3-5.噂をすれば影
「ヒィ」
ベンジャミンの声にクロエは顔を上げた。指が痛い。そこで初めて、クロエは自分がイライラで爪を割りかけていたことに気づいた。
「ルーカス……?」
ベンジャミンの手を掴んで彼を睨むように見ていたのは、ルーカスだった。先ほどの会話の中心人物、まさしく、噂をすれば影、だ。相変わらず見目麗しく、どこから見ても完璧だ。
え、ちょっと何しに来たの?
ベンジャミンに会いに来たとか?
「こんなところでなにをしてるんだ、ベンジー」
違うらしい。
しかも言葉に棘がある。クロエは突然のルーカスの登場に心臓をバクバクさせながら、ベンジャミンが答えるのを眺めた。
「……いや、なにも。幼馴染との再会を楽しんでるだけだけど?」
「俺は?」
「さっき会いに行ったけど、留守だったんだ」
「クロエより先?」
「先」
「なら許す」
「なんだそれ」
笑いながら、ベンジャミンがクロエとの間の席を指さして、クロエに顔を向けた。
「座ってもらってもいい?」
ルーカスはクロエに恐る恐る視線を送ってきた。
いくら状況が気に入らないとはいえ、侯爵家の人間に帰れなど言えるはずもない。
クロエは頷きつつ、うんざりして顔を背けた。ルーカスはつまらなそうに頬を膨らませ、ドスンと椅子に座った。
だいたい、なんで来たの? 昨日の今日で、プロポーズは撤回しますってご丁寧に言いに来たのかしら? 文書で済ませればいいのに会いに来るなんて、混乱させて、何がしたいの? ……そうか、手紙が届かなかったから、警戒しているんだわ。だったらやっぱり、撤回の連絡ね。
「みんなで会いたかったから、俺としては嬉しいね」
険悪ムードのクロエとルーカスを前に、まるで気づいていないかのように、ベンジャミンは微笑んだ。
すぐに執事がお茶を持ってやってくる。ベンジャミンが、彼に乾杯の酒を持ってくるように伝えた。ここはクロエの家だが勝手知ったる幼馴染の家。ベンジャミンが気安く社交的なのは変わらない。
「久しぶりなんだし、乾杯でもしようじゃないか」
ご機嫌なのはベンジャミンだけ。ルーカスは不機嫌。クロエだって不機嫌だ。
……というか、どうしてルーカスが不機嫌なの? 撤回するなら、ここは機嫌よく、笑顔でさらっと流してくれないと。
「ベン、さっきの話だけど」
「え、何?」
ベンジャミンがぎょっとした顔でクロエを見た。
「メリットが何もないの。だから私は嫌なの」
「でも楽しいだろ?」
「……距離を置きたい」
クロエのため息交じりの言い方に、ベンジャミンは吹き出した。
「それ、まるで倦怠期の夫婦みたいじゃないか」
止めてよ、とクロエが言う前に、急に、ルーカスがクロエの手を握ってきた。
「え、どうしたの、ルーカス?」
クロエが驚いてルーカスを見ると、ルーカスも驚いた顔でクロエを見ていた。その手は、クロエの割れそうな爪を労るように、優しく包み込んだ。
「……なんでもないよ」
嘘。嘘だ。爪が割れそうなのが気になるんじゃないの?
でもクロエはそれを追求できなかった。ルーカスのことで悩んでるなんて知られたくない。惨めな思いをするのはたくさんだ。けど……ルーカスは最近、ずいぶんおかしい。クロエの知っている姿と違う。手の温もりは変わらないのに。
クロエは心配になってルーカスを見たが、彼はすぐにベンジャミンと話を始めた。クロエの手を握ったまま。
「あちらはどうだった?」
「楽しかったよ。ルーカスもくると良かったのに」
「うーん……僕、勉強はそんなに好きじゃないからね」
「それだけじゃないよ。見聞を広めたり、人脈を広めたり、することはたくさんある」
「でもクロエはいないじゃないか」
言ってから、しまったと言いたげにルーカスはクロエを見たが、クロエはルーカスが思わずがっかりするほど、ぼんやりしていた。ルーカスが手を握りなおし、指でスルスルと撫でても変わらなかった。
クロエはただ思い出したのだ。
そういえば、ルーカスってもともと、そういうところがあったんだった。ベンジャミンとクロエに依存しがちで。でも、いつも一緒にいたいわけじゃない。
忘れてた。だって、ずっと疎遠だったから。




