京都英雄百鬼夜行㊲『繋ぐ命』
『大封印』跡より溢れる邪念が、一層その勢いを増していく。
時間的な余裕はもう幾ばくもない。
白秋は苗木を握り、静かに歩を進め出した。
「……義父さん」
「……何だ」
白秋は歩みを止め、僅かに振り返る。
そこでは息子である金秋の嫁、長津純子がこらえるような表情で白秋を見つめていた。
「行くんですか、どうしても」
「ああ、無論だ」
その言葉に、純子は悔しさとやりきれなさを滲ませながら目を伏せる。
「何で、何でこんな……!
金秋さんといい、私の近くの人間ばかり……っ!」
「……これは、驚いたな。
あの一件以来、てっきり嫌われていると思っていたが」
「金秋さんの死で変わってしまったのは、私も同じです。
だから気が引けて……これまでずっと距離を……!
でも……」
純子は顔を上げる。
「ようやくそれを乗り越えて、先に進もうとした矢先に……!
こんなの、こんなの……!」
その瞳に、じんわりと涙が滲む。
元々、長津純子は誰よりも優しい人間だった。
異能課での振る舞いは彼女本来の姿ではなく、亡き夫の理想と信念を護るため必死に作り上げてきた仮面に過ぎなかったなのだ。
もう二度と涙を流さぬように、そしてもう誰も失わぬように。
「……済まぬな。
気づかぬ内に、色んなものを背負わせてしまっていた」
「義父さん……っ!」
「そして愚かにも今また、お主に背負わせようとしている。
我ながらどうしようもなく不器用で、罪深きことだ……。
だがそれでも、あえてお主に言おう」
白秋は身体を正面に向け、純子の顔をまっすぐに見据える。
「彼らを、頼んだ」
「……!」
純子ははっとした後、強く目を瞑った。
彼ら――それは言わずとも分かる。
部下である義堂誠一に、御守と鹿屋野の当主二人。そしてこれから芽吹くであろう、まだ見ぬ若き才能たち。
異能課課長として、年長者として、それらを導けというのだろう。
身に余る大任であると思う。だがそれでも、この義父はその苛烈な人生の最後でそれを自分に託した。
『国家最高戦力』の妻として、その意味と覚悟が痛いほど分かった。
心に、小さな火が灯る。
「……はい、お任せください」
そして純子は静かに瞼を開けた。
「礼を言う。あ奴の妻が、お主で良かった。
――そうだ。最後に孫の名を、教えてくれんか」
「……冴里です、齢は五歳になりました」
純子は僅かに視線を上げ、答えた。
想いは託された。
だからもうこの人の前で涙を流すわけにはいかない。
純子は今にも震えだしそうになる体を必死に抑えながら、白秋の最期を見届けようとする。
「そうか」
白秋は感慨深そうに頷き、そして夜空を見上げた。
今聞いた名も、おそらくはすぐに掻き消えてしまうのだろう。
だが決して無意味ではない。それは白秋の心に広がる情動が証明している。
ふと夜空の中に、蒼き翼が煌めいた。
「……来おったか」
白秋がそう呟くと蒼翼は僅かによろめきながら高度を下げ、目の前に着陸する。
そしておよそ三十あたりの男が一人、ゆっくりと立ち上がった。
「八坂……」
「悪い義堂、とんでもなく時間食っちまった。
この非常時に、面目ない」
そう返答しながら、英人は白秋と向かい合う。
そして面頬の下にある瞳を見た瞬間、英人は彼の覚悟と思惑の全てを理解した。
「刀煉さん、まさか……」
「……先の戦いぶり、見事だった。京都を代表して礼を言う。
貴殿のお陰でこの古の都は救われた」
白秋は小さく頭を下げる。
「……これしか、ないと?」
「ああ。下手に攻撃したとしても、かえって呪いが拡散する恐れがある。
それならここで封印してしまった方が確実だろう。
お主には、残敵の掃討を頼みたい」
そして両者は沈黙したまま、互いに視線を交し合った。
より多くを生かすために、己が犠牲となる。
かつて『英雄』だった英人にとって、そのような場面に出くわしたことは一度や二度ではない。
それどころか自身がそれをやりかけたことすらある。
だがそれでも一人の気高い戦士が礎となる光景は、慣れるものではなかった。
(……でもだからこそ、その誇りと覚悟を蔑ろにすることはあってはならない、か)
英人は呼吸を整えるように小さく息を吐く。
「分かりました、残りは俺に任せてください。
必ず、全てを討ち果たします」
「ああ、頼む」
そして白秋は次に杜与と湊羅へと顔を向けた。
「白秋様」
「……刀煉のじーちゃん」
「今更、お主たちに言うことはない。
元々実力は申し分ない訳だからな。
後はその心持ちだけだったが……もう、大丈夫だ。お主たちはもう立派に、『護国四姓』を務めていける」
白秋が深く頷くと、二人は目には涙が溢れた。
だが、二人ともそれを拭うことはしない。ただ必死に目を見開いて見つめ続ける。
『護国四姓』の当主として、彼の最期の姿を一瞬たりとも見逃すことのないように。
そして、最後の時。
「……白秋さん」
「まさか、お前が最後の弟子になってしまうとはな。
あまり面倒を見てやれなんだ」
「いえ、そんな……!」
義堂は頭を大きく横に振って否定する。
確かに、彼に師事した期間は短い。だが共に鍛え、共に戦い、多くのことを学んだ。
誰よりも義堂がそのことをよく分かっている。
でもだからこそ、その唐突な別れに一番戸惑っているのも義堂自身だった。
「白秋さん……!」
嘆くような、悲しむような、そんな複雑な表情を義堂は見せる。
それを見た白秋は小さく笑うように顔を震わせ、
「――後は、任せたぞ」
静かに、『大封印』跡へと振り返った。
「あ――!」
反射的に、義堂の手がその背中へと伸びる。
引き留めようとしたのか、ただ名残惜しかっただけなのかは分からない。
しかし、その手を静かに制する者がいた。
「最高の男が、人生の最後に最高の仕事をすると言うんだ。
それを止めてはいけない」
「リチャード・L・ワシントン……」
それは燃えるような金髪をした、合衆国の『国家最高戦力』。
白秋と共に長年、同じ戦場を戦い抜いてきて人間である。
つまり彼ににとっては人生で一番付き合いの長い男であったが、白秋は振り返らなかった。
ひたすら前だけを見、ゆっくりと歩を進めていく。
「行け、わが友よ」
「言われずとも」
ただその交わした一言だけが、彼らにとっての餞別。
そして白秋はそのまま『大封印』跡へと突入した。
――――――
『大封印』跡では、壮絶なまでの邪念が渦巻いていた。
千年もの間『四厄』を始めとした怪異が封印されていたこともあってひどく汚染されていたのだろう。
さらにそこへ木蓮の無念と憎悪までもが加わり、周辺はさながら邪念の暴風雨となっていた。
「……ぐぬぅ……っ!」
白秋は両腕で苗木を守りながら、一歩ずつ邪念の奔流の中を進んでいく。
本来であれば即座にその精神ごと汚染されてしまいそな状況だったが、封印を確実に施す為にも出来るだけ中心部へ行かなければならない。
しかし『無双陣羽織』によって精神そのものが摩耗しきったことが、ここに来て幸いした。
汚染する対象がなければ、そもそも汚れようがない。
だが精神の摩耗は、確実に白秋の記憶を刈り取っていく。
何故、自分がここにいるのか。
何故、自分は歩かなければならないのか。
もう何もかもが擦り切れてしまって分からない。
だが、それでも。
「――――ぬ、う……!」
白秋は掠れる意識の中でさらに大きく一歩、足を踏み出す。
進む理由はとうに忘却の彼方へと消え失せた。
だがやるべきことは、この魂が鮮明に覚えている。
あと、もう一歩。
悲鳴を上げ始める体に喝を入れ、ゆっくりと重心を前へ前へと持っていく。
「動、かんか……っ!」
距離にして二メートルもないはずなのに、それが果てしなく遠い。
スローモーションのように間延びしていく感覚の中、意識だけが白むように希薄化していく。
そして最後の想いすら、掻き消えそうになった時。
「――よう、八十二代目」
いないはずのない人物を、見た。
それは白秋にとって初めて会う男だった。
だが彼が誰なのかは本能的に分かった。
「…………初代、様……」
西金神社初代当主、刀煉一秀。
その超常の武勇を以て『四厄』を打ち倒し、都に平和と安寧をもたらした英雄。彼がいなければ、今の日本はなかったかもしれない。
そんな傑物が今、白秋を歩みを見つめていた
笑うでもなく憐れむでもない、ただ穏やかな表情で。
「――お前が、繋げ」
声が、直接精神に響く。
途切れかけていた意識に再び熱が入り、脚は力でそれに応える。
「お、おおおお――!」
一秀の横を追い越すように、白秋は大きく一歩を踏んだ。
そして勢いよく苗木を持った手を振り上げる。
そうだ、己の役目は繋ぐこと。
死とは終末に非ず、それは命と想いの接結であるのだ。
白秋は苗木を孔の中心へと突き刺す。
「『木呪封式・沙羅双樹』――!」
その日、一本の巨大な神樹が天を衝いた。
それは終戦より七十五年、平和と安寧の裏で必死に戦い続けた男の、その魂の結晶。
そしてその根元には、主なき深紅の甲冑が形見のように横たわっていた。
――――――
――――
――
『――久しいな』
『……親父』
『おっと文句は聞かんぞ。
先に逝ったのはお前の方だからな』
『……はは、それもそうか。
でも、もう少し長生きしたって罰は当たらなかっただろ』
『いや……十分。もう、十分さ。
後は彼らが、やってくれると信じている』
『……そうか。
じゃ、俺たちはここから見守るとするか、後に続く人達の生き様を』
『ああそうだな――金秋』
次回、京都編最終話。