思うんだ! 暴力は良く無いよね!?」
「テロリストに言われたくねぇよ。あと四十秒」
「姉さんを殺したら、この少女を殺すぞ! そうしたら全面戦争だ! お前のせいでこの女が死ぬんだぞ! 分かっているのか!?」
「大勢を救うためにはやむを得ない犠牲だ。なぁ? ねね?」
「……ええ、そうね。訓練して、鉄砲片手に大活躍する予定だったけど、テロリストの人質として、あんたの前で華々しく散るのもまぁ、悪くは無いかもね」
「お前等正気か……!!」
正気でゾンビ世界を生きていける訳がないだろう。お前は未だに旧世界、平和な世界の常識で生きているのかと激しく問い詰めたいな。
へ……へぁ……ぷちゅん!
胡椒と唐辛子の過剰摂取で意識を失っていた犬飼紅葉が正気を取り戻したようだ。
「……は! ここは……!? そうだ! あたしは……くちゅん! 目が! 目が痛いぃ!!」
「あと二十秒」
「本気なんだな、蘭堂君! 君は、この少女を見殺しにするんだな!」
「殺すのはお前だ、犬飼信道。お前の判断で宮湖橋ねねは死ぬ。殺すのはお前だ」
「……!!」
「あと十秒」
犬飼信道が最終的な判断を下す事を躊躇っているのはあきらかで。ならば彼の背中を後押しするのも現場の指揮官としての役割ではないだろうか。
最上さんに目配せをして、硬直した状況にトドメを刺す事を決めた。彼に対する敵対行為に他ならないだろうが、それでも彼を後押ししてくれると信じて、最上さんの助けを以てして行為に及ぶ。
具体的には、犬飼紅葉の顔面に、胡椒と唐辛子の粉末を大量に振りかけた。
「くちゅん!! 目ぇ! ごほっ! 目が!! がはっ!! ぷちゅん! 痛い! へぷちゅん! た、助けてぇ!!」
「分かった! 全面的に負けを認める! だから姉さんを解放してくれぇ!!」
……勝った。『王階級』相手に負けを認めさせた。彼等が約束を反故にする事は間違い無いだろうが、今、この瞬間は俺達がテロリスト達に勝利したんだ。
犬飼姉弟は両手を後ろで縛られて地面に座っている。
彼等の手を縛ったところで何の意味も無いが、形式として縛り、縄を引きちぎった時には叛意有りとみなして健治さんが対応する事になった。
正直、彼だけでは対応出来ないと思うが、それは言わないでおこう。
ちなみに犬飼紅葉の介抱にはもの凄く手間が掛かった。暴れる彼女をあきらさんと健治さんで取り押さえて、犬飼信道の手も借りた位だ。
信道には姉を取り押さえる役と説得する役を担って貰い、彼女の顔面に残留した辛み成分と胡椒を洗い流す事になんとか成功。紅葉の正気を取り戻す事が出来た。そんな裏話があり、俺も暴れる紅葉に軽い蹴りを喰らったが、これは後の笑い話となるだろう。
彼等の身柄は自衛隊の大宮駐屯地を経由して、それなりの施設に移送されるらしいが……はっきり言って『王階級』である彼等を拘束出来る設備が存在しない。
端的に言えば、犯罪者である彼等はその気になれば、移送中にでも逃げ出す事が叶う。
一応、負けを認めて従順になっているが、姉の犬飼紅葉は不満げで反抗的な態度を取っている。弟の信道がなだめているようだが、現場の自衛官たる、小林一佐達は苦労しているようだ。
九月二十一日。午前七時。
犬飼姉弟との交渉を終えてゾンビを撤退させた後に、周囲の安全を確認している最中に日が昇った。
『完全変化』したあきらさんはその力を振るう事無く事態は収まり、今日はゾンビ達が荒らした現場の後処理をするべく働いている。俺は眠い。
「バリケードが崩されていますね。早急に処置をするべきですが……自分の判断で進めて良いでしょうか?」
「日七さん、お昼ご飯のスープに鶏ガラを使いたいんですけど。鶏ガラはどこにあるんですか?」
女性陣が後始末に追われる中、小林一佐と完全に空気だった田楽寺大根さん達が伴って俺に与えられた部屋に訪れてきた。
エリーは炊事の手伝いをしていて、俺の傍らにはあきらさんが控えている。
マンションの自室ならばともかく、戦場となったこの場所で、信用に値しない連中が大勢いる状況で、あきらさんとエリーに、俺と部屋を別にするという選択肢は無かったようだ。
彼女達上位種は寝ないでも問題無いようだが……俺の両端で横になる彼女達に対して、その身体の柔らかさを堪能したいという気持ちと拒絶された時のショックを天秤に掛けて……結果、何も出来ずに朝まで硬直していた俺を、世の高校二年生がどれ程までに非難出来るだろうか!?
俺は十七歳男子として欲望に負けること無く理性を保ったと、たかが一晩の出来事とは言え、後世に誇るべき偉業なのではないだろうか!?
「偉業じゃねぇよ。お前がヘタレなだけだって」
拘束されて部屋の隅っこに転がっている犬飼紅葉を無視して、小林一佐に視線を向ける。
結局、手錠でも鎖でも犬飼姉弟を拘束する事は不可能で、姉の紅葉の洗脳能力、弟の信道の空間転移が俺の側では発動出来ないという事実に何故か辿り着いたようだ。俺はごく一般的な抗体者の筈なのに……解せぬ。
なので対応策が講じられるまで、危険な能力を封じる意味でも俺が彼等の側に居なければならない……と、判断されてしまった。俺の貴重な睡眠時間と引き換えにして、だ。
それを踏まえてのあきらさんとエリーの同室なのだが。まぁ、多くを語るべきでは無いだろう。大事なのはこれからだ。
「朝早くに申し訳ありません。犬飼姉弟の処遇と、その……」
「小林一佐?」
先程の粗野な発言をした人物と同一人物のはずなのだが。言葉遣いによるギャップが激しすぎる件について、いずれ話し合いたいと思う。切に思う。
「蘭堂君の……精密検査を……命令されました……」
小林一佐が苦しそうに発言した。
「精密検査? お断りします」
ショックを受ける小林一佐。彼の立場であれば上の決定を俺に課すのが務めであって、現場の……特に俺の意志は関係無い。むしろ説得に失敗したと、小林一佐が罰を喰らうケースだろう。
「この場で採血くらいなら協力しますけど、俺達は今日帰ります。俺は契約した上位種が多いんで、今日明日にでも血を提供しないと命に関わるのが居るんですよ」
勿論嘘だが、数日中に血を与えないとヤバいのが祭さんと若葉さんだったかな? 普通の食事は彼女達にとっては嗜好品に過ぎない。生きるために必要なモノは契約者たる、抗体者の生き血。最低でも週に一度、百ミリリットル程度を俺の体から直接吸わないと、身体を維持できないらしい。
そのローテーションで、次の番が祭さんと若葉さんだと言うだけの話だ。
上位種は狼だったり幽霊だったり色々あるが、何故か生命維持に関しては全員揃って吸血性のようだ。何とも奥が深い。
閑話休題。
涙目で喚く小林一佐の話を完全拒否。
昨日までの事態は落ち着き、ようやく平穏な気持ちを取り戻すことが出来た。
取り敢えずベランダに出て朝の光を……
「朝日奈ひなたさん?」
既に痴女の第一人者と言っても良いであろう、ベランダで日光浴を満喫する、ハイレグバニーガールの彼女に声を掛ける。
「少年か……今、私は風を感じている。何気ない、普段感じる風と同じ筈なのに、いつもより心地良く感じるんだ。
昨日は私の未熟さを改めて思い知ったが、同時に自分の殻を……薄皮程度は破れたと自負している! こんなに清々しい朝は初めてだ!」
そういうポエムは求めていないから。更に、朝方のベランダでニヤニヤしているバニーガールの痴女がここにいる。通報は免れまい。
「いや、待て、少年。私の開放感と猥褻物陳列罪を同等に考えているようだが、それは根本的に違うモノだぞ?」
俺的には同じだと思うし、あんたが痴女だという認識は正しいと確信しているんだけど?
俺とバニーガールの口論はしばらく続いた。




