京都英雄百鬼夜行㉟『最後の記憶』
「ナナシノゴンベエ、だって……?」
『聖剣』が放った言葉に、英人は思わず眉を吊り上げた。
ナナシノゴンベエ――つまりは名無しの権兵衛。その意味するところは、日本人であれば誰しもが分かる。
だが英人のような『異世界』関係者にとってその言葉は、全く別の意味を持っていた。
それは今も『異世界』全体に語り継がれる、伝説の『英雄』の名前。
英人からすれば少々馬鹿らしく聞こえてしまうが、『異世界』では今なお勇敢な者を褒め称える際の形容に使われたりもする。
『とりあえず適当に名乗ってたのが定着しちまってな。
ま、そもそもが第二の人生みたいなモンだったし、後にして思えばぴったしな名前だったよ』
「つまりアンタが、千年前に魔王を倒した『原初の英雄』だと……?」
『そうだ、俺こそが千年前に世界を救った最強の英雄。
そしてお前等の先輩にあたるというわけだな。しっかり敬えよ?』
そう言ってナナシノゴンベエを名乗る『聖剣』はくいっと刀身を動かす。
無機物であるがゆえにその表情を読み取れるはずもないが、ふてぶてしく笑っているだろうことは明らかだ。
『貴様……まさか……』
そして『聖剣』の姿を捉えた『空亡』が、僅かに震えた声を発した。
『おお永木木蓮か。久しぶりだな。
しばらく見ないうち何と言うか……随分と大きくなったな』
『刀煉、一秀ぇ……っ!』
『聖剣』の正体が刀煉一秀だと確信した瞬間、『空亡』は湧き上がる憎悪を呪力へと変えて収束させる。
これまでで一番の濃度と量、もはや目の前の景色全てを消し飛ばさんとする構えだ。
『ん……? 何だか知らんが、怒らせてしまったか?
しょうがない、おい後輩よ』
「後輩……。
まあ確かに、そうではあるんだろうが」
『細けぇことはいいだろう。
それより今から俺が力を貸す、備えろ』
「力?」
未だ半信半疑、といった表情の英人に『聖剣』はぐいっと顔を寄せるように近づいて呟いた。
『お前も覚えがあるだろう……あの時使った、俺の力だよ』
「……!」
『聖剣』の言葉に英人は目を僅かに見開く。
彼の言う力とはもちろん、『原初の英雄』の力だろう。
千年前は言うに及ばず、二年前においても英人はその力によって魔族の長たる『魔王』を倒した。
『どうやらお前さん、少しばかり俺のマネが出来るようだが……まあ現状やるのはきちぃだろ。
今回はお試し版ってことで、俺が直々に力を捻り出してやるよ』
「ふっ、だったらアンタが直接やりゃあいいだろ。
その方が手っ取り早い」
すると『聖剣』は呆れたように刀身をぶんぶんと左右に振り、
『かーっ! 分かってねぇな!
ほら見たら分かんだろ!? 今の俺は剣一本に虚しく寄生する魂の残りカスだ!
とても自力じゃあ戦えねぇよ、いくら俺でもな』
「そういうもんかよ……」
英人は怪訝な顔で『聖剣』を見つめた。
本当に『原初の英雄』なのか、なぜ『聖剣』に魂が宿っているのか、疑問が山ほど湧いてくる。
しかし今それを聞いている暇はない。
『ほらそれより、来るぜ』
前方を見ると『空亡』は呪力の収束を最大限まで高め、ほぼ秒読みの段階へと入っている様子が見えた。
攻撃の性質上、避けたり逸らしたりする選択肢は最初からない。
全力であの漆黒の閃光を真正面から叩き潰すしかないのだ。
『忌々しい……鹿屋野も刀煉も、そして我の前を飛ぶ羽虫も、皆消えよ!』
大地が唸るようなその怒号は、大気どころか山すら揺らす。
『よっしゃ後輩、俺を掴め!』
「……くそっ!
吹いたからには出し惜しみなんかするなよ、『原初の英雄』!」
英人は覚悟を決め、まるで拳を突き出すように『聖剣』の柄を勢いよく掴む。
『ははっ、中々吠えるじゃねーか!
いいぜ、ありったけをくれてやる!』
高笑いを上げながらさらに眩く光だす『聖剣』。
そしてその瞬間、英人の肉体に千年前の『英雄』の力が流れ込んだ。
「お、おおおおおおっ!」
あまりに膨大な量の想いと願いが、一挙に五体と脳を駆け巡る。
『原初の英雄』こと刀煉一秀は、英人と同じく『異能者』だった。
そしてその能力の名は、『英雄』。
人々の想いと願いを力に変える力である。
「っ……!」
そして英人は今、京都市民百四十万人の願いを一身に引き受けた。
頑張れ、負けるな、行け――そんなひとつひとつの真摯な想いが集まり、まるで滝の如くその双肩へと圧し掛かる。
すさまじい、重圧。
思わず投げ出してしまいそうになる。
だが、
『重いか?』
「百四十万の願い……軽いなどと、口が裂けても言えるか」
逃げるわけには、いかない。
英人は奥歯を噛みしめ、『聖剣』の切っ先を『空亡』へと向ける。
『英雄』とは古今東西、人の想いと願いを受ける存在。
無論それらは行き過ぎれば、時には心身すら押し潰す程の残酷な錘となるだろう。
だがそれらを受け止める器を持つ者だけが、歴史にその名を刻んできた。
今、かつて『英雄』と呼ばれた男は再びその領域へと足を踏み入れようとしている。
『……小癪な。
人の意思如きが、闇に勝てるか』
「なら試してみろ……その闇ごと、お前を斬り裂く……!」
溢れる光は収束し、左腕と聖剣に宿る。
その輝きはまさに、闇を煌々と照らす太陽。
空気が震え、刹那のあいだ時が止まる。
『――やっちまえ』
『暗夜凶星!』
「『魔を断ち、光指し示す剣』!」
そして闇と光の奔流が、京都の夜空でぶつかった。
――――――
その男の第一印象は、「大人の図体をした童」だった。
『ほーお、ここが都かぁ。
初めて来たが、中々のモンじゃねぇか。
酒に遊びに飯に喧嘩……ここならより取りみどりだな、ははははは!』
その男は、はるか坂東の地からやって来たという流れの武芸者だった。
しかし武芸者と言っても鎧や兜などは持たず、ただ一振りのの太刀だけ。恰好はいかにもみすぼらしい。
『……ん、ああ名前?
とりあえず姓は無ぇ、ただの一秀だ。
どうだ、いかにも優秀そうな名前だろ? まあ実際強いんけどな、はははははは!』
そんな山賊まがいの男の特徴は、一言でいえば豪放磊落。
よく呑み、よく笑い、よく喋り、よく遊ぶ。まさに「俗」にまみれた性格だった。
『で、ここには三厄っつうとんでもなく強ぇ化物がいるんだって? いいね、腕が鳴る。
つぅわけで俺にもその討伐に混ぜてくれや、呪術師さんよ。
えーと名前は、』
『……永木、永木木蓮だ』
『おぉなるほど永木殿か。
んで結局俺はその化物退治に参加してもいいってことだな?』
『良いわけがなかろう。
おい、誰かこいつをつまみ出せ』
『え』
『三厄の退治は我等で十分だ。
貴様のような流れ者に付き合っている余裕はない』
『ちょ、おいおいおい待ってくれよ! せめて技だけ見てけって!
嗚呼くそせっかくここまで来たんだ、俺は絶対戦うからな!』
『……ふん』
それがその男、一秀との最初の邂逅だった。
といっても無理難題言う奴を門前払いしただけの、何の変哲もない会話だ。
しかし奴は己のよほど技量に自信があったのか、その後も諦めることなく『三厄』との対決をしきりに望んだ。
その欲求はかなりのもので、しばしば都に繰り出しては「三厄と戦わせろ」と声高に叫び続けたほどであった。
こちらとしても既に永木家を中心とした京都の防衛体制が整った以上、流浪者一人と言えど勝手な行動を許すわけにはいかない。
なので結局は訓練所として使っていた西の神社にこの男を放り込み、大人しくさせることにしたのだ。
そしてそれから僅かひと月だった、京都に異変が起こり始めたのは。
自然発生していた『怪異』が、急激に数を減らしたのだ。
急遽調査を開始すると、民は口を揃えてこう言った。
『一秀様が、一瞬で倒してくださった』と。
すぐさま呪術師たちを連れ、その事実を確かめるため神社へと向かった。
するとそこでは、
『……ん、おぉ永木殿か。
ひと月ぶりだなぁ、壮健だったか?』
『……一体、何をしている』
『ん、ああこれか? 別にここの連中に少しばかり稽古をつけてるだけだ。
人に物を教えるのは趣味じゃあないんだが、どうしてもとせがまれてなぁ。
ま、なにぶん居候の身であるし、宿代がわりにこうして付き合ってやってるのよ』
そうぶっきらぼうに言いながら男は流れの者たちに武術と、そして鍛冶の技術を教えていた。
というのも男には刀鍛冶の心得もあり、太刀も自らの手で打ったものだという。
礼儀も知らず、教養らしい教養もないこの「俗」まみれの男が、人に物を教える?
最初は何の冗談かと思った。
だが彼の教えを受ける者たちの視線は全て、尊敬と羨望の念で溢れていた。
――嫌な、予感がする。
『……最近、都に現れる怪異が減っているが、兄がやったのか?』
『ああ。まあここでじいっとしてても体が鈍るだけだしなぁ。
軽い運動にもなるし民草にも感謝される、一石二鳥だ……何か不味かったか?』
『いや……大丈夫だ』
まさに、その時だったのだろう。
この男に微かな恐れを抱くようになったのは。
そしてあの夜を経て、その恐れは現実のものとなる。
あの男は一人で『三厄』を打倒し、都における名声を欲しいままとしたのだ。
さらに朝廷からは官位をもらい、「刀煉」という姓まで下賜された。
これまで必死に積み重ねてきた物を、汚された気がした。
千年に一度の天才と持て囃され、努力を積み、人を集め、ようやくここまでやってきたのだ。
なのにこの男は、自らの腕一つでその全てをかっさらっていってしまう。
地位も、名声も、野心も。
ふざけるな、それは我の物だ。誰にも渡さぬ。
そう、だから奪い返そうと思ったのだ――奴を殺してでも。
そしてとある夜、我は少数の供と一秀の屋敷に討ち入った。
だが、
『こんな夜更けに何か用かい、永木殿?』
奴はまるでこちらの考えを読み取っていたかのように、胡坐をかいて待ち受けていた。
『ぐっ……貴様、我らの企てを知っておったのか……!』
『企みぃ?
いや、あんたらがドタドタと五月蠅いから起きただけだが。
しかしその姿……成程、俺を殺しに来たってわけかぁ。うぅむ、参ったなこりゃ』
そう言って寝間着姿の一秀は眠そうに頭を掻く。
余裕の表れなのか、その仕草一つ一つが異様なまでに腹立たしい。
だがそれも、次に放った一言には及ぶまい。
『……よし、ならこうしよう! 俺は明日には都を去る!
もらった官位も永木殿に譲るし、これなら文句ないだろう?』
この男は、一体何を言っているのだろうか。
無神経を通り越したその言葉に頭の中は一瞬にして絹のように真っ白になり、そして今度は硯をひっくり返したようにじんわりと黒く染まっていった。
『いやぁ三厄も倒したし、いい加減ここから発とうと思っててな。
なんでも連中の話によると、奴等どうやら現世ではない所から来たというじゃないか。
つまり、まだまだ俺の見知らぬ化物どもがどこかいる……俺としちゃあ官位よりもそっちの方が惹かれる』
武器を持った人間に囲まれているというのに、奴はまるで童のように意気揚々と話しだす。
『しっかし現世ではない世界とは、どう行けばよいのか皆目見当もつかないんだよなぁ。
とりあえず蝦夷へ行ってみようと思うが……永木殿、なんか知らんか?』
話のほとんどは耳から抜けていったが、それでも分かったことがある。
この男にとって、地位や名誉といったものは塵芥に過ぎないのだ。
ただ己の力と技、そしてそれを試せる敵さえいればそれでよい、そういう性分なのだ。
つまり、彼は「俗」とは程遠い人間。
よっぽど「俗」でみずほらしい姿をしているのは、我の方だったのだ。
『……知らぬ』
目の焦点も定まらぬまま、屋敷を出る。
そして次の日、その様子を隠れてみていた茅木家の告発によって、永木木蓮は謀反人となった。
地位と名誉全てを失い、逃れる日々。
手元に残ったのは、永木家の家宝である小さな勾玉のみ。名は『転生玉』と言う。
茅木家の『輪廻玉』とは対となる秘宝だ。
『……もういい。も何もかもが憎い。
だから全てを、壊す……ただそれだけの存在に……!』
願いは、聞き届けられた。
その日より我は、人の身でありながら『怪異』をも手に入れたのだ。
そして配下とした『怪異』どもを引き連れ、都を力のままに全てを壊し、殺し、蹂躙する。
民も、役人も、貴族も、呪術師も。
嗚呼、何故最初からこうしなかったのだろう。
人の作った地位も名誉も無意味。力による支配こそが正しいのだ。
さあ、ここまできたらいよいよ残るは帝。
『怪異』を引き連れ、大内裏まで迫ったその時。
『……刀煉、一秀』
『――哀れ也、永木木蓮』
その憐みの瞳が、千年前の最後の記憶だった。
――――――
――――
――
(こんな、古い記憶を……。
何故、今となってそんなものが頭に浮かぶ!)
かつての記憶を振り払うように、『空亡』の意識は覚醒する。
(これではまるで、走馬灯ではないか!)
それは、彼にとって思い出したくもない忌まわしい過去そのもの。
だからこそ、それを塗りつぶすために彼は自身が闇そのものとなる事を選んだ。
『グ、ウ……!』
『空亡』は痛む頭を押さえつつ、起き上がる。
目の前には翼を羽ばたかせて浮かぶ青年が一人。
しかし大技の代償か左腕は力なく垂れ下がっており、息も上がって額には大粒の脂汗が浮かんでいる。
(勝機……!)
追撃をかけるなら、今――そう思った時。
(……起き上がる?)
ふと、『空亡』は自身の違和感に気づいた。
そもそも『空亡』の姿は球体、起き上がるも何もない。
なら何故いま、自分は起き上がったと錯覚してしまった……?
『空亡』は自身の肉体を見る。
『……ナ、な、なあああああっ!」
そこにはその九割近くが吹き飛ばされた黒き太陽と、その中で無残に焼けただれた自身の肉体があった。
木蓮の口からは思わず悲鳴のような声が漏れる。
「な、何故……っ!
何故この我が、あのような若造一人にぃ……っ!」
『あたりめぇだろう。
せこせこ集めた邪念如きじゃあ、人の純粋な想いに勝てん。
英雄を嘗めるなよ……おら後輩、終幕だぜ』
「ああ……これで最後だ。
行くぞ!」
英人は歯を食いしばり、『聖剣』を構えて木蓮の目を睨む。
「あ、あ……!」
「滅べ、永木木蓮!」
その覚悟の瞳が、最期の記憶となった。