血命戦争⑦『氷点下の真夏』
薄暗い地下室の中を、張り詰めた空気が支配する。
「なに、大人しくしていればひと思いに殺してやるさ」
男はコートを脱ぐ。
露わになったのは、もはや人間という種から外れた体。
ボディペイントされたかのようなように白い肌に、蛇のように這う剥き出しの血管。
それは、『上級喰種』であった末樹恭弥の身体的特徴と完全に一致していた。
(なんとかして、逃げなければ……!)
相手が『上級喰種』であるならば、彼我の戦力差は絶望的。
義堂は必死の状況の中、状況打開のため脳をフル回転させた。
今いる地下室自体は、それなりに広い。
まだ相手との距離が十分に離れている以上、一定の間合いを維持するのはそう難しくはないだろう。
しかし、問題は地下室からの離脱。
目の前の男が入り口を背にして立っている限り、脱出は不可能だ。
なんとかして位置を変えさせる必要がある――
そう思い、義堂が懐の拳銃に手を掛けた時。
――メキィッ!
金属がひしゃげる音が響いた。
「うむ、これでとりあえずセキュリティは万全だな。
次からは鍵をつけないと」
うんうん、と自分で納得したように呟く『上級喰種』の男。
その手元には――ねじ曲がったドアノブがあった。
「な……!」
「何を、驚いてるんだ? お前ら人間も獲物を仕留める時よくやるだろ? まず逃げ道を塞ぐって。
まさか、それすら分らなくなってしまったか?
本当、これだから人間は……やめて正解だったよ」
太い指で後頭部をボリボリ掻きつつ、男は二人の下へと歩み寄る。
これで、そのまま逃げるという選択肢は不可能となった。
相手を倒すか、少なくとも長時間行動不能にするしかこの場を切り抜ける方法はない。
眼前に迫る死という現実に抗いながらも、義堂は冷静に状況の分析を続ける。
今の持ち物は……拳銃とスマートフォン。
非常時に備えてスーツの中に防弾チョッキも着込んでいるが、おそらく気休めにもならないだろう。
相方である水野加奈については、現在は顔面蒼白で戦意を喪失。
とてもじゃないが戦力には数えられない。気絶していないだけ幾分マシか。
となると現状最善手と言えるのが応援の要請であるが、それを許すほど相手もお人好しではないはず。
つまりどちらにせよ、多少の時間を稼ぐ必要がある。
義堂は拳銃を男に向かって構えた。
「健気だなぁ。そんな玩具取り出し、『バァン!!』……それに、ずいぶんとせっかちだ。
こっちが話している最中に撃つなんて、行儀が悪すぎる」
義堂の放った銃弾は、見事相手の眉間に命中した。
普通の人間であれば、間違いなく即死するはずの一撃。
しかし『上級喰種』である男はそれを特に気にもすることなく、静かに構え始めた。
しゃがみ込み、手をつき、頭を向ける。
その構えは、一言でいえば相撲の立ち合い。
「さて、いい加減おしゃべりはここまでにして……そろそろいくぞぉ!」
瞬間、あまりにもまっすぐな殺気が義堂に迫った。
「!? マズい、伏せろッ!」
その叫びと共に、義堂は加奈を抱えて横に飛んだ。
刹那、今まで二人がいた空間を巨体が抉った。その後、凄まじい破壊音と共に地下室が揺れる。
「おや、避けられたか……意外と反射神経がいい」
男は頭に積もったコンクリート片を手で払った。
「なんて……身体能力だ」
義堂は立ち上がりながら、『上級喰種』を再びその視界に収めた。
相手は高速で壁へと激突したのにもかかわらず、傷一つ負っていない。
だが壁に広がる凹み、ひび割れは今の突進の衝撃を如実に語っている。
その光景は、嫌でも自身が人外の化け物と対峙しているという現実を認識させた。
義堂は再び拳銃を構えようとするが、ここで違和感に気付いた。
(指が、上手く動かない……!?)
それは、恐怖心で指先が硬直するのとは違う。
言うなれば……まるで、左手の指が完全に拳銃に張り付いてしまったような感覚。
義堂は慌てて構えを解き、手元を見つめた。
「なんだ、これは……」
目に映ったのは、氷によって張り付いた指だった。
さらにそれを自覚した瞬間、ようやく自身の体がとてつもない冷気に覆われていることに気付く。
「さ、寒い……!」
隣では加奈が顔を青ざめながら歯を震わせていた。
「ようやく気付いたか。意外と鈍いな、お前」
まるで地を這う羽虫を嘲笑うかのように、男は二人を遠くから見下ろす。
「『異能』か……!」
「ああ、そうだ。これが俺の力。
部屋の中を好きなだけ冷やすことができるのさ。
しかも俺自身はその影響を受けないでいることができる。
どうだ、今日みたいな暑い日にはありがたくて涙が出るだろう?」
そう言って男はゆっくりと歩み寄った。
急激な室温の低下により室内には霜が広がり、空気中には結晶が舞う。
あまりの体はもうほとんど動かない。
絶望的な状況。
「くそっ……!」
しかし、まだ諦めるわけにはいかない。
義堂は拳銃を構え、引き金に張り付いた人差し指を必死に押し込んだ。
だが拳銃自体が完全に凍り付いてしまっているため、引き金はビクともしない。
「ハハハ、健気健気。
そうだな……お前のそのガッツに免じて、磨り潰すのは勘弁してやる。
このまま冷凍されるのを眺めていた方が、何倍も面白そうだ」
男はニヤリと笑い、その場に佇む。
どうやら高見の見物を決め込むようだ。
なんとも趣味の悪い話ではあるが、義堂にとっては好都合。
(仕方ない……『アレ』を、使うしかないか)
義堂は右手で懐をまさぐり、取り出したのは一つの小瓶。
懐に忍ばせていたおかげで幸い中身はまだ凍っていない。しかし凍るのは時間の問題だろう。
義堂は急いで蓋を抜き、
「……信じるぞ、八坂」
中に入っている赤い液体を一気に流し込んだ。
瞬間、体が瞬時に沸騰したかのようにカッと熱くなる。
「今、何をした?
もしや、それがお前の『異能』なのか?」
「何、今のはただの薬さ。
ただし――」
この氷点下の空間においても、体が軽い。そしてなりより、力が漲ってくる。
ならばやることは一つ――!
「この世界の代物では、ないらしいがなっ!」
凍った床がひび割れるほどの踏み込みを以て、義堂は一気に間合いを詰めた。
義堂が今飲んだ液体、その名は『下級物理強化薬』。
これは服用した者の身体能力を一時的に向上させるマジックアイテムであり、もしもの時のために英人が作成し、渡しておいたものだ。
「チィッ!」
男は迎撃のために右ストレートを繰り出す。
圧倒的な膂力から放たれるその拳は、常人であれば視界に収めることすら不可能。
しかし、
(敵の拳が見える……行けるぞ!)
たとえ下級であっても、現実世界の人間にとってその効果は絶大だった。
『下級物理強化薬』によって強化された動体視力は、まるでスローモーションのようにその右ストレートを捉えた。
義堂は軌道を見極め、あえてギリギリのところでそれを躱す。
「外した……!?」
渾身の右ストレートを空振りした男は、致命的な隙を晒した。
無論、それを見逃す義堂ではない。
「おおおおおおお!!」
叫び声と共に伸び切った右腕を両手に抱え、背中越しに相手を担ぐ。
その技は、柔道でいうところの一本背負い。
相手は体重200kgはあろうかという巨体だが、磨かれた柔道の技術と強化された肉体があれば、容易にそれは持ち上がる。
「うおおおっ!?」
常人の三倍はあろうかという肉体が、宙に浮く。
男の目に映るのは、天と地が激しく入れ替わるという、生まれて初めて見る光景。
しかしそんな景色を堪能する間もないまま――頭から叩きつけられた。
一本背負いとは、本来ならば肩か背中から落とす技。
しかし今回の相手は人外、義堂に手加減する余裕はない。
「まだッ……!」
義堂の腕には脳天が割れる嫌な感触が伝わるが、まだ攻撃の手を緩めるわけにはいかない。
義堂はそのまま立ち上がり、仰向けに倒れた敵の足を持つ。
そして、
「ハアッ!!」
膝の皿を思い切り踏み潰した。
ぶちり、という靭帯の切れる音が景気よく響く。
これで、相手の機動力は削いだ。
すぐに再生してしまうだろうが、ある程度は時間を稼げるはずだ。
義堂は顔を見上げ、加奈の様子を見る。
「ハァ……、ハァ……」
凍えて倒れ込んでいるようだが、まだ息はある。
「待っていろ、今すぐここから出る……!」
義堂はすぐさま彼女を抱え、出口へと向かった。
今の強化された状態なら、壊れたドアごと蹴破って出られるはず。
しかし、
「くッ……な、何!?」
突然足が動かなくなり、つまずく形で義堂はその場に膝をついた。
何事かと思い足元を見ると、両足が脛の辺りまで氷漬けになっている。
なんとか足に力を込めて氷を剥がそうとするが、強化された脚力を以てしてもビクともしない。
そうして時間を取られているうちに、回復した男が立ち上がった。
「いかんいかん、つい油断してしまった……。意外とやるなお前。
だがもう手は抜かん、最大出力でこの部屋を冷やす。
お前は凍って死ね……!」
見下していた人間に文字通り一本取られたからか、口調に反してその表情は憤怒に歪んでいた。
さらに彼の怒りと反比例するように、地下室内は急激に冷やされていく。
まるで、空気すら凍ってしまったかのような空間。
あまりの寒さに、強化された体ですら言うことを聞かない。
両足を覆う氷は徐々に義堂の体を侵食し、膝まで登る。
奥の手である『下級物理強化薬』が通用しなかった以上、義堂にもう打つ手はない。
(万事休す、か)
後ろからは怒りに燃える人外が迫る。
最早二人の運命は誰の目にも明らかだった。
「すまない、八坂」
覚悟を決めたように義堂は目を瞑る。
何とか彼女だけでも、と加奈の凍える体を固く抱きしめた――
その瞬間。
――ガァン!!
閉ざされた筈のドアが勢いよく吹っ飛んだ。
「助けに来ました! 大丈夫ですか!」
一人の青年が義堂たちの下へと駆け寄る。
「き、君は……?」
それは初対面の義堂から見ても即座に美形だと判断できるほど、整った顔。
そして――
「俺、新藤幹也って言います!」
そこには赤く輝く瞳と、発達した牙が備えられていた。




