ひとときの恋
「こちらへ」
騎士はステラの手を引いて立ち上がらせる。騎士服の上着を脱いでステラに羽織らせると、手をつないだまま周囲の侍女には目もくれず歩き出した。騎士の流れるような動作に圧倒されたステラは、彼に手を引かれるがまま会話もなく歩き続けた。騎士が足を止めたのは、王女宮のはずれにある人気のない裏庭の四阿で、長椅子に座るよう促された。
「…ありがとうございました」
長椅子に座り、俯いたまま泣くステラに騎士は何も言わずただ寄り添っていてくれた。騎士に感謝の言葉を告げることができるようになる頃にはステラの心もだいぶ落ち着きを取り戻していた。
「少しは落ち着かれましたか?」
「はい。大丈夫です」
そう言って長椅子から立ち上がった時、ステラは騎士の上着を羽織らされていることに気付きぎょっとした。
「あ、これ、特別な騎士服!!」
やってしまった、とステラは慌てて騎士が羽織らせてくれた上着を脱いで、汚していないか確認をする。この国の騎士は基本的に皆同じ制服なのだが、王族の側近の騎士にのみ主君から賜った特別な騎士服を身に纏うことが許されている。
「大変ご迷惑をおかけして申し訳ございませ、へっくっしゅん!」
ステラは勢いよく頭をさげて謝罪の言葉を言い切る前に、全身に寒気が走りくしゃみと震えが止まらない。
「少し失礼します」
くしゃみをしながらもひたすら頭をさげて謝り続けるステラに、騎士は苦笑して彼女の返事も聞かずに手を引いて軽く抱き締めた。突然のことにぎょっとして固まるステラの耳元で騎士が何やら呪文のような言葉を囁く。すると、先ほどまで感じていた寒さがやわらぎ身体の震えも止まった。どうして、と驚いたステラの心中を察したのか騎士は語る。
「火と洗浄魔法の応用です。汚れを洗い流して、暖めました」
「…凄い」
「本当はすぐに湯浴みをされた方が良いのですが難しいでしょうから」
確かにステラのような下級侍女は上級侍女の湯浴みが終わってからでないと浴場を利用できないうえ、その頃には湯は冷めて温くなっているのでずぶ濡れのままだと確実に風邪を引いてしまっただろう。
「本当にありがとうございます。とても助かりました」
「いえ、お気になさらず。では、仕事がありますので私は戻ります」
「お仕事中にご迷惑をおかけしました」
ステラは深々と頭をさげて、立ち去る騎士を見送った。
ステラの窮地を助けてくれた若くて美しい男の人。恐らくステラよりずっと身分が上であるのに、身分が下の侍女にも気さくで親切な優しい人。
「また、会えるかな…」
下女を使ってステラに嫌がらせをしようとした上級侍女にとって、騎士が助けに入ってきたのは想定外だったはず。しかも、彼は若くて美しい容姿のうえ、王族の側近。きっと今頃は腸が煮えくりかえるような思いだろう。明日から更に嫌がらせが酷くなることは必至だ。
けれど、そんなことが些細に思えるほどステラの心にあるのは今日出会ったばかりの名前も知らない騎士だった。
また、彼に会いたい。話したい。彼のことを知りたい。手を繋いで一緒に歩いてみたい。ステラの胸中にはそんな初めての感情が溢れて止まない。
しばらくして、ステラを救った騎士こそが姉レイアの想い人であるヴェルヌ侯爵家の次男ヒースクリフであることを知る頃には、彼に対する想いは強固になっていた。
ステラはヒースクリフへの想いに"恋"と名前を付けた。けして叶う見込みもない不毛な恋。今のステラにあるのは父よりも年上の男と結婚する未来だけ。王宮で侍女として仕えるのは結婚する十八歳までと決まっている。ならば、それまでのほんのひとときだけでも、この恋を胸に抱くくらいは許されるはずだと、ステラは自分自身を許した。
* * * *
第二王子レイモンドの成人を祝う舞踏会で婚約者が決められるらしい、という噂をステラが知ったのは舞踏会の開催まで半月を切った頃のことだった。多くの上級侍女の令嬢が舞踏会の準備のために実家へと帰省して、仕事が増えた時に気付いた。
レイモンドは金髪碧眼で母親である正妃譲りの整った容姿と明るく社交的な性格という、誰もが想像する理想の王子を具現化したような人物だ。彼の側近も王子と同様に麗しい貴公子が揃っており、今の社交界における中心で貴族令嬢たちの憧れの存在だ。ステラも王宮内で遠目に王子とその側近たちを眺めたことがあるが、中々に強烈な存在感を放っていた。
舞踏会で婚約者を決める、とはいっても実際はかなり前から婚約者候補の令嬢は数名決まっていて、彼女たちは幼い頃から王族に嫁ぐのに相応しい教育を受けている。婚約者候補に選ばれているのは深窓の令嬢ばかり。この国で王宮に侍女として出仕するのは中・下流の貴族令嬢か裕福な家庭の平民の娘なので王子の婚約者を決める舞踏会は本来、何も関係がない。彼女たちの真の狙いは王子ではなく、その側近たちの婚約者の座だ。
(あの方が結婚するのも時間の問題かもしれない)
舞踏会の参加者が利用する控え室の掃除をしていたステラは、ふと手を止めてため息を吐いた。
ステラが第二王子の側近をつとめる騎士ヒースクリフに恋をして二年。遠目に彼の姿を見たことはあれど、初対面で助けられて以降は一度も言葉を交わしていない。
ヒースクリフは今年で二十一歳。婚約者も特定の恋人もいないらしいが、この国の貴族の婚姻は早く、結婚して後継となる子どもを立派に育て上げてこそ一人前とされる風潮が強い。王族の側近ならば結婚は必須だ。第二王子の側近の中でも図抜けて有能の上、美しい容姿という完璧な人。彼の隣に立つ女性はきっと美しく素敵な人だろう。ステラは居もしない、想い人の恋仲の女性を想像して打ちひしがれた。
(あと少しだけ。私が侍女を辞める時まで誰のものにもならなければいいのに)
季節が二つ過ぎればステラは十八歳。結婚の日取りも既に両親と婚約者の男の間で決められている。婚約者とは父に命じられてふた月に一回、休日に会っていて、会う度に未来に絶望する。婚約者が生理的に無理なのだ。五十も年が離れているのに関わらず、ステラを性的な目で見ている。これまでは手を出して来なかったのだが、結婚まで一年を切って、婚約者は会う度に口づけを迫ってくるようになった。
恐らく防衛反応なのだろう。ステラは初めて口づけられて以降、婚約者と会った記憶はすぐに忘れてしまうようになった。彼女は嫌なことは忘れるという術を得て、これまで生きてきたのだ。
幸いと言って良いのか、此度の舞踏会にヒースクリフは侯爵家の令息としてではなく、第二王子の護衛騎士として出席する。貴族令嬢との接触も皆無ではないだろうが、常識があれば任務中の騎士に無駄口を叩く者は少ないだろう。その事実にステラは酷く安堵していた。
昔読んだ恋愛小説のヒロインは己の幸せよりも想い人の幸福を祈っていた。好きな人が幸せならば、自分ではない別の人と結ばれても祝福していた。けれど、今のステラにはヒースクリフの幸せを祈ることができそうにない。叶う訳がない恋だと解っているのに心のどこかで幼い頃、母が眠る前によく語った御伽噺に出てくる騎士のように、ステラを不幸から救ってくれないかと期待しているのだ。
「私を好きになってくれたらいいのに」
自身の願望を声に出して、ありえない話だと自嘲する。
許されるのなら本当にあと少しだけでいいから、夢を見させてほしい。今だけでいい、あとほんの少しだけで良いから恋愛小説のヒロインのように恋に浮かれていたい。
きっと幸せな恋の記憶があれば、これから先の未来を生きていけるから。結婚したら自分の立場や現実を自覚して、彼の幸せを祈るから。