16-1.遠乗りの前に
王宮での舞踏会から離れて二週間、クロエたちは元の生活を取り戻していた。
マリアンヌもそろそろ帰る頃で、ベンジャミンも、次の仕事を機会に教授のいる大学へ戻ると言っている。今回は、山の散策とそこを管理している男爵家の訪問だ。
「若旦那様、ベンジャミン様。馬のご用意ができました。このあとは遠乗りのご予定がございます。侍女はお嬢様たちに同行いたしますが、従者は同行しない、プライベートなものでよろしいでしょうか」
朝食の後、リビングで話をしていると、執事が恭しく頭を下げた。ルーカスが頷くと、ジェイコブは話を続けた。
「お住まいになられる男爵のご子息が、ご案内してくださる予定です。そろそろお迎えに来る頃でしょう。お嬢様方は男爵家へお茶に向かい、夜は男爵家でご夕食の後、ご宿泊、明日、再度の散策後、お帰りいただく予定になっております」
「……わかった。準備をしよう」
ルーカスとベンジャミンが立ち上がり、ドアに向かった。すると、マリアンヌが楽しそうに声をあげた。
「……私! お食事の準備を見てまいりますわ。ランチを持っていかれるんですよね? お二人が好きなものが入っているか、確認させてください」
そしてマリアンヌは目を輝かせて立ち上がり、あっという間に二人を追い抜いて厨房へ行ってしまった。
「元気だな……」
唖然としてベンジャミンが言い、あくびをしながらドアの向こうに消えた。
あの二人、本当に、全然進展してないのね……
クロエが呆れて見ていると、部屋を出るところでルーカスが振り返った。
「クロエ、本当に行かないの?」
「行かないわ。マリアンヌ様が男爵家でお一人になってはかわいそうだもの。でも明日は行くからね。片側は残しておいて! 絶対よ?」
クロエが言うと、ルーカスは破顔して嬉しそうに頷いた。
「うん、もちろん。他には?」
言いながら、ルーカスはクロエに足早に近づいた。クロエは首をかしげながら考えている。
「えぇと……そうね、どんな花が咲いていたか、教えて。草木の区別はつかないだろうけど、花はわかるでしょ。黄色かったとか青かったとか、ゆりみたいだったとかタンポポみたいだったとか、それくらいは」
「うん、わかる。覚えてくるよ。他は?」
ルーカスはクロエの腕を取ると、クロエを促すように見た。
「他に? ……そんなにないわ。頼まれても困るでしょう?」
「ううん、困らないよ。なんだって聞いてあげるから」
「でも」
「いいんだよ、帰りに街まで行ってドレスを買ってこいって言ってくれても。僕は宝石でもお菓子でもなんでも買ってくる。ウサギを獲ってきたっていいし、もちろん、植物を買ってきたっていい」
クロエは驚いて思わず一蹴してしまった。
「……いらないわ!」
というか、どれだけの用件をこなすつもりなんだ。できるわけないだろうに。
何か言われるかと思ったが、ルーカスはつまらなそうに肩をすくめただけだった。
「残念だな」
「なんで急にそんな……今まで頼んだことなんてないでしょう?」
「でも、クロエにおねだりされるのが嬉しいんだ。もっとおねだりして?」
「やぁよ。そんなことになったら、私の悪役令嬢っぷりに拍車がかかるわ」
クロエがため息をつくと、ルーカスはクククと笑った。
「僕に大金を使わせてるって?」
「そう」
「ドレスだって宝石だって植物だって、大した金額にならないじゃないか」
「大した金額よ。あなたの家の感覚とは違うの」
「でも」
「あのパリュールだって、すごい値段なのよ! あげもしないのに二十の若造があんな高い髪留め買う? それで引き出しに押し込んでおくなんて、おかしいわよ」
クロエがルーカスの顔に指を突き立てると、ルーカスはしょんぼりと視線を落とした。
「だって……クロエはもらってくれないと思った」
「どうして。五年前は、何も知らなかったでしょう?」
「僕の誕生日には踊ってくれたけど、……君は他の男の方が仲が良かった」
「……他の男?」
「僕も忘れた。でも優しくていい男だった。クロエは誕生日に、その男から何かもらってた」
「??」
「誕生日よりちょっと早いけどって、お茶会で、何か……」
クロエは考えて、あっ、と思いついた。
「あぁ、あれは……!」
でも他の男だなんて、何を言っているんだか。
「呆れた。あなた、自分の義理の兄の顔も覚えてないの?」
「え?」
「あの頃は、あなたのお姉さまが結婚なさったでしょう。その時に、私、花嫁のお手伝いをしたのよ。覚えてる? だから、そのお礼をいただいたのよ。あなたのお姉さまと同じブローチを」
「……義理の兄……?」
「外国の王子だもの、その後、あまりお会いになれないから、きっと忘れてしまったのでしょうね……」
それにしたって忘れるなんておかしいけど。
「とにかく、早く準備に行ってらして。あまり遅くなっては、ベンも男爵もお困りになるわ」
「見送りしてくれる?」
「このあと温室で植物のチェックをしたいから……」
「わかった。植物は優先事項だ。もめたくない。じゃ、ここで見送りの挨拶をしよう」
言うと、ルーカスはクロエを抱きしめた。