麗しの騎士様
ステラが彼の騎士の存在を知ったのは、彼女より半年先に生まれた三番目の姉からの命令がきっかけだった。
貴族令嬢の一番大切な役目は、婚姻により他家との縁を繋ぐことである。
リュシェール子爵家にはステラの他に正妻である夫人が生んだ三人の令嬢がいた。ステラが年配の金持ち商人と婚約して王宮で侍女として働き始めた頃、器量良しの一番上の姉は社交デビューしてすぐにとある伯爵家の跡取りに見初められて結婚、二番目の姉は幼馴染みで同格の子爵家の跡取りと結婚をしていたが、三番目の姉はまだ未婚だった。
三番目の姉レイアは二人の姉より十歳近く年が離れていた上、他の兄姉たちが子爵とおなじ黒髪黒眼であるのに対して、レイアだけが夫人と同じ金髪碧眼であり容姿も似ていたことから、夫人は彼女を溺愛していた。レイアが子爵の持ってくる縁談話を相手が気に入らないと拒絶してもっと自分にふさわしい人を夫にしたいと無茶苦茶なことを言っても夫人は彼女の味方であったし、子爵も上の二人の姉がきちんとした相手のもとへ嫁いでいたので何も言わなかった。元々、貧乏子爵家の三女という身分で届く縁談話は家格としても低い子爵、男爵家か裕福な商家など貴族家以外で貴族の娘を妻にして箔をつけるためのものばかり。子爵はレイアがもし高位の貴族に見初められたら儲けものぐらいに考えていたのだ。
夫人は金に糸目をつけずにレイアを着飾らせて、貴族令嬢の集まる茶会へ出席させて高位貴族とのつながりをつくるために画策をした。後になってわかったことだが、レイアのための交際費で膨らんだ多額の負債はすべてステラとの婚約という条件で彼女の婚約者になった金持ち商人に支払わせていた。
レイアが恋に落ちたのは、王宮で行われた第三王女のお茶会に出席したときのこと。レイアは夫人との大金をつぎ込んだ社交の成果により名門伯爵家の令嬢と親しくなった。そして、その令嬢は王女とも交流があり、王女が開くお茶会にレイアを招待するように頼んで了承されたのだ。王女が暮らす王女宮の薔薇園で開かれた茶会には、第三王女と同腹の第二王子レイモンドもひそかに招かれていた。レイアは第二王子が連れてきていた側近の近衛騎士に一目惚れをしたのだ。
≪第二王子殿下の側近である近衛騎士ヒースクリフ様の情報を集めて私に報告をしなさい≫
ステラのもとへレイアからの手紙が届いたのは、下級侍女として働き始めて半年が過ぎた頃、上級侍女の画策で友人のリジーと仲違いしてリジーが実家に帰ってすぐの頃だった。
「まったく無茶なことを…」
王宮で働き始めてから初めて届いた手紙に、もしや父からの手紙かと期待したものが姉からの一方的な命令書であったことにステラは溜め息を吐いた。少し前まで仲が良かったリジーはよく実家と手紙のやり取りをしていた。気の弱いリジーが王宮で働けるのかと家族はとても心配したそうで、リジーはいつまでも子ども扱いをされて恥ずかしいと苦笑いをしていたが、ステラは羨ましくて仕方がなかった。ステラに無関心な父が娘を心配するような手紙を出すはずはないと解っていたが、もしかしてと心の隅では思っていたのだ。
「王族に側近として仕える人間を下っ端侍女にどうやって調べろというの」
ステラは今、完全に使用人たちの輪から孤立している。先日、リジーとの一件でそれまで上級侍女に理不尽に虐められるステラを不憫に思いフォローしてくれた同僚の侍女もステラに嫌悪感を抱いて避けている。そもそも、侍女になってからの執拗な嫌がらせはレイアと親しい上級侍女が中心となっていた。ステラが周囲から完全に孤立するような状況を間接的に作ったレイアが、ステラに情報集めを迫る理不尽に目の前が赤くなり、レイアからの手紙を細かく破り捨てた。
レイアの想い人の情報集めは結果からいうと、簡単に終わった。レイアの想い人は、ステラが知らないだけで国中の未婚の令嬢に人気の有名人だったのだ。少し注意して侍女の世間話に耳を澄ませていると、彼の人の話題は頻繁に出ていた。
第二王子の側近である近衛騎士ヒースクリフは、国内有数の名門ヴェルヌ侯爵家の次男でステラやレイアより四つ年上。闇夜のような漆黒の髪と瞳は涼やかで理知的、そのうえ剣術、魔術の才能もずば抜けている。容姿の美しいものが多い第二王子の側近の中でも飛びぬけた美丈夫であるが、騎士としての使命を全うするため婚約者はおろか恋人もいないとなれば、令嬢からの人気も納得だ。噂では彼に懸想している王女もいるらしい。
「王女殿下に想われるような美しい騎士なんてどんな方なんだろう」
ステラは侍女たちの噂話の中から信憑性のあるものを箇条書きにして、レイア宛の手紙をしたためて送った。レイアは自身の美貌に相当な自信を持っているようだが、正直ヒースクリフは多少美しかろうが貧乏な子爵令嬢の手が届くような人物ではない。さっさと諦めて相応の婚約相手を探す方が良いと思うが、レイアがステラの意見に耳を貸すはずがない。
王女の暮らす王女宮の最北にある部屋の掃除を命じられたステラが仕事を終えたのは夕暮れ時だった。
王女宮といえど王族の暮らす空間への出入りが許される使用人は爵位の高い上級侍女のようなごく一部だけ。ステラは広い王女宮の中でもあまり人気のないような辺鄙な部屋の清掃をはじめ面倒ごとばかりを押し付けられており、王族はおろか身分の低い使用人以外と出会うことはほとんどなかった。
一日の仕事を終えて、夕食を食べるため使用人の居住区近くにある食堂へ向かう回廊の隅をステラは歩いていると、ふと違和感を感じた。同僚から仕事を押し付けられるステラはいつも居残って仕事をしているため、終業後に回廊で人とすれ違うことは殆どないのだが今日はちらほらと人気がある。
以前、侍女長が侍女を召集したときにわざとステラだけに伝えられず、召集をすっぽかしたとして叱責を受けたことがあったのだ。また何かステラにだけ知らされていないことがあるのだろうか。一体何があったのだろうか、と考え込んで注意が散漫になっていたステラは突然ずぶ濡れになった。
「え…」
いきなりのことにステラはふらついて転んだ。と、周囲からクスクスと笑い声が聞こえる。ステラが目線を上げると目の前にはバケツを手に泣きそうな顔で震える若い下女がいた。
「まあ、可哀想に」
「大丈夫かしら?」
「あら、いやだ。汚れた臭いがするわ」
ステラに声をかけたのは、ステラと同じ下級侍女だった。言葉尻は心配そうにしているが、ずぶ濡れで項垂れているステラがよほど愉快なのか忍び笑いが隠せていない。
簡単な話だ。身分の低い下女にステラに水をかけるように侍女が命じたのだ。しかも、ぶっかけられたのは雑巾を洗った汚れた水のようで酷い臭いがした。
(どうして、こんな目に…)
今まで事実無根の噂を流されたり、仕事を押し付けられたり、無視をされたことはあったがここまで直接的な仕打ちにあったことはなかった。
「……助けて」
あまりの屈辱に目の前が赤くなり目頭が熱くなる。泣きたくないのに涙が溢れてきた。
「手を」
聞き覚えのない男の声に、ステラは驚いて涙を拭い顔を上げた。近衛騎士の制服を身にまとった漆黒の美しい騎士がステラの目線に合うように腰を落として手をさしのべていた。
「早く、手を」
突然の事態に動けずにいるステラに、騎士はもう一度言葉少なに声をかける。その声にステラはあわてて騎士の手に手のひらを重ねると、騎士はほんの少し柔らかく笑った。その笑みにステラは思わず見惚れ、心が甘く疼いた。