16-2.行ってらっしゃい
「クロエ……行ってくる」
「行ってらっしゃい」
しばらく経って、クロエはもう一度ルーカスに言った。
「……行ってらっしゃい」
行ってくると言っている割に、ルーカスはクロエにべったりくっついて、離れようとしない。
「ねぇ、行くんでしょう? もう急がないとならないんじゃない?」
「大丈夫」
「まさか、何か……変なこと考えてないでしょうね?」
「変なことって?」
ルーカスがクロエの額の生え際に、優しく口づけた。そしてゆっくりとこめかみに移動する。クロエはこそばゆい気持ちを覚えながら、話を続けた。
「私がとんでもない悪女だと言いふらしたり、逆に聖女だと言い出したり……」
「そんなこと、しないよ」
「本当?」
「しない」
言いながら、ルーカスは満足げにため息をついて、クロエの頬に口づけをし、クロエの真正面に顔を近づけた。近い。クロエは緊張しながら、視線を落として、ルーカスの胸元に置いた自分に手を見つめた。
「何かするなら、ちゃんと教えて」
「うん。そうする。クロエには全部話す。嘘はつかない」
「そうして」
「隠しても無駄だってことがわかったからね。僕の優秀な探偵さん」
「それは違う」
「違わない。クロエを大切にする。舞踏会でも誰とも踊らない」
「そこは踊って欲しいわ」
「何で」
「私はルーカスが踊ってるのを見るのが好きだからよ。特にマリアンヌ様と踊ってる姿はやっぱり一番素晴らしかったわ。二人ともお上手だし、とてもお似合いで、そこだけ別空間みたいに麗しくて……」
「ねぇ、クロエ?」
「はい?」
「僕と結婚するんだよね?」
言うとルーカスは、クロエの唇に軽く自分の唇を重ね、すぐにクロエの目を覗き込んだ。
「ね?」
あまりに不意打ちで、クロエは一瞬、何が何だかわからなかった。
「……そうね?」
「だからあんまり、僕を怒らせることは言わないで」
「怒るようなこと、言った?」
「僕とマリアンヌ嬢がお似合いだとかなんとか……」
「あら……どうして怒るの? 本当に素敵だったのに」
「僕はクロエに褒めてもらうのはなんだって嬉しいけど、……でもやっぱり、ちょっとやだな」
「そう? ならやめておくわ」
本当ならもっと言いたかったんだけど……やはり、言わないほうがいいのだろう。二人があんまりにもお似合いで、麗しくて完璧だったから、クロエはなんとなく寂しくなってしまったなんて言ったら、怒ってこの後の予定をしないと言い出すかもしれない。
でも、あの時はそう思ったのだ。やっぱりマリアンヌはクロエとは違う、天性の美しさと魅力が備わっているのだと。逆立ちしたって、ルーカスの隣に立ってお似合いだと言われることはないのだと、胸がちくりとしたのだった。
「……素敵すぎて、ちょっと寂しかったから……もうルーカスとは踊れないと思って……」
しまった。思い出していたら口から出てしまった。
クロエが慌てて口を噤むと、ルーカスは首を傾げた。
「ふぅん?」
「ごめんなさい、やめるって言ったのに」
「寂しくて、踊れないと思って、それで?」
クロエは眉をひそめた。
「……聞きたくないんじゃなかったの?」
「気が変わった」
「気まぐれね。でももう言わないわ。早く行ってらっしゃい」
「ねぇクロエ」
「早く。きっとベンが困ってるわよ。男爵令息を待たせるつもり? 約束は守って。仕事でしょ? 私たちも後から行くのだから、夕食には会えるでしょう?」
「わかったよ」
名残惜しそうに、ルーカスはクロエを離し、部屋から出て行った。ドアのところで振り返り、クロエに声をかけた。
「早く戻るから」
「ゆっくりしてきていいわよ。私だって、準備があるんだから」
クロエは廊下に消えるルーカスの背中を、ぼんやりと眺めた。
本当にルーカスは昔と変わらないわね……いいえ、変わったわ。キスしたわよね? さっき、唇に……なんなのあれは。あんなことする子じゃなかったじゃない……
クロエは思わず口元に手を当てた。柔らかい感触、もっとして欲しいような恥ずかしいような……
うん。ノーカウントね。そうよ、ノーカウントだわ!
クロエは頷き、部屋を出て行った。