ending story 彼女はプラントハンターになりたいのであって探偵になりたいわけではない
クロエ視点の小話です。
ベンジャミンもマリアンヌも帰ってしまい、また二人になった居間で、クロエは届いた荷物を開けて喜びと驚きの混じった声をあげた。
「まぁ! 最新の研究結果ですって!」
すると、ルーカスは不思議そうに顔を上げた。
「ふーん?」
「ほら! グレッグ様よ。グレゴリー・アレント研究主任ですって!」
「グレッグ? そんなに親しかった?」
「あら、ジーク様がおっしゃったじゃない。ルーにもそう呼んで欲しいって……」
「でもクロエ……」
ルーカスは不愉快そうに顔をしかめたが、クロエは聞いていられなかった。
だって、研究書よ! 憧れの! 買うととっても高いのに、献本してもらえるなんて!
「”弱い遺伝子情報の品種改良の株分けについて”……ピンクマリアンヌのような花は意外とできるんですけど、品種改良の難しい花でも、美しくてバリエーションを求められていますもの……ちょっと温室で読んできます!」
「クロエ!」
ルーカスが呼ぶのも気にならず、クロエは駈け出すように居間を出て行った。
温室のソファにうつ伏せに横になると、クロエは早速、本を開いた。パラパラと髪が本にかかるが、本を読むには問題はなかった。興味深い内容で、クロエはワクワクしながら読み進んだ。
だが、食事をした後なのが悪かった。
クロエはしばらくすると、すやすやと寝息を立てていたのだった。
夢の中で、額に柔らかい感触があった。
それは何度もふわふわと感じられ、そのうちこめかみにも移った。髪が耳にかけられ、柔らかい感触は頬にも移動していく。踊るように、丁寧に優しく、ふわふわと心地いい。
これは一体何だろう。品種改良された新しいバラかもしれない。あのベルベットみたいな美しい花びらが妖精になって、クロエに教えてくれているよう。
何よりも大切よ。大好きよ。だから心配しないで。きっと幸せになれる。あなたを愛しているわ。いつも、いつでも……
「起きた?」
ハッと目を開いたクロエが目を上げると、クロエの頭はルーカスの膝の上に乗っていた。
「よく寝ていたね」
目が合ったルーカスがクロエの頭を撫でながら、片手で本を支え、微笑んでいた。
「寝て……」
「そうだよ。何をしているのかと思ったけど、気持ち良さそうに眠ってた」
「本……」
「これ? 面白いね。本当に興味深い仕事だ。クロエはどのくらい興味があるのかな」
クロエは慌ててルーカスの手を払いのけ、起き上がった。ルーカスの視線が甘くて見上げていられない、というか、膝枕とか恥ずかしすぎる。あれだけ勇んで読み始めたのに、10ページと進まず眠ってしまうなんて。
「え? えぇ、もちろん興味深いと思ってるわ。でも、どちらかといえば、何ていうか……品種改良より分類の方が好きなの」
「分類?」
「新発見の植物の分類よ。植生と近似の植物を確認して分類して、……そしたら、進化の過程がわかったり、品種改良のヒントにもなるでしょう?」
「う……うん」
わかったようなわからないような表情で、ルーカスは相槌を打った。クロエはもちろん、わかるはずもないと思っていたが、そのまま話続けた。一から説明したくても、ルーカスは興味がないだろう。
「でも私、やっぱり植物全般の最新情報を知りたいから。だから、最先端の国立研究所のトップ研究者の著者が送られてくるなんて、嬉しくて!」
「そうか」
「ええ、だから一人で読みたかったの。……怒ってる?」
クロエはルーカスの目にかかる前髪を少しあげた。ルーカスの頬がピクリと動いた。やっぱり怒ってるんだわ。
しかし、ルーカスはすぐに優しく微笑み、クロエの腕を引っ張った。そして、自分にクロエを引き寄せた。
「いいや。怒ってなんかないよ。どうして?」
「だっていつもは、こんな風に追いかけて温室なんて来ないでしょ。もしかして……私に何か話があったのに、私が勝手に来てしまったからかしら?」
「違う……けど……まぁ、……それでもいいよ、クロエの寝顔が可愛かったから来てよかった」
「ひどいわ。勝手に膝枕なんてして」
「いいじゃないか。僕たちは婚約しているんだし、帰ったら結婚するんだし」
「最近、そればっかり」
「だって、嬉しいんだよ。結婚式をしたら休暇が取れるから、そうしたら一緒に」
「探偵はやらないわよ」
「えっ」
クロエはため息をついた。
「言ったでしょ。プラントハンターならすぐにやりたいって。ねぇ、あなたと結婚するからには、秘書にあなたを雇えるのよね? そうしたら、休暇には一緒に植物を探しに行きましょう。あなたの領地や……未開の手つかずの山なんか、特に行ってみたいわね」
「でも、リチャード王太子殿下だって、君には探偵が似合うって言ってたじゃないか。殿下のご意見はごもっともだと思わない? それに、やりたい仕事とできる仕事が違うのは、よくあることだよ」
「だとしたって……」
クロエだって、すでに諦めた前線のプラントハンターになろうとは、もう思っていない。今回の周遊で、やっぱり向いていないことがわかったのだ。クロエはルーカスのそばにいる方が楽しいし、元気になれる。もう影で見守らないで、隣で一緒に前を向いていきたい。
そうすれば、クロエは幸せだ。だってルーカスが大切だから。何よりも、誰よりも。大切で、大好きで……
クロエは思わず頬に手を当てた。ルーカスがその手を優しく包んだ。
「クロエ……頬が気になる?」
「う……ん……」
「どうして?」
優しいルーカスの声に、先ほど見た夢が思い出された。ルーカスはバラの妖精なんかじゃないのに、変ね。
「バラの花びらが……たくさん……落ちてきた」
「……バラ?」
「うん。柔らかくて優しいふんわりした花びらが落ちてきて……」
クロエが思い出してうっとりすると、ルーカスも同じくらいうっとりとクロエを見た。うっとりは伝染するのか。困ったことだ。うっとりしたルーカスはものすごく色気があってドキドキしてしまうことを、絶対に知られちゃいけない。
「それで?」
「妖精が私を大好きだって」
「あ……そう?」
「ええ。素敵な夢だったわ。バラの妖精が愛してるって言ってくれるなんて、そうそうないわよね? あら、ルーカス、顔が赤いわね」
クロエが目を瞬かせると、ルーカスは少し俯いて視線を逸らした。珍しい。
「他になんて言ってた?」
「うーん……幸せになれるよ、だから心配しないで……って、これはあれかしら。植物の女王、バラの妖精が言うんですもの、きっと私が温室に適した植物を揃えられるってことよね!」
クロエがソファから立ち上がり、跳ねるようにガッツポーズをとると、ルーカスは諦めたように同意した。
「そうだね。そうに違いないよ」
「……なんでルーカスは顔を赤くしてるの?」
クロエの言葉に答えず、ルーカスは額を押さえてぶつぶつとつぶやいていた。
「我ながら……聞いてないと思って下手なことを」
「何かあったの? 具合が悪そうよ」
クロエがルーカスの頬に手を当てると、ルーカスが恨みがましくクロエを見た。
「クロエ。僕は熱もないし病気でもない」
「そう?」
そしてふと、クロエはこんなことが前にもあったと思い出した。
「そういえば、前に庭園で……」
言いかけたクロエを遮るように、ルーカスはふっと笑った。
「いや……病気にかかってるな」
「何の? お医者さんを呼ぶ?」
「いいや。いらないよ。治療方法はわかってるんだ」
「何?」
「クロエ」
「私?」
「僕はクロエと離れたくない病にかかってる。だから、クロエがそばにいてくれないと、具合が悪くなって、頭も悪くなる」
「あら」
「ついでに、性格も悪くなって、口も悪くなるよ」
「まぁ」
自信満々に言ってのけるルーカスを、クロエは半信半疑で見つめた。
そんなこと、ルーカスができると思う?
何もしなくても、すぐに仕事モードになって、無意識に最善の力を尽くしてしまうのに?
どんな時だって礼儀を忘れないし、口が悪いルーカスなんて見たことがない。だいたい、悪い言葉なんて知ってるのかしら?
でもクロエは、こういう時の対処方法を、もう理解していた。
なので、ただにっこりと笑って、頷いてこう言った。
「そうね、ルーカス。だったら私、ずっとルーカスのそばにいるわ」
するとルーカスは少し拗ねた顔をして、クロエを優しく抱きしめた。
「早く帰ろう、クロエ。そしたらすぐに結婚式だ」
ご愛読ありがとうございました。