8-5.泉のほとり
一人で森を早駆けするのは久しぶりだった。
なんだかんだ言って、施設の見学や舞踏会、人と会うことばかりで、周遊に来てからもう一ヶ月、馬に乗っていなかった。それを言うなら、ルーカスとの婚約が決まってからここ三ヶ月、忙しくて森へ足を運ぶこともなかった。
何て気持ちいいんだろう。
クロエはウキウキしながら馬を飛ばした。馬もクロエの気持ちをわかるかのように、気持ちよく走ってくれる。
これが密猟者を探すためじゃなければ良かったのに。
例えばルーカスと二人でもいい。令嬢が森を早駆けしていいのなら。
気がつくと、泉についていた。
少しだけ空気が冷たく、静かだった。誰もいない。少数の動物が、泉に水を飲みに来ては去っていく。
クロエは少しホッとして馬から降りて、そばの木に軽くつないだ。遠くで猟銃の音が数発し、鳥が飛んだ。
みんなは大丈夫かしら。
心配を抱えたまま歩き出したクロエは、泉の中に見たことのない水生植物を確認した。
あれは何かしら?
クロエはそうっと泉に近づき、その輝くような花を観察した。ハスの花のようではあるが、随分と小さく、また、花びらが透けるように輝いていた。
何かの変種? 特定植物なのかしら?
クロエが我を忘れて手を伸ばすと、何かに引っかかった。しまった、と思うより早く、何かが飛んできた。弓矢だった。侵入者用のトラップかもしれない。クロエは慌てて逃げようとして、足を踏み外した。
手を伸ばした先に、わずかに触れた。
これはガラスだわ。このガラス細工を作る移動民族を、知っている気がする……
そして、泉の中へ、ドブンと落ちてしまったのだった。
☆☆☆☆☆☆☆
気がつくと、透き通るように白い肌に黒い髪の少女が、クロエを覗き込んでいた。
「大丈夫?」
「私……?」
クロエが起き上がる間、彼女は説明してくれた。
「トラップに引っかかったの。あたしらが作ったやつ」
「あなたたちが……?」
やっぱりそうなのね。あの花は彼らが作ったんだわ。本物じゃないなんてがっかり。クロエが肩を落としていると、彼女は改めて話を続けた。
「あたしたち、ここへ数日お邪魔してるの。その間は、あのガラスのハスの花を置いて、弓を引く罠に引っかかるようにしてるんだ。知ってる? ”定住地を持たない民族”テプラ」
「あぁ、……聞いたことがあるわ。あなたたちなの?」
クロエは頷いて頭を整理した。
”テプラ”、自由を謳歌し、享楽的で定住しない民族。森を荒らし、家畜を盗み、金を奪う。だが、それは彼らの一面でしかない。定住する自分たちに犯罪者がいるように、彼らの中にも、善良な者はいる。
それが机上で学んだ知識だ。
……彼女は? どちら側なの?
「そう。あたしたち。今、ちょっとだけ森にいるの。あの音、何? あたしたちを捕まえに来たの? 一応、悪いことしてないけど」
クロエは首を横に振った。髪から水が滴り落ちた。それを見て、彼女がゴアゴアのタオルでクロエの頭を拭いた。
「違うわ。密猟者がいたみたいなの。それで……私たち、捕まえに」
「なるほどね! 密猟は悪いことだ! そりゃ捕まえないと」
少女は明るく、利発的で好ましかった。クロエが思わず微笑むと、彼女も困ったように微笑んだ。
「でも、困るわぁ……もう少しいたいんだけど、見つかったら移動しなきゃならないんだもん」
「……話し合いができると聞いたけど……そうね、そういう決まりだわ」
「うん。あたしたちはテプラの中でもちゃんとルールを守ってるよ。だから、そんなに嫌がられない。ダメなグループもいるんだ。それは謝る。でも、そんなの、定住してるあんたたちと同じだよね? 悪い人も良い人もいる」
「えぇ、そうね……でも、どうして? いつもはルールを守るんでしょう?」
クロエは首を傾げた。服もびしょびしょだ。少女がタオルと服で吸い取ってくれるが、どれだけ乾くのだろうか。
「うーん……実はね、あたしのねーさんが出産したばかりなの。ちょっと早産でさ。実はね、そういう時、長くいていいよって言ってくれる農場へ行くんだけど、その前に、出てきちゃったんだ。もう少し、ねーさんと赤ん坊が落ち着くまでここにいたくて。数日。いいかな?」
出産。それは一大事だ。でも、クロエに頼まれてもどうにもできない。おそらく、権限はハンジ・キルシュシュタイン博士と、アッカーソン夫妻にある。最終的には、ここを治める領主に。
「私には……そんな権限はないのよ」
「えぇ?! でも、そんな猟銃抱えて、豪勢なドレス着て、バッチリこの周辺を守る人っぽいけど? 何? 手伝い? そんなにその密猟者は厄介なの?」
「たまたま……私、隣の国の人間なのよ。視察ってわかる? 国を代表して、国同士が本当にうまくやってるか確認しに来ていて……その息抜きに、森の植物研究所を見に来たの。そうしたら、密猟者がいるというから、みんなで捕まえようとしてるだけ。あなたたちは関係ないわ」
すると少女は目を輝かせ、頬を紅潮させた。
「国の代表なんて、すっごく偉いんだね! そしたら、……あたしたちのことも、見逃せないよね……」
「私のこと、仲間ではないとわかってたでしょう? それなのに、どうして助けてくれたの?」
クロエの質問に、彼女は舌を出した。
「みんなは放っておけって言ったんだけど。でも、追い払いたい気持ちはあったけど、死なせたいわけじゃない。うっかり足を踏み外したら泉に落ちるなんて、考えなしだった。身軽な山の人ならともかく、あんたみたいなドレスを着てたら水を含んだ服の重みで沈んじゃう。そんなの、嫌だった」
「そう……」
髪から滴り落ちる水も、ドレスが含んでしまった水も、少女が懸命に拭いてくれたおかげで、かなりなくなった。警戒心の弱いクロエが、失敗しただけなのにもかかわらず。彼女たちにとって、見つかったら死活問題なのに。




