3-4.爪の音
その声の低さに、クロエ本人も驚いたし、ベンジャミンは笑顔が固まっていた。そう、クロエが本気で怒るのは珍しい。心配そうに、ベンジャミンが話を引き取った。
「で……でも、クロエはルーカスを嫌いじゃないだろう? そうしたら、結婚でもなんでもすればいい。ルーカスはいいやつだし、それは俺も保証するよ」
「ルーカスはいい人よ、でもダメよ」
「どうして?」
クロエは、それには答えず、テーブルをコツコツと指で叩いた。
なんと言ったらいいのだろう?
見目も肩書きも何もかも、クロエが劣ってみっともないから?
悪役令嬢と結婚なんて、ルーカスの評判を落としたくないから?
クロエはプラントハンターの仲介者として、一人で生きていきたいから?
ルーカスが言う探偵になりたくないから?
「……もっとお似合いの人がいるから」
「そうかい?」
「ルーカスは……なんでもできて、誰にでも好かれる人だもの。実際は人嫌いで怠け者で面倒くさがりだけど、そんなの、誰にもわからないでしょうし、ルーカスだって隠して生きていけるでしょう」
クロエの爪の音がコツコツと響いた。
「あぁ、……そうだね」
「あなたはいいわ、同性だもの。でも私は違うの。だから距離を置いていたのに。ルーカスったら、人前で私にプロポーズなんてするのよ? 引き返せないじゃない。そりゃ、あの時は犯人が諭されたところだったし、好意的に受け止めてくれた人も多かったけど、全体で言えば一握りよ、そんなの。こないだの舞踏会では針の筵だったわ。ルーカスなんていなくって、弟と一緒に行っただけなのに」
クロエはため息をついた。ベンジャミンは軽く笑った。
「つまり、ルーカスの評判が落ちるのが許せないと」
「そんなんじゃ……」
「じゃ、いいじゃないか。それくらいで落ちるような評判なら、ルーカスだってそれだけの男だってことだろう?」
「違うってば。私よりふさわしい人がいるって、みんな思ってるはずだもの!」
「婚約してしまえば、諦めるんじゃない?」
「そういう問題ではないの。私はマリアンヌ様とルーカス、二人がお似合いだと思ってるし……大半がそう思ってるわ。でも当のマリアンヌ様は、なにも言わないのよ。それどころか、婚約式はいつにするのかって聞いてくるのよ? おかしいでしょ?」
「別におかしくないよ」
「おかしいわよ。だいたいね、私の評判なんて全然良くないのに……私が悪役令嬢として嫌われていて、マリアンヌ様は憧れの令嬢として嫉妬されていて、それで私たちは冤罪をつけられそうになって、すごく困ってるっていうのに」
急にベンジャミンが顔を上げ、クロエを見た。クロエの爪の音が強くなったり弱くなったりしていた。
「君とマリアンヌ嬢が? 二人とも? さっきはそんなこと言ってなかったろ?」
「そうだった? 私に悪意があってマリアンヌ様を脅して罪を犯させたとか、無邪気なマリアンヌ様に私が罪を押し付けようとしたとか、いろいろよ。なぜかマリアンヌ様が矛先に上がって……でも全く関係ない人が犯人なの。私とマリアンヌ様、そして別の方を陥れようとして、あれこれと手を考えるみたいで。私が解決することで、みんな助かってるけど……」
そこでクロエは思い出した。
「そうなのよ。助けた令嬢方は、ありがたいことに私を信じてくれるようになったわ。でも、彼女たちは逆にマリアンヌ様を信じていなくて……今、マリアンヌ派とクロエ派で分かれてしまっているみたいなの。なんでか全然わからない。それも問題でしょ。だって、私と比べ物にならないくらい、マリアンヌ様は本当に素敵な子なのよ。マリアンヌ様を好きな方からすれば、私は邪魔者よ。それに悪役令嬢だし、世に必要ないとまで思っているかも。そうしたら、彼女のために、私をどうにかするなんてこと、なくはないでしょ。それも嫌なのよ。マリアンヌ様のせいみたいになっちゃう」
「そんなこと……」
ベンジャミンは言いかけたが、途中で唸ってやめてしまった。テーブルを叩く音がまだコツコツと響く。
そう、ないとは言い切れないから。彼女が最高だという評判を守るために、誰かがその障害物を排除しようとしても、不思議はない。
クロエはしょんぼりとして、独り言のように続けた。
「私は女性だから庶民になったとしても、庭師になるにはハードルが高いわ……でも、令嬢のままなら、庭いじりはできる。うちの庭なら、ある程度私は自由にできるし……そもそも、結婚なんてしたくない」
「あぁ、そうだったな……プラントハンターになりたいって言ってたもんな」
クロエは顔を上げた。
「覚えてたのね」
ルーカスは覚えてなかったみたいだけど。
「俺が留学する時に泣きながら言われたからね、そりゃ覚えてるよ」
「あら。そうだった?」
言いながら、クロエは爪でずっとテーブルを叩いていた。カツカツとかなり強い音がし始めたが、無意識なので気づかなかった。ベンジャミンは一瞥しだたけで、止めるのをひとまず諦めた。
「侯爵夫人だって、マリアンヌ様が大好きなのよ。彼女とルーカスが結婚したら、いい家庭が築けるのはわかってるじゃない。なのに、探偵になる私を支援するために、結婚したいと言い出したのよ? 探偵の助手になりたいとか言って。幼馴染だから楽だとでも思ってるのかしら……!」
カッカッカッカッと爪がテーブルを叩く音が、さらに響く。ベンジャミンが顔をしかめた。
「クロエ、気持ちはわかるけど」
これ以上やったら爪が割れる、と意を決して伸ばされたベンジャミンの手が、クロエの手に重なった。
とその時、その手を暗い影がゆっくりと引き上げた。




