1-6.欲張り屋と花束
「ええ、もちろん。私も大ごとにしたくありませんの。誰にとっても、気持ちのいいことじゃありませんから」
クロエは頷くと、今度は、安心させるようにポールの顔を見た。ポールが泣きながら、クロエを見ていた。
「先ほど、私の侍女が同じくらい枝振りの立派な、同じ薔薇の木を探してきましたわ。知り合いの園芸家が育てていたものです。そちらを譲っていただいて、植え替えようと思います。ポール、していただけますか?」
「は、はい、喜んで!」
あと少しだ。
「そして、あなたが捨ててしまおうとした花の方は……」
クロエが言いかけると、それを遮るように男性が進み出てきた。
「これは君に贈ろう、クロエ」
さっと差し出された花束は、豪華なアプリコット色の幾重にも花びらが重なった薔薇の塊で、これこそまさしく、侯爵夫人の好む薔薇だった。
「……ルーカス様!」
クロエの驚きの声に、二重に驚愕したニックは卒倒しそうになってよろけた。ルーカスはその腕をつかんで無理に立たせると、彼の耳元で囁いた。
「……失せろ。二度と私の家に足を踏み入れるな。自分の婚約者ばかりか、無関係なクロエ嬢を陥れようとするなど、言語道断だ。私の大事なクロエ嬢の名誉を汚そうとする奴は許さない」
脅し過ぎだ。クロエは思ったが、口を挟むとややこしくなりそうなので諦めた。
こういう人には、多少オーバーに言ったほうがいいのだろう。だが、”私の大事な”とか、そこまで大げさに言わなくてもいいと思うけれど。どちらかといえばただの元使い走りだ。そういう意味では、まぁ、大事なのかもしれない。
だが功を奏したようで、ニックは逃げるようにその場を駈け去った。
憧れのルーカスとようやく話すことができたのに。かわいそうに。
ちらりと見ると、ニックの婚約者、水色ドレスの令嬢が、サラたちに抱えられている。あんな男忘れなさい、と力強く言ってる声も聞こえた。頼もしい。
あぁ。ニックにトドメを刺すのは自分がやりたかったのに。
クロエは不満に思ったが、仕方がない。ルーカスのおかげでこの場の雰囲気も変わった。感謝こそすれ、不満に思うことなどできない。クロエは自分に言い聞かせながら、ルーカスをみつめた。
星の輝きのある榛色の瞳が、ちょっと癖のあるセピア色の髪の間から覗いている。それがキラキラの笑顔だとしたら、見惚れない人間などいない。今だって、クロエたちを取り巻いていた女性も男性も、みんな虜になったようにルーカスを見ているのだ。
ルーカスは本当に人に好かれる。この場の誰もが、ルーカスに目を輝かせて、自分に注目してほしいと願う。
多分、そういう何か、フェロモンのような……オーラのようなものを出しているのだろう。
みんなが近づきになりたいと思う存在なのだが、交友関係が狭く、人前に出ない。その上、そういったやり取りに無頓着だ。それゆえ、嫉妬もされるし、憎まれもする。さっきみたいに。でもそんなの、ごく一部だ。
クロエはルーカスと顔を合わせたこの一瞬で、過去の記憶が鮮明に蘇った。
「久しぶりだね、クロエ」
言いながら艶やかに微笑むルーカスは、いつも一緒に遊んでいた幼い頃の彼そのものだった。
あの頃は身分差も人の目も、気にならなかった。令嬢らしくないクロエを認めてくれて、とても優しかったのだ。
……嫌な思い出ばかりだと思ってた。
例えば、お茶会に出るのが大嫌いなままだった少し成長した頃。面倒だから行かない、自分の代わりによろしく言っといてと頼まれ、何も考えていなかったクロエは、頼まれるままに伝言していた。まるで婚約者だ、と言われ、ようやく、とんでもないことをしていたと気づいたり。
社交界に出るようになれば、ルーカスと話すだけで睨まれて、それどころかルーカスはそっけなくて、ついには、つきまとっていると根も葉もない噂を流されたり。
果ては悪役令嬢にまでなってしまった。
だから、ルーカスに振り回されるのはごめんだと思っていたのに。
久しぶりにまともに顔を合わせたら、優しい記憶ばかり思い起こされるなんて。
その思い出はクロエを狼狽させた。
あの頃のルーカスはどこへ行ってしまったんだろう。そして、あの頃のクロエは?
「久しぶりにクロエに会えると思って、急いで戻ってきたんだ。戻ってきて正解だった」
我に返ったクロエは、思わず叫びそうになって口をきつく閉じた。
無理に戻ってきたの? 何してるの、この人の従者は! 誰だったかしら? あぁ、ギャレットっていったかしらね! 有能なのに何やってるのよ!
そして、呼吸を整えて穏やかに頭を下げた。
「ご無沙汰しております、ルーカス様」
「クロエ、この薔薇をもらってくれるよね?」
手を出さないままのクロエに、ルーカスは強引にも花束を差し出してきた。
困ったわ。
視線だけ動かせば、マリアンヌはホッとしたようににこりと微笑んでいた。ルーカスがきて安心、という顔だ。
良かった。二人の絆はちゃんとあるのね。クロエもホッとして笑顔を返した。あまりにも他の令嬢たちから言われるので、マリアンヌとルーカスが結婚しないんじゃないかと心配していたのだ。
クロエは安心して会話を続けた。
「身に余る光栄、大変に嬉しゅうございますが、こんなに美しい薔薇の花、私にはもったいのうございますわ。私は身の潔白が証明できれば充分でございます。ルーカス様がお渡しになりたい他の女性に、お渡しになってくださいませ」
そしてクロエは暗にマリアンヌを目で示した。しかし、ルーカスはいたずらっぽく微笑んだだけだった。
気づいてよ! この鈍感!
「何を言うんだ、クロエ? それならもちろん、君だよ。これは母のために君が選んだ花だ。君が持つにふさわしい。君もこの花を好きなのは知ってるんだから」
そりゃ、好きだけど。お勧めしたのももちろん覚えているけれど。花が好きだからもらえたというだけなのなら、評判で苦労はしない。
思いながら、クロエはこの幼馴染を見た。
だいたい、なんでいるの???? 今日は父親である侯爵について行って、留守なのでは?
そうでなくても、いつもまとわりつく令嬢が面倒だからって、お茶会なんて参加しないじゃない。いつだって姿を見せないのに……そう思ったのは、顔に出ていないはずだ。
「君が貰ってくれれば、母も喜ぶ。母は、同じ庭園愛好家として、君のことを気にかけているからね」
言うと、ルーカスは魅惑的に笑った。
いつ見ても、この笑顔ひとつで小さな国がひとつくらい買えるんじゃないかと思う。